6杯目
やつに水をかけてから、一週間プラス少しの時間が過ぎた。土曜日のキッチンへ通うようになって、土曜日にあそこへ行かなかったのはいつぶりだろう。日曜日のお昼ごはんを食べても、私は自室のテレビの前から動けないでいた。
クローゼットの奥の方には、相変わらず僕の殺人道具が収納されている。水をかけたあの日から、クローゼットの奥の道具が誰のものなのかわからなくなっていた。
僕の殺人道具だと思っているが、もしかしたら私が自殺をするための道具なのかもしれない。
両親への罪悪感や、秘密を隠している友人への後ろめたさから、誰かのせいにしているだけなのではないだろうか。
私は、二重人格なんかじゃない。死ぬことで誰かと入れ替わっているなんてない。けれど、私と僕は同じではない。私は偽物で、本物は僕だ。心では、そう思っている。
けれど、学校へ行っているのは私だ。ノートを取っているのも、友達とお弁当を食べているのも、授業の合間に隠れて芳穂さんの本を読んでいるのも私だ。僕が借りた本を、私が読んでいる。
そういえば、この一週間学校では特に変わったことはなかった。
月曜日の朝は、心配と不安からお腹が痛くて仕方がなかった。
学校中に言いふらされていたらどうしよう。自分の机が落書きにまみれていたらどうしよう。
ラインのグループを急に退会させられたら。お昼を一人で食べなければいけなくなったら。授業中の発言以外、誰とも会話せずに帰ることになったら。みんなからの視線が、どす黒い色に変わっていったら。
そんなことを考えると、ハリネズミを丸飲みしたかのように私の胃はキリキリと痛んだ。
それでもなんとか学校へ行ったのは、やつのせいで行けなくなるという事実が悔しかったからだ。
僕の大好きな日常を壊されそうになったのに、私の日常まで壊されたままで居られなかった。
火曜日は吐き気が収まらなくて、遅刻ギリギリまで駅のトイレから出られなかった。
「学校生活が壊れてしまったら、やつを椅子でぶちのめして、停学にでもなってやる」
頭の中で何度も椅子を振りかぶるシミュレーションをしながら、なんとか教室へとたどり着いた。
学校生活は、平穏そのものだった。
友達は何度目かの彼氏の愚痴を笑いながら話していた。別の友達は、甘えるような声で私に数学のノートを借りていった。別の友人からは、飴玉を貰った。
今までと変わらない、平穏な日々だった。
やつの目的が、まったく見当がつかなかった。学校でやつが視界に入るたびに、一番近くにある椅子の位置を確認していたけれど、話しかけてくることもなく、物静かなグループ数人で集まっていた。それも、普段と変わらない私にとっての背景だった。
お昼のバラエティ番組が、テレビから垂れ流される。有名な女優が、不倫をしていたらしい。都心にあるパンケーキ屋さんから、行列が絶えないらしい。
眺めてはいるけれど、テレビから流れる動画と音声は、私の脳を少しタッチしてすぐにどこかえ消えてしまう。
「君みたいな人を探していたんだ」
あの時やつが言っていた言葉が、テレビからの情報の侵入を拒んでいた。
意味がわからない。
成績がすこぶる良いわけではない。異性にモテた試しもない。ファンタジーな話は、少年誌のバトル物が好きだ。
学校は、平穏だった。
土曜日のキッチンは、まだ僕にとっての平穏だろうか。
また、ハリネズミを丸のみしたような胃の痛み。月曜日よりも、ハリネズミの活きがいい。
あそこは、僕にとっての日常だ。数少ない、本物の僕が、本物の僕として受け入れられている場所だ。
芳穂さんに借りている本をまだ返していない。手物にある本が終われば、また別の本を借りる予定だ。
それに、あんな日陰者のせいで、僕の日常が壊れてしまうのは気に食わない。
もし、土曜日のキッチンの雰囲気が変わっていたら、駅前のお花屋さんでサボテンを買おう。とびっきり針の硬そうなやつを。
そして、やつの家を見つけ出して、そのサボテンで殴打してやる。
私の自殺なのか、僕による他殺なのかの答えはまだ出ていない。
それでも僕は、クローゼットを空けて、殺人を始めた。




