悩ましき「月が綺麗ですね」問題
妻を愛するたんばりん様のおのろけエッセイ『今宵は月が綺麗ですね』を拝読して、うら若き頃を思い出して書きました。
まだうら若い頃、本好きの男性に出会った。
彼はかなりの読書家のようで、特にローマの歴史物を好んでいた。熱のこもった歴史オタクという訳でもなく、話題作や新作から新書まで、海外作品もライトノベルも読む人だったので、「本の虫」とはこういう人の事を言うのだと思った。
私も歴史の勉強をしたことがあり中高生にレクチャーできる程度の知識はあった。彼のメアドがローマの歴史にちなんだものだと気が付いたことが会話の糸口になった。
彼のローマ好きは私の常識程度の知識とは話にならない高レベルなので、ローマの話題は早々に引き上げたかったが、彼にしてみれば、滅多に出会わないローマ史を知っているっぽい人の登場に気分は上がっていた。「そんなに詳しくはないんです」という私の言い訳は聞こえているのかいないのか、単なる謙遜と思っているのか、話がどんどん進む。
歴史は好きだが、贔屓の歴史上の人物を私は持ってはいない。
推しの戦国武将がいて、熱狂的にゆかりの地を訪ねる聖地巡礼などもしたことがない。どの武将の関連書物も集める程でもない。非業の最期を遂げたとしてもそれは物語の話であって、美しく仕上がった幻想だから「この人生物語は半分架空です」と思っている。その上で「大変ご苦労なさったのね」とその人の物語を楽しむ程度である。
若い時分には「僕は信長が好きなんですよね~。」と言う男性に出会った。歴史好きアピールだと思うけれど、口癖が「給料分しか仕事しない」と愚痴を言い手を抜く奴であった。お前なんかが信長様の部下になれるとでも思うのか?って話である。上司が信長ならばと妄想するなんて、どこまで自信過剰なんだか。
そもそも、語り継がれる信長様の奇行が事実ならば、相当のブラック企業であることは確かである。「給料分しか仕事しねぇよ、俺は」と愚痴をこぼしサボるお前なんかを信長社長は採用などしない。するとしたらそうだなぁ~。○○城建設の人柱にでもする時かなぁ・・・等とそいつのフォローをさせられる時には思ったものだ。
ローマ史好きの彼にも推しはいた。
メアドはローマの名だたる皇帝にちなんだ言葉。名は聞かずとも推測は出来る。
彼と仲良くなりたいと思い始めた私は、彼を退屈させないために多少のローマ史の知識を入れ始めた。本棚にローマ関連の本が数冊増え、マキアヴェッリの語録も少しだけ頭に入れるくらいのことはした。私も歴史は嫌いではないから読み物としても楽しんだ。下心っていい動機付けになるもんだ。
ある晩、彼からメールが届いた。
『月が綺麗ですね』
今宵は中秋の名月だ。東の空に昇った月は大きく綺麗に輝いていた。
夏目漱石が「I love you」を 「月が綺麗ですね」と訳したという話は私にすら届いている話であった。
本好きの彼ももしかしたら知っている話かもしれない。
しかし、今宵は満月。この月が綺麗ではないとは嘘でも言えない。
(どっち、どっちなのかしら・・・)
うら若き私は悩みつつも喜んでいた。どちらでもいいのだ。意味が「I love you」であろうがなかろうが、彼がどうでもいい内容を書いて寄こしたという事実に喜んだ。業務連絡ではない、どうでもいいメッセージを私にくれたことを喜んだ。
何か意味を含ませている可能性もあるとは思いつつも、ここは知らないふりで本当に月が綺麗だと書き、まだ仕事中だという彼に「お疲れ様」と返した。
ある冬の満月にも『月が綺麗ですね』とメールをくれた。
忘年会の一次会から二次会へ移動する道すがら送信しているという。これは、もしかするともしかするかもしれない。飲み会の場所を移動する最中にどうでもいい人にメールなんかしないでしょう!
「今から二次会に行くから帰り遅くなる」とかいう家族あてのメールならあるだろうけど、家族でもない知り合いの女にこのようなメールくださいますかって話だ。
決定的な言葉を口に出してくれたことはないけれど、もしかしたら少なからず想ってくださっているのかもしれない。どうしようかと数分考えている間に写真付きの新たなメッセージが届いた。
『これからここで二次会で~す』
写真は地元で綺麗なお姉さんが侍る賑やかなお店の入り口。
私とは全然タイプもスタイルも異なる美人が侍るお店。
「月が綺麗ですね」の後にこの写真付きのメール。
(うぅ~ん・・・どっちの意味だ?)
暫く考えたが、もう二次会もスタートしているであろうし、どうせ私のメールを見るのは翌日になるだろうから、『飲み過ぎないように楽しんでね。』と返信した。
桜が開こうとしていたある春の宵、またも満月がやって来た。
付き合っているわけではないけれど、親しくなったので今度は私から「月が綺麗ですね」と送信してみた。
返事はだいぶ時間が経って満月が南の空高くなった頃に来た。
一言、
「興味ないんで」
本好きであっても彼は古典や純文学の話は一度もしたことがなかった。漱石の「月が綺麗ですね」の話を知らないのだろうか。
それにしても知っているにしても、知らないにしても返しとしてはあまりにも冷たい返し。「あんたに興味ない」の意を込めたとしても、顔見知りの間柄なんだから少しは手加減した返しにしてほしいものだ。私もそこから色々推測して総合的な判断を下せるつもりなんだから。
盛り上がっていた自分に冷静さが流れ込む。俯瞰すれば勝手に期待して勝手にガッカリする自分が見えた。
その後、彼の打ち明け話によって、彼が本当に私に思いなど寄せていなかったことが確定した。
「月が綺麗ですね」=「I love you」と訳が成立するのは相思相愛の間柄だけである。しかも深い関係じゃないといけない。