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4杯目

 はじめて土曜日のキッチンに入った時、僕の足は重力を忘れたように浮いていた。


 春が始まった頃で、殺めることに慣れてきた頃で。


 花粉症に悩んでいる同級生の話を思い出しても、僕はマスクなんてしたくなかった。空気をいっぱい吸って吐きたかったから。


 体重を家に置いてきたのかと思うほどに、身体が軽かった。もしここが月だったなら、僕は本当の意味で浮いていただろう。


 宇宙空間に放り出されて、それでも嬉しくて踊れもしないワルツなんて踊ったりして。


 特別理由はなかったと思う。変わった店名が目についたとか、商店街のはずれにあったとかそんな理由で、僕は土曜日のキッチンに入った。


 一歩入った時、なんだかしっくりきたのだ。人を殺めた足なのに、妙に軽かった。


 コーヒーなんて飲めなかった。そもそも、僕は紅茶派だ。


 けれどなんだか、店内の匂いのせいでコーヒーが飲みたくなった。太い樹木のような、熟れた蜜柑のような。


 大きな包みの中に一本芯のあるコーヒーの匂い。それと、格好つけたかった。


 アイスコーヒーをシロップも入れずにブラックで飲んだ僕は、さぞ渋い顔をしていたのだろう。


 足は重力を思い出し、体重は僕の後をずっとついてきていたと気づかされた。


 唯一賢かったのは、フルーツサンドを頼んでいたこと。唯一幸運だったのは、窓際のテーブル席に座ったから、マスターに渋い顔を見られなかったこと。


 僕の渋い顔を見つけたのが、隣のテーブルを拭いていた芳穂さんだったということだ。


 芳穂さんは、テーブルを拭く手を動かしながら、慌ててフルーツサンドを口に放り込む僕の方を見ていた。水族館で、見たことのない海獣を見ている子供のような眼をして。


 それもそうだ。喫茶店に来て、自分で頼んだコーヒーをどや顔で飲んでおきながら、一口後にはどや顔が渋顔にかわっているのだから。


 布巾をカウンターの向こう側に置いて戻ってきた芳穂さん。その時は確か、マスターは仕事をしながらふたりのお客さんと話していた。


 奥の席には、新聞を読んでいるのかそのポーズで眠っているのかよくわからない、動かないおじさんが一人。芳穂さんは、ミルクポットと、エプロンのポケットからシロップを一つ取り出して僕の前に置いた。


