僕の侍女は聖女様【前編】
僕の侍女はとてもかわいい。
彼女と出会い、彼女を僭越ながらこの僕が『拾って』から既に三年もの月日が経過するけれど、その認識は出会ってからこの方変わったことがないと認識している。
彼女の名前はジウ・ホリィ。語順や発音が厳密にいえば少しばかり異なるらしいけれど、ジウは「旦那様が呼んでくださる名前が私の名前です!」と笑顔で言い切ってくれるので大した問題ではないのだろう。まったく、つくづくかわいらしいと言ったらない。
この三年で艶めくようになった黒髪も、比較的肉付きがよくなったしなやかながらもほっそりとした手足も、呼びかければ薄紅色に染まる頬も、低めの小さな鼻も、愛らしくさえずる薄い唇も、それぞれどれを取っても僕の心を惹きつけてやまない。
そして何より、朔の夜を映したような深い色の瞳。あの瞳に宿るきらめく星のごとき光は、いくら見つめていても見飽きることはない。
僕にとって時間の概念はあまり意味のないものだけれど、それにしてもジウと出会ってからの三年という期間は、あっという間のものだったように思えるのだから不思議なものだ。
いやこれまで過ごしてきた月日を考えれば確かに三年なんて瞬き程度の時間に過ぎないけれど、まあそれはそれだろう。
ジウを拾い、この屋敷に連れ帰ってからというもの、本人たっての希望で彼女は僕の侍女として日夜甲斐甲斐しく働いてくれている。僕のために。繰り返そう。僕のためにだ。うん、かわいい。なんて健気でかわいいのだろう。
別にジウは僕の側にいてくれればそれでいいのに。ジウが望むのならば、どんな贅沢だってさせてあげるつもりなのに。それなのに彼女はそれを良しとしない。
今日も今日とて侍女として働く彼女は、やはり、うん。かわいいの一言に尽きる。
僕は今、屋敷のテラスに陣取って、ジウが淹れてくれた薔薇のジャム入りの紅茶を口に運びつつ、洗濯物と格闘しているジウの姿を眺めている。
僕のようなものにとって太陽の光は数少ない有効な武器の一つと言われているけれど、実際はそんなことはない。ただ僕らは基本的に昼に寝て夜に起きる生活を送っているだけだ。人の子だって朝に起きて夜に眠るけれど、別に夜が彼らにとって毒となる訳ではないだろう? つまりはそういうことだ。
ジウと出会う前は、かく言う僕もその例に漏れず、僕の活動時間は夜だった。けれどジウと出会ってからは、昼夜逆転した生活を送っている。ジウと供に過ごす時間を少しでも長くしたいがゆえの選択だった。その選択は間違っていなかったと自信を持って言い切れる。
そんな訳で、僕は今日も太陽の光が眩しい真昼間に、中庭に面するテラスに陣取って、甲斐甲斐しく働くジウの姿を見つめていた。このテラスに出てきた理由は、本当は読書をするつもりだったからだ。永き時を生きるこの身が持ち合わせる数少ない趣味の一つが読書だから。
本はいい。次から次へと世に送り出される新たな世界は、わずかなりとも僕の心を慰めてくれていた。けれど、この三年で、『読書が趣味である』とは若干言い難くなってきたのもまた事実ではある。それが何故なのかなんてわざわざ言うまでもないことなのだろうけれど、敢えて言わせてもらおう。
その理由、その原因は、ジウだ。
ジウ・ホリィという存在を見つめている方が、本を読んでいるよりもよっぽど楽しいことだと気付いてしまったからいけない。毎日を懸命に生きる彼女の姿を見つめているのは、読書に負けず劣らず……どころか、むしろこちらの方が楽しいのではないかと思うくらいなのだから相当なものだと言えよう。
僕の視線の先では、ジウが洗濯物を庭先に干している。風に煽られ濡れたシーツごと小柄な身体があおられそうになったところを、少しばかり指を動かして風を操り、彼女の身体を支える。
