095:軒を貸して母屋を取られる
エンブレア王国海軍士官ジョン・ペイン改め、ベルトカーン王国大使、カール・ブルクハルトは今や、サイマイル王国、神聖イルタリア帝国、”花麗国”の大使を王宮から追い出し、エンブレア王国と最も親しい同盟国の大使として我が物顔で歩いていた。
サイマイル大使は、アルバートにヴァイオレット妃のことを任されたイルタリア大使によって、宥められていた。”花麗国”はすでに王国としての体裁を失っている。
革命軍によって”花麗国”は蹂躙されていた。
王族を、貴族を、裕福な地主を排除した彼らは、さらなる生贄を求め、少しでも気に入らない人間たちを処刑台に送り始めた。革命軍の中でも内部闘争が始まり、殺戮は殺戮を呼んでいた。
「王妃さまと同じです」
なぜそんなことを? と疑問を投げかける王太子に、マリーナはそう答えた。
「身に余る権力を、制御出来なくなってしまったのです」
多くの者は無学ではあっても、善良で働き者だった。
それが、これまで君臨してきた支配者階級を引きずりおろし、その生殺与奪の権利を手にした時、思いもかけぬ残忍さと、変らぬ勤勉さが発揮されてしまった。
それはマリーナが父や義兄、パーシーたちに聞いた『艦長をはじめとした上級士官を追放した艦』の話に似ていた。
様々な思惑を持つ人々をまとめ、率い、艦の舵を取るのは難しい。
”花麗国”にも民衆を率いるに相応しい人材もいたはずだが、彼らはベルトカーンの手によって、すでに葬られるか、疑心暗鬼を植え付けられ、その力を振るえないでいた。
混乱し、疲弊した”花麗国”はベルカーンにとっては好都合だった。人々はその内、制御の取れない殺戮に倦むだろう。革命に飽きるだろう。そして、民衆に再び強い王権を求めるように仕向けようとしているのだ。
「ああ……」とアルバートは絶望的な声を上げた。
「もしも、真に志をもった民衆たちの声と力によって革命がなされたのならば、もっと穏便な結果になっていたのかもしれないのに」
困窮のあまり”無能”な支配者階級を追い出した結果が、これでは報われない。
「殿下がそのようなことを言ってはいけません。
どこに間者が潜んでいるのか分からないのですから」
王妃に王への反逆の疑いが浮上していた。
マダム・メイヤーが捕縛されたのである。彼女の居場所を、何者かが――おそらくブルクハルト大使が密告したのだ。マダム・メイヤーは捕まる時、集まった人々を前に「王妃だ! ロザリンド王妃が革命軍に武器と資金を渡すように命じたのだ!」と叫んだ。
他国の反逆者の、何の根拠もない発言だったが、普段から評判が悪かった王妃を擁護する者は少なく、それがベルトカーン王国の益になるとは知らぬエンブレア王国の民たちが面白半分に口にしたことで、瞬く間に全土に広がることになる。
さらに王妃に謀反を唆した相手として、アルバートの乳兄弟・ロバートの名が上げられた。
彼が夜に王妃の部屋の近くを歩いていることはよく見られたことだった。いつもは母親のハンナに会いに行っていると受け止められていたが、こうなると、それは王妃に会いに行っているたのだと疑われた。
王妃の部屋に出入りしている黒い人影はブルクハルト大使でもあったはずなのだが、”ベルトカーンの烏”は巧みに罪をロバートに着せようとしたのだ。
もっとも、王妃とロバートが不義密通をしているという話は、ブルクハルト大使が企んだようには上手く人に信用させることは出来なかった。
『あらまぁ、こう言っちゃあ悪いけど、あのロバートが王妃さまと寝台の上でどうこう出来るのかしら?
あの子、服を着た王妃さまの前でも汗を掻いて、今にも卒倒しちゃいそうな有り様なのよ』
ニミル公爵夫人の感想は、大の男にとっては屈辱以外に他ならなかったが、その点に関してのみは、彼の無実を人々に納得させる力があった。
ロバートが平素、王妃を女神のように崇め、子どものように純粋に慕っている姿は、夜に王妃の部屋の近くをうろついている姿よりも、もっと多くの人の目に触れていたからだ。おまけに、発言者の意向が大きかった。ニミル公爵夫人がやっていない、と言えば、やっていないのだ。少なくとも、彼女に聞こえるような形で、こんな不埒な話をしてはいけない。
おかげで王妃の地位はかろうじて保っていたが、王妃派と呼ばれる人々の内、ブルクハルト大使の術中にはまった者たちは、ベルトカーン王国に与し、まだ心ある者は反王妃派の首領とみられるチェレグド公爵に助けを求めた。チェレグド公爵はわざとアルバートと距離を取り、彼らを受け入れた。アルバートを守るには、一緒に王に睨まれてはいけないからだ。
アルバートもまた、王妃と共に、エンブレア国に革命思想を持ち込もうとする危険分子に思われたのだ。
マリーナの額の傷は薄くなったが、アルバートが王に付けられた傷はまだ生々しかった。
エンブレア国王ははっきりと王太子に不快感を示し、その権力を取り上げた。アルバートの廃位は目前とまで囁かれ始めた。王の一人息子といっても、その地位は安泰ではなくなった。
よりにもよってこの時期に、サビーナが王の子を懐妊したというのだ。
「この国が丸く治まるのならば、私は王太子位を返上しても良い」
「殿下……」
それを言うくらいなら、いっそ謀反を起こして欲しいとすら、マリーナは思った。それが伝わったのか、アルバートはすぐに皮肉っぽく笑った。
「冗談だよ。
私を王太子位から引きずり下ろすのがブルクハルトの望みならば、そうさせる訳にはいかない。
ところで、ジョン?」
「はい、殿下」
「何か気がかりでも?」
「え?」
アルバートはマリーナの驚いた顔を見て、自分の予想が当たったことを確信した。
もう以前のように、自分の悩み事や焦燥にかられるあまり、大切な人が悩んでいるのを見過ごすようなことはしない。
「出来れば……相談して欲しいのだけど?」
王太子のくせに小姓に低姿勢で頼む。
それでも言い難そうなマリーナに、微笑んでみた。
するとマリーナの顔がみるみる間に赤くなり、「あの……」と話し始めたではないか。
「聞いておられますか?」
アルバートはついに、自分の妙な魅力に気づいてしまった。思わず固まりかけて、もう、この癖は止めるのだ、と気を取り直す。
「ああ、聞いているよ」
ついマリーナを忘れかけたことを誤魔化すようにとびきり艶然と笑ってみせると、小姓は居心地の悪そうに近くの椅子に崩れ落ちるように座った。
「手紙が届くのです」
「手紙?」
「誰から?」
アルバートの攻勢に赤らんでいた頬が、平素の白さに戻り、青ざめた。
「”ベルトカーンの烏”から……だと思います」
さすがにアルバートの顔からも笑みが消えた。




