5杯目
もうおしまいだ。ここには来られない。
気持ち悪いと思われるだろう。父さんや母さんは泣くだろう。
学校では噂になって、私は僕を隠して、フラストレーションを胸に詰めた窮屈な気持ちでこれからの人生を歩まなければいけないのだろう。
後ろ指を指されたままで。指している人間は、どんなにその指先が鋭く尖っているのか自分で気づきはしないのだ。
「本当に、君に迷惑をかけるつもりは無いんだ。ただ、君みたいな人を探していたんだ」
前方からの燃える棘を従えた声に、私の脊髄は敏感に反応する。
テーブルにある水の入ったグラスを掴み取ると、その声に向かって思い切り水をかけたのだ。声の熱さに耐えかねて。目の前の男に、声に早く消えてほしくて。
なのに、水をかけられた本人は、作り物の笑顔こそ剥がれたものの、いたって冷静なままだった。
「わかった。事を急いた俺が悪い。デリケートな部分をついてしまった。今日は出直すことにするよ。安心してほしい、ここでのことは絶対に他言しない。それじゃあ、また」
そばにあったおしぼりで顔を拭くと、男は席を立った。
レジで芳穂さんと二三言葉を交わしていたようだったけれど、私のところまで会話の内容は届いてこなかった。扉の開閉を知らせるベルを控えめに鳴らして、そいつは出ていった。
顔を覆っていた汗が、ベルの音を聞いてようやくおさまる。肩の筋肉が無くなったのかと思うほど、私の両腕はだらりと脱力した。
内腿を引きちぎるくらいの気持ちでつねって、震えている膝を無理やり静止させて、私は立ち上がる。
「ユウキくん……」
私の方へと心配そうにかけよってきてくれる芳穂さんを手で制して、私は努めて眉尻を下げ、口の動きだけで「だいじょうぶ」と告げてトイレへと入った。
後ろ手に扉を閉めて鍵をかけると、私は大きく開けた便器の口に向かってさっき食べたタマゴサンドをすべて吐き出した。
なるべく声が漏れないように無言で吐き出すと、その程度のことを考慮できる冷静な自分が返ってきていることに気付く。もし聞こえてしまったら、芳穂さんたちに心配をかけてしまう。みんな優しいから。
胃酸がのどを焼くリアルな痛みが、心の中でくすぶっていた棘を徐々に忘れさせてくれる。
大丈夫。よく知っているわけでは無いけれど、あいつのクソ真面目なイメージが正しいのなら「絶対に他言しない」という言葉は真実だろう。
なぜ気づかれていたのかは、今必死に頭を回しても答えが出てくるとは思えない。
タマゴサンドをすべて吐き出してもまだ止まらない嗚咽と戦いながら、私は吐瀉物に目が行った。
溶けきっていない黄色い液体に包まれた物体は、自分の中に入っていたもののはずなのに、憎らしくさえ思えてくる。
ここはお前の場所じゃないのに。喉を焼くような反攻を今更してきやがって。おとなしく胃の中で消化されていれば、身体の一部としてまた役立てたのに。
ここで消化されることが、終わりではないのに。咀嚼され胃の中に入った以上、君は栄養になるべきなのに。
嗚咽が終わり、なんとか便器から顔をあげてすぐ隣にある洗面台の鏡を見た。
目薬を差す量を間違えたみたいに湿った眼球と、口元についた無様なよだれ。脂汗で照明の白色を反射する鼻。整えていた髪型は、全体的にへたり込んで小さくなってしまっている。
幸い、セーターやズボンに吐瀉物が付着しているようなことは無かった。
けれど、鏡に映っている姿は、どうしようもなく子供だった。やっとカフェラテに砂糖を入れずに飲めるようになっても、そのままのコーヒーはまだ飲めない。
目を閉じて、お店のコーヒーを思い出す。色を、味を、匂いを。
