09. 変わらぬ戦況
ヌチャ――。
微かに響いた足音を捉え、アルマたちもその存在を耳で認識する。何の警戒心も抱くことなく、淡々と揺れ動くその影は、やがて形となりその姿を現した。
大きく見開いた目つきと鋭く短い歯を並べた口元、太く盛り上がった腕を垂れ下ろし、手には棍棒を携えていた。その風貌は紛うことなきゴブリンそのものであった。
ヤムが伝えた通り、五匹のゴブリンが視認できる。先頭を陣取る一回り体格の良いゴブリンの後に、他の四匹がぞろぞろと並んでいた。
「前のでけえヤツは俺が仕留める。お前ら二人はあの片腕をやれ」
獲物から目を離さないまま、ボールが指示する。ボールが指す一匹は右腕がなく、先端が壊死したように黒ずんでいた。
「分かった。大きい方は頼んだよ」とケイルが答え、ゴブリンとの間合いを探る。
無警戒に歩むゴブリンは、アルマたちの左方へと抜ける形で前進を続けている。アルマは自分を落ち着かせるように息を整えた。
ケイルが片手で合図を示すのと同時に、ボールが飛び切る。虚を衝かれたゴブリンの喉元に手斧が突き刺さり、渾身の腕力で胸元へと抉り込ませた。苦痛に表情を歪ませながらも襲撃者を目で追うゴブリンに対し、すかさず脇腹へとボールの右足が食い込んだ。
その脇をアルマとケイルが潜り抜け、片腕のゴブリンに間合いを寄せる。アルマは左腕に、立て続けにケイルの剣先が喉を貫いた。二人の動作に反応することもなく、片腕のゴブリンは血泡を吹いてその場に崩れ落ちた。
残った三匹のゴブリンと対峙しつつも、アルマは大柄のゴブリンへと視線を向けた。片膝を着き突っ伏す体制のゴブリンに、ボールが意気揚々と見下ろしていた。そっちは任せて大丈夫だと、改めて眼前の敵に意識を切り替えた。
互いに間を測るようにゆっくりとした足運びであったが、一匹のゴブリンが逃げるように背中を晒し、後退した。咄嗟に踏み出してしまったケイルに対し、残りのゴブリンが俊敏に飛び跳ねた。
振り下ろされた棍棒をアルマはロングソードで受け止め、身を翻したケイルも打撃を避ける。ゴブリンはそのままアルマを押さえ込もうと、力の限りに棍棒を振り下ろす。ジリジリと刃が食い込み棍棒を断ち斬る寸前、ケイルを襲ったゴブリンが動けぬアルマへと標的を切り替える。が、ヤムの投げた短剣が迫るゴブリンの肩を射抜き、それを制した。アルマは下半身に力を込め、圧し掛かる棍棒を全身を使って斬り跳ねた。
バランスを崩し無防備に前屈する形となったゴブリン。その隙だらけな脇腹をアルマは力の限り斬り上げた。ぱっくりと開いた肉から血飛沫を巻き上げ、程なくしてゴブリンは力尽きた。
流れる様でアルマの剣先は、残ったゴブリンへと突き立てられる。呼応するように猛々しく棍棒を振り上げるゴブリンであったが、注意の削がれた背中にケイルが斬り込んだ。
ゴブリンの動きが止まる。その好機に狙いを定めたアルマであったが、ヒュッと、風を切る物音に身体が反射的に動き、鈍い地鳴りが鳴り響いた。
獲物を捉えんとするアルマを目掛け、大柄のゴブリンが棍棒を振り投げたのだ。単純な攻撃であるが、当たれば致命傷にもなり得たほどに、地を削り棍棒は突き刺さっていた。
「この、てめぇッ!」
ボールは大柄のゴブリンに荒々しく飛び掛かった。だが、叩き込まれるその一撃を避けることなく、大柄のゴブリンは素手で受け止める。肉が潰れる不快な音を立てるが、怯むことなく大柄のゴブリンは掴んだ手斧ごと、ボールを叩きつけた。身体が地面に打ちつけられ、全身を走る衝撃にボールは耐えきれず、その場を動けないでいた。
ヤムがボールを庇うように素早く立ちはだかり、次の攻撃に備える。しかし、大柄のゴブリンの標的はヤムたちではなく、アルマであった。
威嚇するように叫びながら大柄のゴブリンは、逞しい身体を活かして突進する。愚直ではあるが激しい勢いに気圧され、アルマはただ逃げ避けるしかなかった。
「喉を掻っ切られても――まだこんなに動けるのかッ」
