私の主人は偏食家【中編2】
短編版とほぼ同じです。
ふっと意識が浮上する。瞼が重くてたまらないけれど、それを無理矢理持ち上げて、私は私が何よりも安心できる単語を口にした。
「だん、な、さま」
「目が覚めたのか」
「ッ!」
もう二度と聞くことなんてないと思っていたはずの声に、私はいつの間にかベッドの上に寝かされていた身体を思い切り起こした。
「ディートリヒ……!?」
「ああ。久しぶりだな、ジウ」
ベッドサイドの椅子に腰かけていた銀の青年が、そう言って小さく笑った。誰もが見惚れるに違いないその笑顔は、私にとっては恐怖を招くものでしかない。
ひゅっと息を呑む私に、ディートリヒは悲しげに眉尻を下げた。昔は新米の祓魔師でしかなかったこの青年は、地下牢に閉じ込められていた私の世話役だった。いつの間にやら随分と出世したらしい。祓魔師の中でも上位に位置することを示す衣装に身を包んだその姿に、身構えずにはいられない。
「そう怯えないでくれ。俺達が君にしたことを思えば、その反応も当然だとは思うが……」
「ここはどこ?」
ディートリヒの言葉を遮るように問いかける。けれど聞いただけ無駄な疑問だった。周囲を見回して、ぶるりと身体を震わせる。ここは、教会の一室だ。その証拠として、天井に大きく十字架が描かれている。そして私のその予想は、やはり間違ってはいなかったことはすぐに解った。ディートリヒが、こくりと一つ頷きを返してきたからだ。
「ここは町の教会の仮眠室だ。君を気絶させた後、俺がここまで運んだんだ」
「……そう。神に仕える祓魔師様ともあろうお方が誘拐だなんて世も末ね」
「そう、かもな」
反論されるかと思ったが、思いの外あっさりと非を認められて拍子抜けしてしまう。どういうつもりかと睨み付けると、ディートリヒはその青い瞳を伏せた。
なんだかこっちの方がいじめているみたいだ。けれどそんな反応をされても良心が痛むことは欠片もない。さっさと解放してほしい。あのお屋敷で、旦那様が私の帰りを待っていてくださるのだから。
そんな気持ちを込めて睨み付けていると、ディートリヒは深々と頭を下げてくる。
「手荒な真似をしてすまなかった。でも、どうしても君を逃がしたくなかったんだ」
「あんたが逃がしたくなかったのは私じゃなくて私の血でしょ。その様子じゃ、あの聖女様は、血の提供をよっぽど嫌がってるみたいね?」
「……それも、ある。だが、それだけじゃない」
「へえ?」
適当に言ってみただけだったのだけれど、やはりというか案の定というか、聖女と呼ばれ今なおちやほやされている彼女は、義務であるはずの血の提供を嫌がっているようだ。
三年前、散々私から血を搾り取って、相当そのストックを貯めておいたはずだが、いい加減それも底を尽きそうになっているのだろう。教会はとうとうまずい状況に追い込まれていると見た。ふん、ざまあみろ。
「三年前の襲撃で君が消えてからずっと探していたけれど、きっともう、吸血鬼共の餌食になっていると思っていた」
苦々しげなその声に、チッと盛大に舌打ちをする。旦那様の前では絶対にできないけれど、こいつの前で取り繕う必要なんてないからどうでもいい。
そのまま私なんて死んだものと、そう勘違いしてくれていたらよかったのに。そうしたら私はこれからも旦那様と楽しく幸せに暮らしていけたのに。
三年前の襲撃とは、王都の大教会を、吸血鬼が徒党を成して襲った事件である。“聖女の血”を使って大々的な吸血鬼狩りに乗り出した教会に対する吸血鬼の反乱だった。
あの時、私は旦那様にさらってもらったのだ。その恩を返すため、そしてもう一つの理由のために、私は旦那様のお側にいる。今までも、これからも、ずっとずっとそのつもりだ。
「あんたが何と言おうと、私は王都へは帰らないわ。利用されるのなんて死んでもごめんよ」
「違う! 利用なんて俺がさせない。今後こそ俺が守る。だから、俺の側にいてくれないか」
「…………はぁ?」
何を馬鹿なことを言っているのだろう。思わず間抜けな声を上げてしまった。
こんな声、旦那様の前では以下省略。
私が心底解せないと言わんばかりの表情を浮かべていることに気付いていないはずがないのに、ディートリヒは私の手を掴んで続けた。
「共に帰ろう、ジウ。あのお飾りの聖女なんかではなく、今度こそ君が本物の聖女として立つんだ。俺はそのためならなんだってするから」
「あんた、何言ってんの?」
「頼むから、ジウ……!」
「ちょっ!?」
身体を抱き竦められ、全力で抵抗するけれど、鍛え抜かれた若い男の力には敵わないのが歯痒くて仕方がなかった。冗談じゃなかった。何がって、何もかもがだ。王都に戻るのもごめんだし、聖女になるのだってごめんだ。
何が守るだ。一番守ってほしいときに守ってくれなかったくせに。一番助けてほしいときに助けてくれなかったくせに。
そうだ。
守ってくれたのも、助けてくれたのも、全部、全部、こいつなんかじゃなくて。
「僕のジウを、そんなにいじめないでやってくれるかな?」
突然視界が真っ暗になったかと思うと、気付いた時には私は、ディートリヒのものではない腕の中に収まっていた。
恐る恐る顔を上げれば、綺麗な赤い瞳と、立派な白い口ひげが視界に飛び込んでくる。
どうして私がそれを見間違えるだろうか。そのどちらも、私の大切なひとの持つものだ。