マスターが煎れてくれている姿を。芳穂さんが運んでくれる時の足音を。持ったカップの感触を。話しかけてくれる万江頭さんや、他の常連さんの声を。
これらは、僕が知っている僕の景色だ。視点は僕だ。落ち着け。大丈夫だ。今更なにが怖い。少なくとも、今ここに居るのは僕だ。ここに居る人しか知らない、僕だけの世界だ。学校も、家族も、家で殺した奴も今は関係がない。
顔をあげると、そこには僕が映っている。まだカフェラテしか飲めない、どうしようもなく子供の僕だ。
それでも、砂糖が入っているよりも、砂糖が入っていないカフェラテの方が好きになった僕だ。そうなるまでの経緯は、僕のものだ。
目を優しく水で洗い、口をゆすいでしっかりとうがいをする。ペーパータオルを少し濡らして顔を拭き、髪の毛を軽く整えてから、僕はトイレの鍵をあけた。
入る時とは打って変わって、しっかりとした足取りで先ほどまで座っていた席に戻る。
カウンターの端っこと、窓に一番近い席にお客さんが増えていた。話をしていた万江頭おじいちゃんと芳穂さんが、僕の方へとやってきた。
「ねえ、大丈夫ユウキくん」
口の中に残っているかもしれない嘔吐の痕跡を押し戻すように、少しぬるくなってしまったカフェラテを流し込んだ。
「大丈夫です。すみません、心配をかけてしまって」
今まで見たことないほどに母性で溢れた顔をして、芳穂さんは僕におじぼりを渡してくれた。僕はそれで、手と額を拭いた。
「友達と話をしてると思ったら、突然ユウキくんが水なんてかけるからびっくりしたな」
少しだけ怒りを滲ませた万江頭おじいちゃん。よかった、話の内容や僕のことは聞かれていないらしい。
「大丈夫ですよ。ありがとうおじいちゃん」
前の席に座った万江頭おじいちゃんにも、笑顔で返す。僕の笑顔は、とても自然に出ているはずだ。
心が乱れていたのは落ち着いたし、身体のどこに違和感は残っていない。いつもと同じ、僕になっているはずだ。
「芳穂さん、あいつは何か言っていましたか」
僕の質問に芳穂さんは、眉間に疑問の皺をよせながら話した。
「驚かせて申し訳ないということと、ユウキくんにも改めて申し訳ないって。それから、学校では話しかけたりしないから、安心してほしいって」
「ってことは、学校の同級生かい。普段怒らないユウキくんが水をぶっかけるなんて、かなりの悪党なんだろう」
冬の店内で腕まくりをしてしまうほどに、万江頭おじいちゃんの怒りのメーターが上がって来た。僕はそれを、なんとかなだめる。
「いや、少し大変な話をしていただけですよ。僕も反省しています。びっくりさせちゃってごめんなさい」
僕が素直に謝ると、万江頭おじいちゃんは煙を顔に浴びたような顔になった。
「ユウキくんが良いならいいんだけどさ。本当に、何かあったら言うんだよ」
「はい、ありがとうございます」
こんなにも優しい万江頭おじいちゃんも、僕が毎日私を殺していると知ったらどう思うのだろう。
「辛かったら何でも言ってね。常連さんだけど、もうお友達みたいなものでしょう。多少のことじゃ驚かないから」
芳穂さんの優しいひとことに、思わず言葉が零れそうになる。「僕は、家に帰ると私になるんです」「僕は僕だけれど、私なんです」なんて。
「ありがとうございます。じゃあ、カフェラテのお替りをください。ミルク多めで」
僕の注文を聞いて、芳穂さんはカウンターのマスターへと伝票を渡しに行く。それについて行くように、万江頭おじいちゃんも自分の定位置へと戻った。
芳穂さんが持ってきてくれたカフェラテ。全然かき混ぜていないのに、僕がカップを握ると、中身は勝手に混ざっていった。