096:壁に耳あり、障子に目あり
マリーナの部屋の扉の僅かな隙間に差し入れられる手紙の内容は、彼女の母親であるエリザベス・イヴァンジェリン・ルラローザの『罪』を糾弾するものだった。
それは二つのことを示唆していた。
一つはアルバートの小姓・ジョン・グリーンが、エリザベス・イヴァンジェリンの娘のマリーナ・キールだと知っていると仄めかしていること。
二つ目は、エリザベス・イヴァンジェリンがかつて犯し、そして、誰にも知られるはずのない『罪』を知っていると脅すことだった。
「あのことを知っているということは……それこそ、例の一件の片棒を担いだ人間しかいないではないか」
「ですから”ベルトカーンの烏”だと。でなければ、殿下……以外しかおられませんが」
「あ……そうか」
『夕凪邸』の焼け跡から見つかったエリザベス・イヴァンジェリンの残した本に書かれた『物語』を読んだのは、アルバートとマリーナ・キールだけだからだ。
そうなるとジョンが知っているのは不自然なことだったが、もはや、マリーナがジョンであることは、二人の中で暗黙の了解に昇格していた。
「それで”ベルトカーンの烏”はなんと?」
「まだ何も」
ただ、”花麗国”で多くの罪なき人々が殺されていることも、エンブレア王国もまたいずれ破滅の道を歩むのも、全てはエリザベス・イヴァンジェリンのせいだと言わんばかりの書きようだった。
「辛いだろうけれども、気に病んではいけないよ。
母親の犯した『罪』が子どものせいになるのならば、トーマスを殺したのは私になるだろう。
それは違うだろう?」
「でも……」
でも、そうではないのだ。
「他の人はそう思いません」
「他人の目が気になる?」
王妃のように? とアルバートは不安になった。
確かに、マリーナになんの咎がなくても、母親のことを”ベルトカーンの烏”の手腕でもって吹聴されれば、彼女の立場は悪くなる可能性が高い。
「そうであっても、私は今回のこと無事に済んだら、マリーナ・キール嬢を妻にと望んでいる」
「――っ!」
真面目な顔で王太子に、面と向かって求婚された。
嬉しくない娘はいないだろう。
なのにマリーナは悲しくて泣きたくなった。
「もしもマリーナ・キール嬢が、母親の問題で王太子妃になれないというのならば、やはり私が王太子位を降りよう。
そうすれば、私と結婚してくれるかな? いや、王太子ではない私に、ついてきてくれるだろうか?」
「そんな――!」
驚いて、マリーナの涙が引っ込んだ。
「そうだな。私が”王太子妃”にと望んで求婚したというのに、勝手な言い草だね」
「そうではありません! 先ほどもおっしゃったではないですか!
”ベルトカーンの烏”……ブルクハルトの望み通りにはならないと。私も、そんな殿下は見たくありません」
「ならば――」
アルバートは意を得たと微笑む。
「君も、マリーナ・キール嬢も、あの男の思う壺になってはいけない。
”ベルトカーンの烏”はあらゆる人間の心を弄び、意のままにするのを得意としているようだが、それに操られてはいけないよ。
それこそが、奴に打ち勝つことなのだから」
「はい」とマリーナは答えた。
毎日のように届く手紙にマリーナが追い詰められていたことは確かだった。最初は「大したことはない」「こんなのただの脅しだ」「殿下を煩わせるようなことではない」と否定していたが、”ベルトカーンの烏”の人心掌握術は巧みで、徐々に彼女の心は蝕まれていたようだ。
「殿下にお話し出来て良かったです」
ふっと表情を和らげたマリーナに、アルバートは今度は自分が正しい対応をとったのだと自負し、その笑みに満足した。
「私も……あの本を読んでいて良かった。
こうして、君の相談にのれたのだからね」
無意識なのか、アルバートは片目を瞑ってみせたので、マリーナは椅子から立ち上がれなくなった。
手紙の禍々しさよりも、アルバートの妖艶さの方が、危険だ。
「にしても、こんな手紙がジョンの部屋に投げ込まれるようでは、ここ近辺の警備も、もはや信用は出来ないようだ」
だからこそ、マリーナがアルバートの不用意な発言を注意したのだ。
「ですからどうかお気をつけて下さい。
どんな邪推をされるか分かりません」
「そうだね」
マリーナの心配にアルバートが答えたと思いきや、彼は全く違うことを考えていた。
「君はもう、ここには居ない方が安全だと思う。
ねぇ、ジョン。もう”マリーナ・キール嬢”の元へお帰り」
「”ジョン”ではお役に立てませんか?」
震える手を、ぎゅっと握りしめた。その上から、アルバートがそっと手を添えたので、震えは止まるどころか、ますます酷くなった。
「いいや。私も君に居て欲しい。
そのせいでずるずると君をここに引き留めてしまった。
が、事情は急速に変わり、私の身の上も危うくなった。
分かって欲しい。君は側にいてもいなくても――私の役に立つ存在だよ」
とは言え、マリーナがすぐに王宮から退出することも難しくなっていた。
そこで、ストークナー公爵夫人の力を借りることにする。この混乱する王宮で、彼女とニミル公爵夫人だけが、いつもと変りなく、派閥を問わずに様々な人の間を行き来することが出来た。
それまでは、マリーナは出来るだけ大人しく王宮に留まることになった。
***
ついに翌日、ストークナー公爵夫人の手引きで王宮から脱出するという日。
アルバートはただ彼の自尊心を傷つけられるだけの会合に呼び出された。王も、ブルクハルト大使も同席することから、マリーナは置いて行かれることになった。
