07. それでも譲れない心情
「はぁ~」
しばらくぶりの入浴に、自然とアルマから喜びが溢れる。広がる刺激が全身を包み込み、身の毛が逆立つほどの快感であった。
「ふぅ~」とまたさらに一息。
同様にアリサも至福の息を漏らし、噛み締めるように目を閉じリラックスしていた。
アルマは気づかれないように、隣に腰掛けているアリサを覗き見る。張り合うほどの自尊心はとうになくても、嫌でも敗北を知らされるアリサの身体つきに、くそうと心の中で悪態をつく。
それに比べたら、とアルマは自分の身体へと視線を下げる。貴娘とは程遠い傷跡と、平凡的な身体つきに落胆のため息が出た。
胸は邪魔になるとはいえ、アリサのような主張し過ぎず、それでいて控えめでないサイズは、残念なアルマからすれば羨望の対象である。そんな一人負けの彼女に、アリサはそっと話した。
「アルマの表情、好きよ。素直で」
ジロジロと観察しすぎたのだろうかと、アルマはバツの悪そうに唇を噛んだ。
「ほら――ね」
正面に移ったアリサは伸ばした左手を止め、少し考えたように、そして、アルマの右頬に滑らした。
目先の刺激に、同姓でも視線の置き場に困るアルマ。何か言い返そうと意識すればするほど、浮かび上がった台詞はたちまち色を失う。感情の羅列が渦巻く星のように駆け巡り、掴んでは掌をすり抜ける中でも、
「アリサは……ちょっと怖いかな」と頭よりも先に口が開き、声に出して、そして、少し自覚する。
「うわッ、失礼ね」
軽くあしらう口調であったが、頬に触れた左手を引き、アリサはそっと首筋の印を覆い隠した。予想しなかったその反応に、アルマはチクリと心を痛めた。
だからこそ今度は慎重に、それでも、ありのままの心情に従いアルマは言葉を紡いだ。
「いきなり契約だからって言われて、最初は戸惑ったけれど、今は楽しい――嬉しいのかもしれない。でも、それに終わりがあるのだとしたら、怖い……な」
言葉尻を弱めてしまうほどに、最後は動揺を隠せなかったアルマ。いつもの調子で笑い飛ばされれば、幾分か彼女も気休めにはなっただろう。
そう、とだけ返したアリサの声は、雑音のように生々しくアルマの耳にしばらく残っていた――。
二時間は経つだろうか。アリサに懇願され半ば強制的に連れられた酒場で、アルマはうなだれていた。
酔いではない。アリサに対してだ。ドワーフ顔負けの勢いでビールを流し込み、ベタベタとアルマに絡み、興味本位で声を掛けてきた男たちに喚き散らす。ただでさえよそ者で目立つ二人組だ――魔女であることを隠したいじゃないのかと、アルマはツッコミを入れたくなる。
「あれ、もうのめないの。アタシのほうがおおくのんでるのに」と何度目かの勝利宣言を口にするアリサ。
既に邪魔臭くなり、反応すらしないアルマの髪をクリクリと弄り、またビールに手をつける。衛兵の頃にも体験したことのない状況に、底無し沼を突き破り地獄へと突き落とされた感覚であった。
そんな魔女地獄が広がる酒場の一角に、三人の男が腰をつける。武具をまとったその身なりだけで、ただの村人ではないことは明らかであった。
ビールをテーブルに並べながら、女性店員が心配した声色で尋ねる。
「どうでした?」
「だいぶ絞れてきたって所かな」と大柄で筋肉質な禿げ頭の男が話しだし、出されたビールを一気に飲み干した。
「本当ですか」
「もうじき解決できますから、安心して下さい」
落ち着かせるような物言いで、長髪の男は微笑んだ。女性店員もぎこちないながらも、
「じゃあ、今日も沢山食べて精をつけて下さいね」と笑顔で厨房へと戻って行った。
「キザったらしいなぁ、ケイルも」
