薬師さんのプロポーズ
番外編です。
その日俺(薬師明信22歳)は緊張していた。
いつもの喫茶店で待ち合わせ。
マスターに事情を話して夜8時に店を開けて貰い1人彼女を待っていた。
「マスター、変じゃないよね?」
「はい大丈夫ですよ」
化粧室横の鏡で身なりのチェックを済ませカウンターの奥にいるマスターに聞く。
先程からこのやり取りを何度も繰り返していた。
マスターは嫌な顔一つせずにこやかな笑顔で俺を見ていた。
「薬師さんもついに、ですか...」
そう呟きながらマスターは感慨深く俺を見つめる。
思い返せば初めてマスターと会った日から10年の時間が経っていた。
「どうしたのマスター?」
視線に照れながらマスターに尋ねる。
「昔を思い出していたのです」
マスターは懐かしむ顔で俺を見た。
「昔か...」
懐かしい記憶が甦りマスターの居るカウンター席に座った。
荷物はいつもの席に置いてあるが今は俺とマスター以外誰も店内にいないから安心だ。
「どうぞ」
俺の前にコーヒーが置かれた。
緊張している俺に対してマスターからの心遣いが沁みる。
「ありがとう」
静かにコーヒーを口に運ぶ。
「旨い」
見事なコーヒーの苦みと酸味に緊張が解れるのを確かに感じた。
「ブラック...」
マスターが笑顔で静かに呟く。
「薬師さんがブラックで飲んでいるとつい...」
マスターの言葉に初めてこの店でコーヒーを飲んだ日を思い出す。
初めて浩二に連れてきて貰った喫茶店。
浩二の飲むコーヒーを羨ましくなり、
『やめときなよ』
そう言う浩二を無視してコーヒーを頼んだ。
初めて飲むコーヒーの苦さに大人になる苦さを初めて知った。
「懐かしいな」
「ええ」
脳裏に様々な出来事が浮かんでくる。
杏子の前で背伸びをしていた中学時代。
念願の杏子と恋人になって、色々あり自暴自棄になり浩二達に助けて貰って立ち直った高校時代。
杏子と殆ど離れ離れの日々の中、僅かに会える時間で...愛し合った大学時代。
そして今、杏子と再び過ごせる時を手に入れたんだ。
その時喫茶店の扉が開いた。
「ごめんね明信さん。お待たせ」
少し息を切らして店内に入って来たのは白石杏子、俺の最愛の恋人。
「大丈夫だよ。待つのは得意だから」
俺の軽口に杏子は少し笑う。
スラッとした体をロングコートで包み、薄く引いた化粧。
大学時代の友人達や社会人になった今でもこれ程美しい人を知らない。
「どうしたの?」
「綺麗だ」
「馬鹿...」
真っ赤になった杏子は恥ずかしそうに俯く。
杏子は別れそうになったあの時からすっかり人が変わったように照れ屋になった。
『明信さん、私は素直になります』
留学から一時帰国した時に杏子から言われた。
そんな杏子に自惚れず、自分を律して来た。
(まあモテないのも幸いしたのだが)
「それで今日はどうしたの?」
俺達はいつものテーブルに行き杏子はコートを脱いで横の椅子に掛けた。
コートの下は胸元の大胆に開いた赤いドレス。
所々が光ってるのはスパンコールだろうか?
「いや、あの、つまり...」
ダメだ、緊張と杏子の胸元に目が行って上手く話せない。
「あ、ごめんね。今日はコンサートの打ち合わせで本番の衣裳を着たから」
視線に気づいた杏子は恥ずかしそうに胸元を気にした。
「そうなのか、着替えなかったのか?」
「うん。着替えの時間が勿体なくて」
杏子の言葉に胸の鼓動は速くなる。
「え、それって?」
「早く明信に逢いたかったからに決まってるでしょ」
真っ赤になる俺と杏子。
顔が熱を持って脳味噌が沸騰しそうだ。
「どうぞ」
真っ赤になる俺達にマスターはそっと飲み物をテーブルに置いた。
俺の前には新しく淹れてくれたコーヒー。
そして杏子の前には、
「ココアですね」
「はい」
「美味しいです」
「ありがとうございます」
マスターとやり取りをしながらココアを手にして口に運ぶ杏子の美しい所作に俺は見とれてしまう。
6年のヨーロッパ留学はピアノだけではなくマナーも身に付けたのだ。
(俺は杏子と釣り合うのか?)
心に不安がよぎり焦る俺の手を杏子が優しく握る。
「ね、覚えてる?私に告白した時」
「勿論だ。絶対に忘れるもんか」
俺にとっては忘れ得ぬ日。
小学校の卒業式の後、2人切りの教室で俺は6年間心に秘めた想いを杏子に告白したんだ。
「私も忘れて無いよ、あなたの想いを私が受け取った日だもの」
「杏子...」
「私はあなたに会えて良かった。あなたの優しい笑顔に支えられて6年間の留学も頑張れました。
もしあなたが居なければ...ううん、あなたの居ない世界なんか考える事が出来ないよ」
「ありがとう杏子」
心に芽生えた不安を杏子はたちまち取り除いてくれる。
本当に俺には過ぎた女だ。
『絶対に幸せにしてやる!』
決意を固めたその時店内に音楽が流れた。
「あれこの曲?」
杏子はすぐに気がついた。
そう俺達にとっては忘れる事の無い、思い出の曲。
「『ONLY YOU』 (あなただけ)だよ」
杏子は懐かしい曲に目を瞑り、
心にあの時の風景が甦る。
中学の文化祭。ありったけの想いを仲間と一緒にステージから放ったあの日の光景が。
背広のポケットから指輪の箱を取り出し
蓋を開けてから目を瞑る杏子に向かって...
「結婚してください」
...ようやく言えた。
「え?」
驚いた顔で杏子は目を開いた。
「お願いします」
静かに頭を下げた。
「私...留守が多いよ」
「俺も同じだよ...出張ばかりだ」
「これから数年はなかなか会えないんだよ?」
「国費留学だったもんな、恩返し演奏旅行。頑張れ!」
「また待たしちゃう...」
「待つのは得意だよ」
「ありがとう...宜しくお願いします」
杏子は涙を流しながら頷いた。
「こちらこそ宜しくな」
指輪を箱から出して杏子の左手薬指に填めた。
「ありがとう」
「良かった」
指輪をかざして喜ぶ杏子を見ながら大学時代からバイトに明け暮れた4年間が報われた気がした。
「ありがとう杏子!これからも宜しく!」