記憶の蓋
「間違いないのね?」
由香は俺に念を押すように聞いたが俺にしたら前回20年以上見た律子の字を忘れるはずもない。
「間違いない」
「でも書き方はどうやって?」
「前回の不妊治療で残念な結果に終わった事が何回かあったんだ。
その度に律子はあの書類を病院から貰って帰って来たから内容をだいたい覚えていたんだろう」
「....」
俺の告白に由香はショックて黙ってしまう。
「どうしたの?」
「祐ちゃん大丈夫だよ」
由香は動揺させまいと気丈にふるまう。
「ああ早く久と律子さんを探さないと」
俺も祐一が不安にならないように励ます。
俺と由香は先程の話を律子の母に聞かす訳にも行かないのでここは一旦律子の家を出て誤魔化す事にした。
「あの...浩二さんと仰いましたよね?」
家を出ようとしていたら律子の母に呼ばれる。
「はいそうですが」
「あの子が妊娠中絶の為に産婦人科に行く前の日の夜に私聞いたんです」
「聞いた?」
「『私は山添律子、山添浩二の妻よ。今思い出した』って律子の部屋から...」
「それって...」
「浩二君...」
由香と祐一は固まる。
しかし俺まで固まる訳には行かない。
「おばさんその後律子さんにその話の事を聞かれましたか?」
「ええ、翌日の朝に。」
「何て言ってました?」
「ただ一言『夢よ』とだけ」
俺達は確信する(間違いない、その産婦人科に行く前日に記憶が戻ったんだ。)と。
「おばさん、僕は確かに山添浩二と言いますが律子さんとは1度しか会った事がありません。
律子さんの言った通り僕の事は夢なんですよ」
「でも...」
「律子さんにとっては今が現実だからこそ中絶を拒んで妊娠継続を望んだのですよ。
愛する吉田久さんの子供をね。
そうじゃないとこんな危険を犯してまでの事をされますか?」
俺は律子の母に問いかけるように優しく言った。
「りっちゃんも久との子供を絶対に欲しいはずだよ。
だってあの2人昔からお互いが大好きだし、おばさんが聞いた記憶の話なんか関係ないよ。
そうじゃ無きゃ久まで一緒に逃げるはず無いもん!
大丈夫りっちゃんは必ず見付け出すよ」
祐一もそう言って律子の母を励ました。
最後にそれまで静かにやり取りを聞いていた由香が律子の母の手を取り静かに話す。
「私もそう思います」
「はい...」
「妊娠した事は予想外な出来事だったかも知れませんが愛する吉田さんの子供だからこそ産み育てたかったんでしょう。
本当に愛する人との子供を...
安心して産ませてあげたい...」
そう言って由香は泣いた。
まるで何かを思い出したかの様に泣き崩れた。
(ひょっとして由香も前回の人生の記憶が甦ったのかもしれない)
それは悪夢だろう。
詳しくは俺も噂でしか知らない。
度重なる家出の果てに中学3年で妊娠して実家に戻された噂しか。
由香と律子の母がしばらく2人で泣き崩れる様子を俺と祐一は見ていた。
「浩二君、由香ちゃんのこれは...」
明らかに尋常ではない由香の泣き方に祐一も言葉を失う。
「僕にも分からない。
由香の記憶が解放されたのかは分からない。
それに僕は由香の前回の記憶を知らないから分かり様がないんだ。
前回の由香は6ヶ月で転校して僕の前から姿を消してしまったからね。」
「そうなの?」
祐一も驚いている。まあそうだろうな。
やがて由香は静かに立ち上がる。
律子の母は泣き疲れて眠ったようだ。
祐一は布団を出して律子の母を寝かした。
「由香?」
俺は由香に静かに声をかけた。
由香は穏やかな顔で俺を見ると静かに笑う。
「浩二君。」
「何か思い出した?」
「ううん」
「そっか。」
「ただ何かあった気がした。でも絶対に近づいたらいけない気がしたの」
由香は顔を強張らせ俺にしがみついた。
(由香にも記憶の蓋がされている。)俺はそう確信した。記憶の蓋はどうやら死ぬ程ショックな事でも無い限り開かないみたいだ。俺は由香の記憶の蓋を絶対に開けない事を誓った。
「それじゃこれからどうする?」
律子の母を寝かした祐一は俺達に聞いた。
「そうだな...」
「りっちゃんの記憶が戻ったのなら浩二君との思い出の場所とかは?」
「そりゃ無理だ」
祐一はそう俺に言うが俺はあっさり却下する。
「どうして?」
由香も不思議そうに聞く。
「だって僕と律子が出会ったのは関西だ」
「え?」
「言って無かったが僕は前回の人生では大阪の地方大学に行っていた。
そこで同郷の律子と知り合ったからね。」
「そうだったの?」
「そう言う事なら妊娠中期に入ったばかりの律子さんにしたら移動リスクが高過ぎるわ」
祐一は単純に驚いているが由香は少し複雑な顔をした。
やはり好きな人の思い出なんか例え前回の人生の物だとしても聞きたくはないだろう。
「他には無いかな、祐一」
「難しいね、久とりっちゃんの関係するおおよその場所は探したんだ。
久の実家の力でね。
久とりっちゃんの1回でも行った事のある場所は全てだよ。
遠足から修学旅行先、果ては塾の合宿所まで」
「それは凄い」
俺は久の実家のローラー作戦に手詰まりを感じる。
「浩二君」
由香が何かに気がついたようだ。
「何?」
「浩二君の家よ」
「え?」
「浩二君の家は律子さんにとっては前回の人生では前の旦那さんの実家よ。
絶対に嗅ぎ付けられないわ!」
由香は確信を持って言った。
俺にはまだ疑問があった。
(吉田久が黙って付いて来るだろうか?)と。
しかし他に思いつく場所もないので俺達はバス停から駅に向かう事にした。
駅に着いたら騒ぎになっていた。
「なんだろう?」
祐一は人混みを入って行く。しばらくして戻って来た。
疲れた顔が更に白くなっている。
「どうしたの?」
「久が捕まった」
「え?」
「隣の市で旅館にいる所を捕まったそうだよ」
「律子は?」
「いなかったって」
「久はさっきまでいたけど本当にはぐれたって言ってるそうだよ」
「詳しいな。」
「知り合いがいたんだ。久と久を捕まえた人達が一緒に電車でこちらに向かってるそうだよ」
「おい清水!」
「あ、不味い!浩二君由香ちゃん僕は今から他人だから無視してよ」
そう言って祐一は俺達から離れた。
祐一の名前を呼んだ男は祐一を捕まえて言った。
「何でここにいる?
知らないと言ってたがここにいるって事は久の居場所をやっぱり知ってたな?」
「本当に偶然だよ。
久が捕まったのは隣の市って聞いたよ。僕の身辺も調べたんでしょ?なら隣の市なんか僕に繋がらないのは分かってるよね」
祐一は大きな声で男と話す。俺達に注意を行かない為だと思ったので素早く切符を購入して俺と由香は電車に乗った。
しばらくした頃由香は回りに不審者がいない事を確認してから言った。
「間違いない。律子さんは私達の地元に逃げたわ。
最後の目眩ましに吉田久さんを囮にしたのよ」
「そうなのか?」
「ええ、吉田さんがいたら身動きが出来ないから心を鬼にして囮にしたのよ。
これで安心して律子さんと私達の地元を繋ぐ線が出来た。って事ね。
後は駅に着いたら相談しましょ」
由香はそう言って何か考え始めた。
俺はそんな由香の様子をただ見るしか無かった。