2杯目
「いらっしゃい、ユウキくん。いつものとこ?」
「うん、お願いします」
万江頭おじいちゃんに挨拶をしていると、ウェイターの芳穂さんがやってきていつもの奥の席へと案内してくれた。
あまり広いとは言えない店内の奥に、三か所だけテーブル席がある。どれも四人がけで、一番奥の席だけ隣に背の低い仕切りがあって、どこか秘密基地のよう。
もちろん、その上にもマスターの大事な家族である多肉植物が並んでいる。僕は、その席が一番好きだった。
「今日もカフェラテでいいのよね。ホット? アイス?」
お冷の入った小さなグラスとおしぼりを置きながら、芳穂さんは僕に聞いた。
「ホットでお願いします。それと、タマゴサンドを土曜日用で」
手元の伝票に書き込むと「ちょっと待っててね」と少しだけ狐の様に吊り上がった目を軽く笑わせて、マスターのところへと伝票を持って行った。
芳穂さんはこの辺に住む女子大学生のアルバイト。高校生の時からここでバイトをしているらしい。ワイシャツに青いエプロンをして、後ろで束ねた長い黒髪を少し揺らしながら歩く。
足元がスニーカーじゃなくてパンプスだったなら、出来るビジネスウーマンという感じだろうか。
「お昼一緒にいいかな。まだ食べてなくて」
僕のカフェオレとタマゴサンドを置くと、芳穂さんは向かいの席に座った。芳穂さんは別のお盆に、平日タイプのタマゴサンドとホットコーヒーを持ってきていたのだ。
「もちろん、いいですよ」
小さく「ありがと」と声を落とすと、芳穂さんは自分用に小さく切ったタマゴサンドをつまんで食べた。
僕も、熱いカフェラテで口の中を湿らせてから、タマゴサンドを口に運ぶ。
僕のタマゴサンドは、芳穂さんのタマゴサンドと違って土曜日用の特別性だった。一目でわかるのは、僕の方はホットサンドになっている。バターを塗ったフライパンで軽くプレスしながら焼かれたパンに、タマゴとスライスオニオンと特性マヨソースが入っている。
この焼くという一つの工程だけで、バターの香りがパンに伝わって、タマゴとパンがしっかりと仲良しになるのだ。
そして、少し酸味のある特性ソースのおかげで味がまとまり、スライスオニオンが違った歯ごたえで遊ばせてくれる。
僕はこの土曜日仕様のタマゴサンドが大好きだった。
サクサクとサンドイッチを進めていると、テーブルの上に湯気を燻らせた真っ白い二つのスープマグが置かれた。マスターが、コーンスープを持ってきてくれたみたいだ。
「今ユウキくんと万江頭さんしかいないから、サービスな」
少し白髪交じりの頭をしたマスターは、筋肉ではち切れそうなコックコートになんとか収まっている肩を揺らしてカウンターの中に戻っていった。
「趣味が多肉植物を育てることですなんて、だれが信じるのかしらね」
コーヒーカップで指先を温めながら、秘密基地で秘密の作戦を練るみたいに小声で話しかけてくる。どこか少女的な笑い方と顔の近さに、僕は少しだけどきっとし、カフェラテを飲むことでそれを誤魔化した。誤魔化し切れている自信はない。
少女を引っ込めて、花が少し風で揺れるようにおとなしく笑いながらスープに口をつける芳穂さんが、僕にはわからなかった。
マスターは、変なこだわりのある人だった。
マグカップが割れたらその日はコーヒーが少し割引されたり、「リッチメニュー」と称して、普段より手の込んでいて普段より少し高いランチメニューが時々出てきたり。不定期で一か月ディナーもやってみたりと、様々だ。
料理の腕がフラスコの中みたいに小さな町なんて似合わないほど良いから、好き勝手にしていてもつぶれたりしない。
むしろ、そういうのを楽しみにしているお客さんもいるらしい。
そんな、不思議な喫茶店が好きで僕は通うようになった。
「新しいセーターだね」