何かしら声をかけた訳でもないというのに、ジウは僕に助けられたことに聡く気付いたらしい。こちらを振り返り、はにかみながら頭を下げてきた。それに片手を上げてることで答え、読書を再開するふりをしながらこっそりジウの姿を窺う。
こんな爺さんにすらあんな風に顔を赤く染めるのだから、もっと若い魅力的な青年に対してならばどうなってしまうのだろう。より一層初々しい反応を、その若造に見せるのだろうか。
そう思うと少々……いいや、少々どころではなく面白くはない。僕が望んでこの年老いた姿でいるとはいえ、それでも面白くないものは面白くないのだ。
まさか自分が誰かに対して、あるいは何かに対して、こんな風に思うようになるとは思わなかった。ジウと出会う前の僕に教えてやりたくなる。君はいずれ途方もないほどの奇跡に出会うのだと。それほどに僕にとってジウの存在は重要なのだ。
本人は僕にこんな風に思われているなんてちっとも思っていないようだし、実際に口で伝えたにしても信じてくれないに違いないけれど、それでも僕はこの認識を改めようとは思わない。改められるはずがない。
だってそうだろう。三年前。僕とジウが今日に至るまでの始まりの日。
あの日、あの夜、あの時、あの瞬間、僕は確かに奇跡を感じた。
その奇跡がもたらしてくれた今の生活を、僕はこの上なく気に入っている。だから、それを邪魔するものは何であろうとも許さない。
「ジウ、ちょっといいかな」
「はい、旦那様。何かご用でしょうか?」
テラスの椅子に座ったまま、ジウがちょうど洗濯物を干し終えた頃合いを見計らって声をかける。すると彼女はぱたぱたと軽い足取りで、一般的な侍女服として普及している黒く長い裾のワンピースと白いエプロンを翻しながら、ジウが駆け寄ってくる。まるで子犬のようだ。何度でも繰り返すけれど、やはりかわいい。
くりくりとした朔夜色の瞳を輝かせて僕の元までやってきてくれたジウに、僕はトントンと指先で空になったティーカップを示してみせた。
「悪いのだけれど、紅茶のおかわりと、それからお菓子の準備を頼めるかな? なんだか口寂しくなってしまってね」
「かしこまりました。ただ、今すぐにお出しできるものを切らしておりまして、これから新たに作ることになるのでお時間をいただくことになるのですが……」
大層申し訳なさそうに眉尻を下げるジウに、僕は笑ってかぶりを振った。まったく、そんな顔をしなくていいのに。
僕がワガママを言っているだけだというのに、それでも僕にとっての最善と最良を尽くそうとしてくれるジウほど、いじらしく愛らしい女性はいないだろう。
「構わないよ。ゆっくり作っておくれ。時間ならたっぷりあるのだから」
「ありがとうございます。何かご希望はございますか?」
「それはもちろん」
「かわいくて甘いもの、ですね」
「ふふ、よろしい」
僕が続けようとした台詞を的確に汲み取り、僕の代わりに続けてみせるジウに、僕は思わず笑みを深める。そして立ち上がって、ジウの頭を撫でた。
当初は「もうそんな歳じゃないです」と何度も抗議されたこの行為だけれど、その時のジウの顔が赤い理由が怒りではなく気恥ずかしさだと気付いてからは、僕は遠慮なく事あるごとに彼女の頭を撫でている。
何を言っても頭を撫でる僕にジウは早々に白旗を上げ、いつも顔を赤くして目を伏せるようになった。今もそうだ。何か言いたげにしながらも、何を言っても僕に論破されることが解っているらしく沈黙するジウが、気恥ずかしそうに伏せたその睫毛が頬に落とす影が愛おしい。
思わず頭を撫でていた手を、今度はその柔らかな頬にあてがってしまった。