大柄の禿げ男は、長髪の男をそう呼んだ。
「まー、それだけ不安ってことだよ。誰しもお前みたいではないからね」
軽口を返したケイルに、
「場数が違うからな」と大柄の禿げ男は誉め言葉として受け取り笑った。
「でも、悠長にはしていられないよ」
小柄な少年のように幼い顔つきの青年が、二人の顔を見渡す。
「そうだな。余り慎重になって後手に回っては意味がないからね。明日には片を付けよう」
ケイルが同意し、各々も首を縦に振った。
聞き耳を立てていたアルマは、彼らがゴブリン討伐に集まった傭兵なんだろうと、会話の内容から察した。明日という単語に、ゴブリンの居所は目星がついている口ぶりであった。
「アルってばッ。アタシのはなひ、きいてるの」
間の抜けた陽気な声が酒場に響き、男たちはアルマたちへと視線を向けた。咄嗟に顔を逸らしたアルマだが、反って男たちに印象づけてしまう。
男たちは小声で話したかと思えば、大柄の禿げ男が怪訝な声を発した。数回、観察するように見やった後、ケイルと青年が席を立つ。大柄の禿げ男が制止するように身を乗り出すが、構わず二人は歩を緩めずにアルマたちへと近づいた。
悪気はないが盗み聞きの形で気まずさはあったが、今更知らぬ振りを突き通すこともできず、仕方なくアルマは二人の方へと向き直った。その仕草にアリサも近づく二人の存在にやっと気づく。
姿勢を正し若干表情が強張るアルマに対し、関心もなくただ不機嫌でむしろ攻撃的なガンを飛ばすアリサ。対極的な歓迎に二人は困ったように最初の言葉を詰まらせた。お互いにとって気まずい沈黙が流れ、ケイルが恐る恐る口火を切った。
「えっと、失礼ですが、貴方達も討伐の方ですか?」とケイルが一旦区切り、続けて「唐突ですみませんが、見慣れない方々でしたので」
低姿勢な物言いであったが、アリサはその問いを鼻先であしらう。慌てて小声で諌めるアルマに、アリサは不貞腐れたように口を尖らせた。一言詫びの言葉を述べ、改めてアルマが答えた。
「ゴブリンの……ですよね」
「ええ。そうです」
人として至極真っ当な対応のアルマに、思わず上擦った声でケイルは肯定した。咳払いを挟み、ケイルはそのまま続けた。
「私達も数日前から、ゴブリンの討伐でゼナブ村に来ているんですよ」
勝手に勘違いし独りでに話し出すケイルを横目に、アルマはアリサの様子を伺う。訝しげな視線をケイルに向けていたが、アリサは黙ったままであった。
―――
ローブを脱ぎ捨て、窓を僅かに開く。夜風が火照った身体に心地よく流れる。そのままベッドに倒れ込み、ぼんやりとアリサは天井を眺める。ぐらぐらと歪む視界に羽目を外しすぎたかと、少しの後悔を覚えるが、それ以上に沢山笑ったと振り返る。
元々一人旅しか想像していなかったアリサであった。ただ単調で退屈な旅路の結末は、何一つ彩ることないただの白板だけが残ると考えていた。だからこそ、アルマとの巡り合わせは、初めて筆に手を重ねてしまう――そんな彩りに映っていたのだ。
感傷的な気分だと馬鹿らしく思えるアリサ。鬱々とした黒いモヤに、酔いも薄れるほどに最低な沈み方である。このまま流れに任せて落ちいければ、楽なのだろうか――。
「起きてたの、アリサ」
部屋に戻ったアルマは、意外そうな反応で声をかけた。
「ちょっと寝てた」と重々しく身体を起こすアリサ。
「そのまま寝ていればいいのに」
「んー、まぁ……」とポリポリと頭を掻きながらアリサは続ける。
「あいつらと何をはなひてたの」
まだ呂律が回っていないにアリサに、アルマは丁寧に説明する。適当な間で相槌を打っていたアリサだが、とうとう興味が無くなったのか話の途中で口を挟んだ。