 カウンターの中へ戻っていき、コーヒーの入ったグラスを一つ持って戻ってくる。僕の座っているテーブルにグラスを置くと、エプロンを外して僕の前に座った。


「マスター、休憩貰いますね」


 芳穂さんの声に手を挙げて返事をしたマスターは、グラスを拭く手を再開させつつ、すぐに常連さんとの話に戻った。


「ミルクとシロップ、入れていいかな」


 カウンターに大きな声で話しかけた粗野な雰囲気に強調つられてか、僕に話しかける声音の甘さがしつこくなくて心地よかった。


 人目を避けていたかったのに、僕は思わず何も言わないで頷いていた。芳穂さんは、僕のグラスにミルクをたっぷりと、シロップをほんの少しだけ入れた。


「コーヒーにまだ慣れてない頃なら、この飲み方が私的には一番おいしいと思うよ」


 ストローで軽く中身を混ぜると、優しく白色を包み込んでやわらかい胡桃色になった。僕は促されるままに、コーヒーを口に入れる。


 コーヒーが包み込んだのは色だけではないらしく、口の中を優しく撫でてから喉を抜けていった。 


 口の中で残る風味は甘すぎず、コーヒーの渋い良さを損なわない程度に飲みやすくなっていた。


「ほらね、飲みやすいでしょう。せっかくの良いものなんだから、背伸びしないで、好みの変化も含めてゆっくり楽しめばいいじゃない。」


 そう言って口をつけた芳穂さんのグラスには、心地よい渋みを思わせる濃い焦げ茶色が、氷と共に満ちていた。


 グラスの側面をながれる水滴がそれを反射して、黒く光るガラス玉のようだった。


「説教臭くなっちゃったかな。ごめんね」


 言いながらにこりと浮かべるお茶目さを含んだ顔は、煙草をくわえた途端に気配を潜めて、切れそうな鋭い大人さが交代で顔を出した。


 紫煙とコーヒーの色が良く似合う芳穂さん。


 様々な色を持つ彼女に、僕は興味があふれて止まらなかった。こんな風な成長過程を通って大人になりたい。


 僕のグラスに入っていない鋭さを思って、僕はグラスを傾けた。底に鋭さが残っていないか探すように。


「名波くん。おい、名波くん」


 目の前の男が呼ぶ声で、僕は我に返った。そして、そいつが飲んでいる黒い液体が、僕の中のエンジンに火を入れた。


「そんな風に呼ばないで」


 同じマスターの煎れた同じコーヒーのはずなのに、どうして目の前にあるこれは、こんなにも憎らしいのだろう。


 芳穂さんがいつも飲んでいるコーヒーは、僕も早く飲めるようになりたいと僕を急かすのに、目の前にあるコーヒーは、ひっくり返したくてたまらない。


 マスターの煎れた一杯だから、絶対にそんなことしないけれど。


 手が体の熱で温まり、震えが小さくなっていくのがわかった。けれど、手汗は収まるどころか勢いを増して、手の中に小さなダムを作っているかとさえ思った。


「いつも通りに呼びなよ。いつもなんてものがあるほど、親しい仲でもないけれど」


「ありがとう名波。俺もどちらで対応するべきか困っていたんだ」


 目の前にある、誰が見ても顔にくっつけているだけだと気づくような笑顔が気に入らない。


 眼鏡の向こうで、何を考えているのかよくわからない。猫みたいなくせ毛とその下にある童顔に、警戒心を薄められそうで怖い。


 僕は、なるべくエンジンの温度を下げないように努力した。


「どうしてここがわかったの。何を思ってわざわざ話しかけてきたの。この事実を知って君はどうするつもりなの」


「ここがわかったのはたまたま。話しかけたのは、名波に興味があったから。薄々気づいてはいたし、どうこうするつもりもないよ」


 相手の動揺を誘うために、わざとガトリングのように質問を撃ったにも関わらず、目の前のこいつはそれを意にも介さない。


 同じような速度で撃ってきて、全弾撃ち落されてしまう。


 すべて撃ち落されたと思った時、ちくりとした短い痛みが僕の中を抜けて出た。「薄々気づいていた」というのは、つまりどういうことだ。


 僕の肩に掠っていたのは、小さな弾丸ではなく、触れただけで爆発する炸裂弾だった。


 じくじくとした痛みは、僕の頭の中にまで届いて混乱を招く。必要以上に温められたエンジンが異常回転をして、熱をもった傷口をさらに熱くする。


 火照った身体の中にある脳みそも熱くなり、熱に当てられてエンジンはさらに回転数をあげる。


「僕になんの用があるっていうんだ。君に迷惑はかけていないだろう。特別親しいわけでもないんだから、そっとしておいてくれよ」


 マスターたちに心配をかけないように、小声で話すのが精いっぱい。僕の口撃は、小学生のこどもがするようなものになってしまった。それでも、目の前にいる男は貼り付けた笑顔をはがすことはない。


「俺も、名波に迷惑をかけるつもりはないよ。ただ、君と話がしてみたいだけなんだ」


「いやだ。断る。なんだよいったい。僕になにをさせようっていうんだよ」


「なにも気に病むことはない。君の秘密は絶対に守る。ただ、君と少しだけでいいから仲良く話がしたいだけなんだ」


 やっと少しだけ感情を見せてきた。それでも、早口でまくし立てる僕とは違って、小さな子供をあやすようにゆるやかな抑揚をつけて話しかけてくる。


 馬鹿にされているような気がして、僕の口はどんどん速くなる。速くなるのと同じだけ、頭の中は細い糸が縺れていくようにぐちゃぐちゃになった。


「ふざけるな。心の底では馬鹿にしているんだろう。こんな風なことをしている私を。学校とは違う私を馬鹿にしているんだろう。言いふらして、後ろ指を指されて生きていくんだ。私を殺しつづける僕を、君はそうやって笑うんだろう!」


「落ち着いてくれ。大丈夫。そんなことは絶対にしない。そりゃあ、君が男の恰好をしているのを実際に見たときは驚いたけれど、君に迷惑をかけるつもりはない」


 頭の中でどんどんと縺れていく糸が、動きを止めた。「男の恰好をしている」というセリフが、泥で出来た汚いイヤホンとなって、私の両耳を犯した。


 同じセリフが、なんども流れてくる。


 目の前のこいつの声で。学校の友達の声で。顔と名前くらいしか知らないクラスメイトの声で。お父さんの声で。お母さんの声で。万江頭おじいちゃんの声で。マスターの声で。芳穂さんの声で。そして、家にいる私の声で。


 私の声が聞こえたとき、エンジンが一瞬にして冷えた。関節が溶接したかのように固まり、まばたきの仕方を忘れてしまった目がどんどん乾く。


 まったく熱くないのに、濡れタオルで拭いたくなる汗が、額と頬と鼻の下に滲んだ。


 私の声はまだ聞こえる。私の中の、ちょうど胃のあたりを発信源にして、脈打つように聞こえてくる。


 見つかった。僕の存在が。他の誰かに。


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