自室に籠って、寝台の下に隠した母親の本を開く。これごと持っていくのは難しそうだ。かと言って、ここに置いておくのも危険で不安だ。
そこで、手紙開封用の小刀で、該当部分だけ綺麗に切り取り、小さく畳み、新しい紙に包んで胸元にしまった。いっそ燃やした方がいいのかもしれないが、その決心がつかなかった。
「いろんなものが隠せるのね、ここ」
わざと明るく、ぽんぽん、と胸を叩いて言った。
皮の紐を辿って、鯨の歯の彫刻を引っ張りだすが、お目当ては、そちらではなく、付随している王太子のボタンだ。
「殿下、大丈夫かしら――」
しばらく眺めていると、またもや扉の隙間から、手紙が差し入れられた。
「もう!」
マリーナは立ち上がって、扉の元に向かった。犯人を捕まえようなんてこと、思ってはいなかった。扉を開けた瞬間、ブルクハルトの手の者に入り込まれてしまう恐れがあるからだ。
それでも気になるので、扉に耳を付けて様子を伺うと、今日に限って、向こう側が騒がしい。
誰かが言い争いをしているようだ。
恐る恐る扉を薄く開けると、ロバートが王宮の下働きの女を一人、捕まえていた。
「ここは王太子殿下のおわす場所だぞ。お前の様な身分のものはおいそれと近づいてはならん場所だ」
女は「知らなかった」「迷い込んだ」「勘弁して欲しい」とロバートに平謝りをして、その場を逃れていった。
おそらく手紙を差し入れたのは彼女だろうが、その内容も意味も、知らないに違いない。マリーナは彼女を追ったりはしなかった。代わりにロバートに顔を見せた。
「ロバートさま」
王妃への不義密通の噂のせいで、ロバートは参っているらしい。目が落ちくぼんで、瞳ばかりが爛々と光っていた。
――狂気めいている。これが本当の狂気なのかもしれない。
そうマリーナが思うほどだ。ただし、”ジョン”へのロバートの対応は、親しげだった。まだ”仲間”だと信じているのだ。
「おお、ジョンか」
「ご機嫌いかがですか?」
「良い訳なかろう。
私のせいで、王妃さまにあらぬ疑いがかけれてしまった。
なんとお詫びして良いのか分からない。
王妃さまは私に会って下さらない。ああ、王妃さまはお優しい方だから、私に迷惑を掛けないようにして下さっているに違いない。
アルバート殿下も私を遠ざける。それも仕方がない。大事なお母上の、あのような失礼な噂の相手となってしまったのだ」
ロバートは一気に話した後、顔を覆った。
「アルバート殿下はおられるか?」
「いいえ。今はおられません」
確かに警備は手薄になったようだ。こんな状態のロバートがアルバートの居室の近くに入り込んでも、誰も制止しないとは。
「そうか……最後にお会いしたかった」
「最後? どういうことですか?」
「このようなことになった以上、私はアルバート殿下の側近を辞そうと思う」
「そうですか……ハンナさまも王妃さまの側を――」
マリーナが最後まで言う前に、ロバートの怒りの籠った拳が、廊下の壁を打った。
「ロバートさま……」
マリーナはうろたえて見せたが、ハンナが王妃の完全な味方ではなかったことは、庭師のジョンによって報告済みだった。
ハンナも”ベルトカーンの烏”と通じていた。彼女は息子の噂の責任を取ると言う口実で王宮を下がったのだが、それ以降、王妃の噂はいやまして酷くなった。ハンナが裏で吹聴しているのだ。
それを息子も知ってしまったのだろう。
「私はあの女とは違う!」
「ハンナさまはどこにおられるのですか?」
王妃の元女官長は行方をくらませていた。
「知らん! 私が知りたい! そしてあの口を封じてやりたい!」
これ以上は、ロバートから得られる情報はなさそうだった。母親の名前だけで尋常ではないほどの反応をしているのも、マリーナには恐ろしく見えた。
「申し訳ありません」
「……お前が謝ることではない」
大きな図体なのに、雨に濡れた子犬のようにしょんぼりするロバートだった。
「謝らなければならんのは私だ。どうかアルバート殿下に詫びて欲しい。
私は決して、王妃さまにもアルバート殿下にも反意はないのだ」
「……はい。分かります」
ただし、その忠誠は時に、悪意よりも厄介だというだけだ。
ロバートはマリーナの口には出さなかった言葉は勿論、聞こえない。ただ、自分の忠誠心を認めてくれる相手に会えて喜んだ。
「お前も分かってくれるのだな。
ならば、頼まれて欲しい」
「私が? ですが、私のような者は何も力はありません」
アルバートが不在の折りに、またもやロバートに振り回されてはいけない。
警戒するマリーナに、ロバートは優しく……おそらく、それが彼本来持っている性格なのだろう……とても優しく言った。
「大丈夫だ。難しいことは頼まん。
ただ、お前は良い小姓だ。あの親切なニミル公爵夫人にも可愛がられている。
どうかニミル公爵夫人に私が感謝していたと伝えて欲しいのだ。
公爵夫人のおかげで、王妃さまは私との疑いを払拭することが出来たのだ」
それくらいならば、話しても構わないような気がしたマリーナだったが、明言は避けた。
「もしも今度お会いして、そのようなお話をすることが出来ましたならば」
「それで良い。公爵夫人のような立派なお方を、私たちのような人間が煩わせてはいけないからな」と、ロバートは寛大に微笑んだ。
ロバートの大きな手がマリーナの小さな手を握った。
「お前はもう少し、食べた方がいいぞ。
こんな細い腕では、アルバート殿下を守りきれないだろう。
ああ、ジョン。どうかアルバート殿下を頼んだぞ」
最後に、マリーナに「ありがとう」と言うと、ロバートは王宮から姿を消した。




