2冊目
図書室の扉が視界に入ってきたころ、一人の女子生徒が図書室から出てきた。隣のクラスの佐藤さんだ。
小説を書いていて、文芸部では一番上手だと噂の佐藤さん。
化粧気がなく、中学生だと言われても納得してしまいそうな程小柄な佐藤さん。
ニコニコしながら図書室から出てきた彼女は、扉を閉めてわたしの方を振り返り、一瞬地獄を覗いてしまったような顔をした。
女子という生き物は、危機的状況で驚異的な瞬発力を見せる時がある。彼女の表情は、一秒にも満たない間に笑顔に変わった。
「黒川さん、おかえり。大谷先生が待ってたよ。それじゃあまたね」
佐藤さんは比較的早口で私にそう告げると、うつむいて私の横を通り過ぎようとした
「大丈夫だよ。待っているって、教えてくれてありがとうね」
佐藤さんは、賢い子だ。なんのことかわかっていながら、わからないという表情を少しだけ残して控えめに手を振った。
馬鹿は私だ。「大丈夫」ってなんだ。
彼女を安心させているという優越感に、少しも手を浸していないと言えるか。
彼女と私の違いなんて、つるんでいる友達くらいの差しかないというのに。
ほら、こんな自己嫌悪のフリだって、誰に対するポーズなのかわからないじゃないか。マッチポンプな感傷に浸って喜ぶなんて、みっともない女のすることだ。
自己嫌悪と開きなりを繰り返しながら、私は図書室の扉を開けた。
わたしが座っている場所には、若い司書の先生が座っていた。丸い眼鏡をかけて、真っ黒の天然パーマで、カペッリーニくらい線が細くて、ベシャメルソースくらい色の白い先生。
現代文も担当している、大谷先生。私は、この先生が好き。そう、好きなんだ。
私が大谷先生を好きだということを、同学年の女子ほとんどが知っている。大谷先生に恋心を抱いているから、図書委員の仕事をサボらないのだとみんなが思っている。
別に言いふらしたわけでは無い。女子には、そういう情報網があるのだ。
一生懸命隠してほしいわけでは無いけれど、秘密として共有しておいた方がよい情報。「みんなには秘密だよ」という情報公開。
一つのグループには、たいてい一人は準レギュラーが存在する。その子が伝書鳩になる。巡り巡って、女子の中での暗黙のルールが出来上がる。
話のタネが上位の人間であるほど、伝達スピードは速くて正確だ。
みんな、どれが煮えた窯で、火傷しないためにどうすれば良いか知りたいから。私は、高温の窯の仲間だ。
「ああ、よかった黒川さん。いなくてびっくりした。さっき女の子に一冊貸し出したよ。処理間違えてないか、一応確認しといてくれるかな」
私に気付くと、先生は笑顔で話しかけてきた。まだ二十代で経験の浅い先生にとって、女子高生は扱いづらい生き物なのだろう。
最初は少しだけ媚びた笑いだったけれど、三学期を迎えてようやく自然になった。私が無害だと気づいたのか、ただの慣れなのかはわからない。
「ただバーコードを通すだけだし、大丈夫だと思いますよ」
優等生らしい笑顔を向けながら、図書室の扉を後ろ手に閉める。
一応進学校だから、先生に対してはみんな少しだけ尊敬の目を向ける。そうしないと、内申点に響くから。
「貸出ボタンを押したり、いろいろあるでしょう。だから、一応お願いできるかな」
カウンター側に回った私に席を譲って、先生は椅子の後ろに立った。少し猫背の先生は、本当は背が高いはずなのに、隣に立たないと私と同じくらいの身長のような気がした。
パソコンを少しだけ操作して、今日の貸し出しリストを表示する。つい二分ほど前の時間に小説が一冊貸し出されている。その前は、私がホームルームの後すぐに来た生徒へ貸し出したものだ。
「大丈夫、ちゃんとできていますよ」
「そう、よかった。もう僕より黒川さんの方が慣れてるから、助かるよ」
先生の胸ポケットから落ちそうなボールペンを直したい衝動を抑えながら、私は先生に笑いかけた。
「ありがとね。もうすぐ下校時間だし、もう帰っても大丈夫だけど」
「いえ、最後までここに居ます」
「そっか、ありがとう。助かるよ」
ニコニコと笑う先生は、振り向いて司書室へと繋がる扉の奥へと入っていった。
といっても、壁の上半分が透明のガラスで、司書室からこちら側も、図書室から向こう側も見えるようになっている。
なので、扉を閉めた拍子に先生がボールペンを落としたところも、拾った後にわたしの方を向いて苦笑いをしたのもしっかりと見えていた。
私は、カウンターに置きっぱなしにしていた文庫本をもう一度開き、文字を追った。
ああ、今度は匂いが気にならない。今度からは気を付けないと。香水をつけるのが下手だとバレてしまっても面倒だ。
完全に物語の世界を覗いてしまう前に、もう一度大谷先生の方を見た。
積まれたプリントを何枚もめくって、探し物をしているような後ろ姿が見える。
わたしは、大谷先生が好きだ。
その日はもう貸し出し希望者が来なくて、私は下校時間のチャイムに中断されるまで、物語を覗き込むのに熱中した。