「ジウ、僕がいる。だから、何も怖がることはないよ」
「――旦那様」
私をその細腕で……しかも片腕一本で軽々と抱き上げてベッドの上に佇む旦那様は、その笑いじわを深めて、私の顔を覗き込んでくる。
こくこくと頷きながらも呆然と呟く私の声に、呆然としていたディートリヒがはっと息を呑む。そのまま彼は椅子から立ち上がってベッドから距離を取り、腰に下げていた十字架を模した剣を抜き払った。
「なっ何者だ!? ここは教会だぞ、勝手にどこから入った!?」
「おやおや、誘拐犯が年長者に向かって言ってくれるね。そんなことより、大丈夫かい、ジウ。帰りが遅いから心配してきてみたのだけれど、それは正解だったみたいだね。無事でよかった」
「旦那様……」
なんて情けない声だろう。こんな声で旦那様のことを呼ぶなんて、失態もいいところだ。なんとか取り繕おうとしても、喉が引き攣れて上手く声が出てこない。代わりに出てくるのはしゃくり上げるような泣き声で、ぼろぼろと瞳から涙が溢れ出してくる。
怖かった。怖かったんです。ディートリヒのことも、彼が持っていた剣のことも。
何度あの十字架を模した剣に、神の名の元にと言って貫かれ切り裂かれたことだろう。
未だ身体中に残る傷痕が痛みを訴えかけてくるような気がして、身体の震えが止まらない。
そんな私を、慰めるように旦那様は抱き締めて、耳元で優しく「大丈夫だよ」と囁いてくださる。
「泣かないでおくれ、僕のかわいいジウ」
「ごめ、ごめんなさい旦那様……っ!」
「何を謝るんだい?」
「だ、だって、私、旦那様をこんなところに引き摺り出してしまって」
「僕が勝手に来たんだから、君は気にすることなどないよ」
旦那様の優しく甘い声音に、より一層涙が溢れて止まらなくなる。旦那様のお優しさが嬉しくて仕方がなかった。涙ばかりではなく鼻水まで出てきた私の顔を、旦那様は胸ポケットからハンカチーフを取り出して拭ってくださった。
それを大人しく受け入れていると、ふいに旦那様がベッドから軽い足取りで飛び降りる。
思わず目を瞬かせると、旦那様がつい一瞬前まで立っていたベッドには、鋭い銀のナイフが突き刺さっていた。
「不意を突くのが誉れ高く誇り高い祓魔師のやり方かな?」
「黙れ、魔の者め! ジウを放せ!」
ディートリヒが再び懐から取り出したナイフを投げつけてくる。旦那様に片腕で抱えられたまま身を竦める私とは裏腹に、旦那様は空いているもう一方の手で黒檀の杖を操り、あっさりと、空気を切り裂いて向かってきたナイフを床へと叩き落した。
「まったく、下位の吸血種でももう少し礼儀を弁えているものだよ?」
「っ貴様、やはり吸血鬼か!」
青い瞳の眦を吊り上げ、鋭く旦那様を睨み付けるディートリヒに、旦那様はにっこりと笑いかけた。
「ご名答。お初にお目にかかる。僕がジウの主人だ。僕のジウが世話になったようだね。これはとくと礼をさせてもらわねばならないな」
旦那様は穏やかな笑顔を浮かべていらっしゃるけれど、その赤い瞳に宿る光は真冬の湖よりももっとずっと冷たい光だった。
旦那様、といつものように呼びかけたいのに、なんだかそれが躊躇われた。どうして今の旦那様に声がかけられるというのだろう。旦那様は、こんなにも、とても怒っていらしゃるというのに。
そんな旦那様の静かな怒りに気付く様子もないディートリヒは、フン、と小馬鹿にするように鼻を鳴らして旦那様を嘲笑った。
「老いた吸血鬼がよくも言ったものだ。その様子では、相当長い間血を飲んでいないのだろう? 貴様らの若さは人血によって保たれるものだからな。死にぞこないなど俺の敵ではない」
それは、聞き逃せない台詞である。あんたに旦那様の何が解ると言うのだ。
何も知らないくせによくも言ってくれたものだと思う。そっちがその気なら、私にだって考えがある。
「旦那様。構いません。どうぞ私を使ってください」
旦那様の服を引っ張ってそう言うと、旦那様は赤い瞳を瞬かせて私を見下ろしてきた。綺麗な綺麗な赤い瞳が私を見下ろしている。それを真っ直ぐに見つめ返すと、旦那様はいつぞやと同じように困ったように眉尻を下げた。
「いいのかい?」
それは、気遣いに溢れた声だった。そんな風に問いかけてくださる旦那様だからこそ、私は力になりたいのだ。この想いに一片の曇りはなく、後で悔いることも決してないに違いない。私は深く頷いて、力強く笑ってみせた。
「旦那様のためですもの。喜んでこの身を差し出しますわ」
「かわいいことを言ってくれるね」
「茶化さないでください。それに、こいつ――ディートリヒには、一度や二度くらい痛い目を見せてやりたいんです」
私が自分の力で痛い目を見せてやれないのは、ものすごく残念ではあるけれど。この身が少しでも旦那様のお役に立てるのならば、これ以上の幸いはない。
私がはっきりとそう言うと、ぷっと旦那様は小さく吹き出され、そしてそのままくつくつと喉を鳴らして笑い始めた。そうしてひとしきり笑いに耽った後、旦那様はきらりとその赤い瞳を輝かせる。
「解ったよ、僕のかわいいジウ。ならば今回は、君の力を借りよう」
深く微笑んだ旦那様の瞳の輝きが強くなる。そのピジョンブラッドの瞳の輝きに魅入られる私の首に、旦那様は唇を寄せた。
鋭い牙が突き刺さる感覚がしたけれど、不思議と痛みはない。その代わりに急激な睡魔が襲ってきて、私はそのまま意識を手放した。