3杯目
マスターがカフェラテのおかわりを持ってきてくれた時、僕は持っていた鞄から文庫本を一冊取り出して読み始めていた。さすがに、いつまでも窓の外を見ていると変に思われる気がしたからだ。
「あ、その本。この前わたしが貸したやつ?」
芳穂さんが、掃き掃除をしながら声をかけてくる。
「そうですよ。まだ読みだしたところなんで、感想を言うほどじゃないですけど」
「ユウキくんって、女の子が好きそうなのよりも男の子が好きそうなのばっかり読んでるイメージがあったから、それも好きかなと思うんだ。読み終わったら感想聞かせてね」
指をウェーブさせるように、芳穂さんは僕に向かって手を振った。
芳穂さんは、僕との距離が近いような気がする。大学生の余裕というものだろうか。
クラスメイトや部活関係では、異性とあんなに近づくようなことは無い。
以前、芳穂さんに「ここの喫茶店おじさんしか来ないから、ユウキくんが来てくれると安心する」なんて、今日みたいに昼食を一緒に取っている時に言われた。
少しうつむいていて、長く見えるまつ毛の瞬きに、僕の心臓はどきりとはねた。
ややあって、僕は僕を見下ろす。そして、落胆するのだ。
パズルのピースは、形の合ったところにしかはまらない。僕がパズルを嫌いな理由で、それが当たり前のことだ。
芳穂さんに、僕は合わない。芳穂さんにどきりとすることはあっても、憧れだけで留めてきた。
芳穂さんの気配を少しだけ漂わせる文庫本を開く。元は特別読書が好きでも嫌いでもなかったけれど、芳穂さんに本を借りて以来、僕の中の読書という項目が、少しだけ好きに寄っていくのを感じる。
「いらっしゃいませ」
芳穂さんの声が聞こえきらないくらいの深さまで、僕は本の世界に入りこんだ。フランスの本で、愛憎劇とミステリーが混ざったような本だった。
他人を蹴落とすような恋愛というのはよくわからないけれど、日本人にはあまりいないハッキリとした男性キャラクターたちが魅力的な内容だ。
一直線な思考回路と、詩的な言い回し。そこに時折絡まる汚い女の根回し。まだそこまで話は進んでいないけれど、好きになれそうな作品だ。
店内に流れている控えめなジャズも耳に入って来なくなり、僕の座っている椅子以外のすべてがフランスに染まってから、いくらの時間がたった頃だろう。
僕の前の椅子が引かれて、僕の前に誰かが座った。芳穂さんのシフトが終わった頃だろうか。だとしたら、かなり長い時間集中していたに違いない。
この季節は、太陽は名残もそこそこに寝床へと帰り、すぐに雪の良く似合うぴりりっと乾いた夜になる。
そのわりには、あまり本が進んでいない。集中して読み進めているつもりでも、世界観の風に当たっていただけのかもしれない。
まあそれも、小説の楽しみ方というものだろう。「読書は、能動的なものだ。コーヒーと一緒さ。味わいたいだけの濃さで味わえばいい」というのは、僕の本を読むスピードが遅いという話を万江頭のおじいちゃんとしていた時に、マスターが言った言葉だ。
芳穂さんは、基本的に夜はシフトに入らない。お客さんが減るからと、閉店少し前にシフトが終わり、夜はマスターが一人で回している。
芳穂さんが「どうせならラストまで入れてくれた方が、私的には給料が増えてうれしいんだけどな」と頬を膨らませながらぼやいていたのを覚えている。マスターがそれに苦笑いで答えていたのも。
「まあ、ユウキくんを駅まで送れるからいいや」
「僕は一人でも大丈夫ですよ」
「帰る方向もそんなに違わないから、別に良いんだよ」
二人で一緒に帰る上に、僕が長くここに居たがるから、結局芳穂さんは閉店まで店にいることになる。むしろ、ほとんどがそうだった。
だから今日も、芳穂さんが前の席に座ったのだろうと思った。いつもの癖で前髪をいじりながら。僕には飲めない砂糖の入っていないコーヒーを片手に。
顔をあげたら「集中してたから、声を掛けるのが申し訳ないなあと思ってね」なんて、煙草を燻らせて笑いかけてくるものだと思った。
「やあ、こんにちは名波。名波くんの方がいいかな」
だから、そいつが前に座った時、僕はもうこの店に来れないのだと思った。
マスターのカフェラテが、万江頭おじいちゃんの少しいじわるな一言が、芳穂さんの大人なのに時々みせる子供っぽさが、その間に見える魅力が。全部、今日で終わるのだと思った。
一つの場所にずっと滞在し続ければ、いつか誰かに遭遇することはわかっていたはずだ。
一か所の心地よさに甘えて、いつしか周辺の情報を更新しなくなった僕のミスだ。後悔からだろうか。僕の手が、小さく震えた。
何かに引っ張られるように、うつむいてしまう。
引っ張る力を無理やり引きはがし、もう一度前を見る。
目の前に座るこいつの「名波くんの方がいいかな」という言葉は、僕にとって執行猶予無しの無期懲役を告げられたのと等しい言葉だった。
僕の胸中の慟哭に気付いていないのか、告げた相手は僕の方を無表情でただ見ている。
手元には、僕のまだ飲めにない苦そうなコーヒー。それを見て、僕はなぜか鳥肌が立った。お腹のもっと下の方からくる、熱を持った鳥肌だった。
そもそも、人殺しの僕がこんなところに居てはいけなかったのだ。
何度も何度も人間を殺し続けるような僕が、ミルクの優しさが沈んだカフェラテを飲むことを、常連のおじさんに孫のように甘やかしてもらうことを、大学生の女性に本を借りる時、指が触れてその体温にどきりとするようなことを、知る資格なんてないのだ。
知るどころか、続けて得ようとするなんて、あり得て良いことではなかったのだ。
手のひらがじっとりと湿っていくのがわかる。手だけじゃなく、足先も汗をかくのだろうか。熱を持つ肌に反比例して、履いた靴下が氷のように冷えていく。
ここから逃げ出そうと画策するのは、視線を三度巡らせるだけであきらめた。
仕切り、壁、テーブル。これらで囲われた箱に閉じ込められている。僕は、座っているこの位置から逃げ出すことはできない。
目の前に座った僕のクラスメイトは、僕のまだ飲めない苦そうなコーヒーをさも当たり前のように口にする。
「その状態の君に、やっと会うことが出来た」
裁判が始まろうとしていた。