「まぁ、アタシらにゃ関係ないことね」
簡単に突き放す態度に、アルマは少し語尾を強めた。
「そんな言い方はないんじゃない」
「なんでアンタがフクれんのよ」
「だって、困ってるじゃない。本当なら兵が来てくれるのに。それに傭兵だって村のお金なのよ」
「少なくとも支援金は出てるんでしょ」
「全部じゃないよ」
固い表情を崩さないアルマに、わざとらしくアリサはため息をついて見せる。多少間を空けてアリサは、
「それでもアタシらには関係ないでしょ。それともアルマもその討伐をする気?」と問いかける。
若干迷ったように視線を泳がせた後、アルマは覚悟を決める。
「……そのつもりだけど」
「なんか意固地になってるならやめな」
「そんなんじゃないよ。いつ村を襲うかもしれないんだ。放ってはおけない」
「だからさぁー、その討伐隊がやればいいじゃない」
「そんな話を聞いて、無視はできないよ。だって――私にとってコレは譲れない。アリサにどう言われようと、目を背けることはできないよ」
アリサに詰め寄り、アルマはただ純粋な気持ちで訴えた。その熱のこもった声色は、どこか苦しげな心情を浮き彫りにしていた。一度逃げ出したアルマは、否応にも反発の態度を強めるが、ただアリサには理解できない。
けれど、これ以上は延長線でしかないと感じたアリサは、本来の立ち位置を正す。何か見通すように深く暗く、そして冷たい瞳に刺され、アルマは全身が強張るような緊張を覚える。初めてアリサと対峙したソレに近いものであった。
「これは命令よ」
一言、アリサはそう口にした。そう命令であった。無意識にアルマは何度も頭の中で繰り返す。
命令である。
アリサがそうしたい。だから、アリサの望みを叶えたい。自分がやらなくても、この村には討伐隊はいる。村を救える彼らがいる。自分が居なくても、彼らが討伐する。後数日、村に着くのが遅ければ、それは武勇伝として語り聞いたに過ぎない。それまでの話だったのだ、とアルマは自分に言い聞かすように反芻する。
「――それでも、それをしたら……私は自分に負けてしまう」
アルマの瞳から自然と涙が溢れる。それ以上の言葉はない。涙を拭うこともなく、ただ真っ直ぐと顔を逸らさないアルマ。
先に根負けしたのはアリサである。プイと顔を背け、そのままベッドに突っ伏した。枕に顔を埋めくぐもった声であったが、
「じゃあ、好きにすれば」とそれだけを答える。それだけであったが、アルマは嬉しさの余りアリサに抱きつく。身体を捩る素振りをみせるアリサだか、耳は少し赤く色づいていた。
「明日の朝に出発だからね」
「……なんでアタシも行くことになってんのよ」
「えっ、アリサも行ってくれないの?」
「アタシが行くわけないでしょ」
「アリサが居てくれたら心強いのに~」
駄々っ子のようにアリサの肩を揺するアルマ。
「ご主人様の命令に逆らって、この上、ご主人様まで働かすってバカなの?!」とアリサは足をバタバタと振って、煩そうに非難した。
「アンタがやりたいんだから、アタシは巻き込まないでね」
もっともな言い分に、アルマはこれ以上は何も言えなかった。
「アリサの言う通りだよ。わがままを言って、ゴメン。すぐに戻ってくるよ」
身体越しにアリサの頷きがアルマには伝わった。少しの間そのままアリサに触れて、そして、背を向ける形でアルマは横になった。
「低脳なゴブリンが群れで動けることに気をつけなさいよ」と若干の間を置いて、アリサはボソリと呟いた。
「どういう意味?」と問い返すが、アリサは「いった通りの意味よ」と発しただけで、次の言葉はなかった。