「もしお菓子を作るのが手間に感じるなら、君のその唇でも僕はとても嬉しいのだけれど?」
というか、正直なところ、お菓子よりもそちらの方がいいのだけれど――少々困ったことに、ジウは僕のことを立派な紳士であると信じている。そんな僕がこうもあからさまに口付けを望むなんて不埒な発言を本気でするなんて思ってもみないジウは、顔をますます赤く染めて、その赤くなった顔を両手で隠すようにして後退った。
「だっ、旦那様ったら……!からかわないでください!」
「僕は本気なのにな」
「~~失礼します!」
ジウのワンピースの裾が翻り、彼女は一目散に全速力で屋敷の中へと走っていってしまった。
三年経っても変わらない初々しい反応をいつもしてくれるものだから、つい僕も調子に乗ってしまう。僕がジウにかける言葉はいつだって本気だし本音なのだけれど、何故かジウはそう受け取ってはくれない。いつかすべてを信じてくれたらいいのにと思わずにはいられない。
そう、その『いつか』のためならば、僕はどんな手段も厭わないつもりであり、邪魔立ては一切許すつもりもない。
「さて、出ておいで」
ジウの気配が屋敷の奥の厨房に入るのを待ってから、僕は改めて椅子に座り、中庭に生えている巨木の陰に向かって、そう一言声をかけた。
その瞬間、巨木の陰から、するりと人の形をした黒い影が立ち上がる。影は滑るように僕の前まで音もなくやってくると、その場で恭しく跪いた。
そのまま放置しておく訳にはいかないことは解っていた。
溜息を噛み殺し、沈黙を保ち続ける影を椅子に座ったまま見下ろしてやる。
「発言を許そう。何用かな?」
「ありがたき幸せに存じます。赤華公におかれましてはご機嫌麗しく」
「生憎、機嫌はよくはないかな」
招かれざる客人に売る愛想など持ち合わせてはいない。ジウに向ける笑みならばいくらでもあるというのに、我ながら随分勝手なものだと思う。けれどそれでいいのだ。僕のすべてはジウのためにある。
だからこそ、ジウとの尊い時間を遮るようにやってきたこの影――僕にとっては格下にあたる、世間では一般的に僕と同じく吸血鬼と呼ばれる存在が余計に面白くない。
込み上げてくる溜息を再び噛み殺していると、僕にとってはたっぷりと時間を開けてから、ようやく影はその重い口を開いた。
「本日は我が主人たる白炎公より、赤華公へのお言葉を預かって参りました」
「ほう、あの白のがね。続けなさい」
「そのままお伝え致します。『教会の馬鹿供があの異界の聖女とやらを旗印にしてまーた俺達にちょっかい出そうと画策してやがる。もういい加減めんどくせえからここらでいっちょ、一緒に完全に潰しちまわねえ?』とのことです」
影の言葉に、見事な白髪と白の瞳を持つ、古い馴染みの男の快活な笑顔が脳裏に浮かんだ。口よりも先に手と足と魔力が出る、実に彼らしい発言だ。
なるほど、そういう訳か。
どうやら彼――白炎公と呼ばれる存在は、三年前と同じことを繰り返そうとしているらしい。しかも、影の言葉から察するに、三年前のようなお遊びではなく、今度こそ完璧に、完膚なきまでに教会を殲滅する気なのだろう。
それは別にどうでもいいことなのだけれど、ひとつ。
影、もとい、この影の主である、僕が『白の』と呼ぶ存在の言葉の中に、聞き捨てならない単語があった。
「――――聖女、ねぇ」
思い出されるのは、緩く波打つ亜麻色の髪とヘーゼルの瞳を持つ、それなりに整った容貌の少女の姿だ。
ジウと同郷であるというあの少女とは、一度だけ顔を合わせたことがある。
そうして僕の脳裏に、まざまざと、三年前の光景――現在世間では『聖戦』と呼ばれている、吸血種と教会の、大規模な戦争の光景が蘇った。