流れ落ちる血を巻き散らしながらも、戦意を失わない凶暴さにケイルは驚き、無意識に足を退けていた。事態は彼らに追い討ちをかけるかの如く、朽ち果てたと思われた二匹のゴブリンが、よろよろと立ち上がり始める。
「クソッ! こっちもか」
動揺が隠せないヤムは、ゴブリンの執拗な執念を目の当たりにして、慄き身体を小刻みに震わせていた。
このままではゴブリンの勢いに呑まれてしまう。そうなってしまっては、体制を立て直すことも難しい。まだ有利な戦況であるが、皆の焦りにアルマは危惧した。
アルマは魔源を集中させる。崩される前に、押し戻す。それがアルマの判断であった。
だが彼らの予想に反し、起き上がったゴブリンは戦う素振りを見せず、後退し始めたのだ。
「逃げた?!」
ケイルが驚く。無様で恥知らずな背中を目の当たりにして、再びケイルの戦意は奮い立った。地に張付いた足を剥がし、その獲物を狩らんとするケイル。だが、大柄のゴブリンがそれをさせまいと、大きな身体で行く手を立ち塞いだ。
「離れて下さいッ」
アルマが叫ぶと同時に、ケイルは転がり込むようにして身を丸めた。荒々しく呼吸を刻むその喉元に向け、火炎弾が注ぎ込まれる。
破裂音と共に上体を仰け反った大柄のゴブリンは、踏ん張る力もなく二、三歩後ずさると、とうとう仰向けに崩れた。頭部を焼き溶かし勢いの失った炎は、白煙の狼煙を立ち上がらせていた。
「火の魔法を使えるとは驚いた……」
感嘆の賛辞を述べると、ケイルは力なく笑った。鈍い様であったが、身体を引き起こすボールをケイルが気遣う。心配するなと、ボールは片手を振って応えた。
ただ無言で一点を注視するアルマに、ヤムは気づいた。
「逃げて行ったゴブリンを探さないと」
「追えるか?」
焦りと苛立ちがケイルの口調から垣間見える。逃げたとはいえ二匹は手負いだ、見失うことはない。ヤムは自身に言い聞かせ、周囲を探り始める。
動くモノが魔源を介してヤムに伝わる。すぐさま位置を割り出そうと集中するが、同時に不鮮明な影に気を逸らされるヤム。注意深く探るよりも早く、掴んだ影はスピードを速めた。
「正面だッ!!」
ヤムが叫ぶ。ヤムよりも早く無数に響く足音に、既にアルマは態勢を取っていた。
再び姿を現したゴブリンは、一定の距離でピタりと動きを止め、様子を伺うように左右に体を揺らし遊ばせていた。そして、諦めたようにゆっくりと後退し、徐々に姿が消えていく。
不可解な動作に、アルマはいささかの疑念を抱いていた。逃げるというよりは――誘い込むという狡猾さが垣間見えるのだ。
そんなアルマとは正反対に、止める間もなくボールが無謀にもその跡を突っ走る。
「舐めんじゃねぇぞ、クソが!」
力任せに落とし込んだ手斧は、容易に避けられ空を切った。鈍痛に響く身体を素早く立て直すボールに対し、ゴブリンは地を蹴り上げた。飛翔した土泥がボールの顔に降り注ぐ。庇い上げた左腕を掻い潜り、口元に付着した泥と一緒に唾を吐き捨てたボール。視線は決して離さず、一気に距離を詰め一撃を繰り出す――筈であった。だが、狙い打った斬撃はゴブリンをかすめるどころか、あらぬ方向へと弧を描き、そして、アルマたちの視界からボールの姿は消えた。
果樹が潰れるような重い音と共に、ボールの体が吹き飛ばされたのだ。宙を舞ったボール自身は、何が起こったのか理解せぬまま凛と反り立つ木へと衝突し、地へと倒れ落ちた。ボールの右肩は青黒く変色し、左腕は普通ではない方向に垂れ下がっていた。
けれど、ボールの一連の様を誰も目で追いかけることはなかった。それ以上に彼らの視線を凍りつかせてしまうそのモノを、アルマたちはただ唖然と見上げていたのだ。
大柄では言い足りないほどの一回りも二回りも巨大なその図体。張り裂けんほど盛り上がった筋骨質な半身には、無数の古傷が切り込まれている。憎悪に染まった眼光で見下ろし、圧倒的な威圧な発するその魔物。
―――ビッグゴブリンであった。