タマゴサンドとコーンスープをすべて食べ終えた芳穂さんが、眉間に皺を寄せて煙草に火をつける。
「この前、安くていい色だったのでつい。芳穂さんも、煙草また変えたんですか」
「変えたんじゃなくて、戻したの。少しずつ禁煙するついでに、もっと女の子らしいの吸おうかと思ったんだけど、かえって量が増えちゃって」
セブンスターと書かれた煙草の箱には、確かに見覚えがあった。前の小さくて化粧品みたいなケースの箱も可愛かったけれど、細い煙草はどこか頼りなくて芳穂さんの鋭い目に合っていないような気がしていた。
「その方が芳穂さんらしくていいですよ」
スープに口をつけて言うと、芳穂さんは苦笑いを浮かべてから、また大きく煙草を吸った。細く長く煙を吐き出す姿は、煙を味わっているというよりも、その時間を味わっているようだった。
「らしいなんて言われるほど定着してるなら、禁煙はまだまだ遠いなあ」
煙草の火を消しながら、芳穂さんは言った。煙草を消すと少しだけ少女っぽさが戻ってくるから、煙草というのは不思議だ。
興味はあるけれど、マスターや芳穂さんに「似合わない」って笑われそうで手が出せなかった。
「そこに座ってるユウキくんも、ユウキくんらしいになじんで来たんじゃないかな」
コーヒーを啜りながら肘をつく芳穂さんはやっぱりお姉さんで、煙草を吸っているから大人なんじゃなくて、大人になってくると煙草が似合うんだって思った。
僕はきっと、まだまだ不格好だろう。
「おういマスター。芳穂がまたユウキに変なこと教えてるぞ」
「何も教えてないですよ。麻雀を教え込もうとした万江頭さんに言われたくないなあ」
万江頭おじいちゃんの方に向ける拗ねた顔は少しだけ幼くて、別の側面から見たらきっとまだ子供なんだろう。
「ほら芳穂、そろそろ休憩終わりなんじゃないか」
しばらく二人で話をしていると、マスターが声を掛けに来た。
芳穂さんは短く「はい」と返事をすると、僕の食器も持って厨房の方へと歩いて行った。
万江頭おじいちゃんの空いたお皿も回収すると、エプロンを締めなおして鼻歌を歌いながら楽しそうに洗い物に励んだ。
その横で、マスターがディナーの準備をしている。動く絵画のような風景は、それを見慣れている自分を誇らしく思わせてくれた。
僕の視線に気づいてしまったマスターが、近くにあったコーヒーカップを持ち上げた。おかわりを促しているのだろう。
僕が小さくうなずくと、マスターは大人の男を思わせる渋みを含んだ笑いを返してくれた。それを確認すると、僕はお店の向こう側に目をやった。そこに、僕がこの店を好きな理由がある。
入り口のすぐとなりにある大きなガラス。そこを通して外をみるのが好きだった。
大きな窓枠の向こう側は、まるでテレビを見ているような気分になれた。
手を繋いで歩く親子連れ。大きなカバンを持ってあるくおじさん。
この前見ていて笑ったのは、スマホを見ながら歩いていて、電柱にぶつかりそうになった人。
その人は、誰かにぶつかりそうになったと思ったのだろう。電柱に謝るようなそぶりをしたのだ。
電柱だと気づいたその人は、恥ずかしさからか、前髪を直すふりをして顔を隠して歩いて行った。
ある時は日常風景。ある時はコント番組を見ているようなその窓からの風景が、僕は大好きだった。
そして、視線を少しだけ手前に戻す。テレビ番組の中に土曜日のキッチンも入れて、僕の手をまえにかざす。今見ている面白い世界の住人に、僕もなれる気がしたのだ。
いや、こちらこそが本当の僕。目の前にある温かいカフェラテのような甘くて少しだけ苦い世界に、僕は存在している。それを実感できた。
実感することで、何度も殺し続けている彼女に対する罪悪感を忘れられた。
いや、逆だ。彼女を殺すのが先じゃない。
僕はここに来るために、彼女を何度も殺し続けている。