093:天知る、地知る、我知る、人知る
ヴァイオレット妃とトーマスを救出した”ヴィヴィアン号”は、しかし、帰ってこない。
おそらく、母国に帰港しても、せっかく助けた二人を再び危険にさらすことが分かっているからだ。
「二人のことは神聖イルタリア帝国に頼もうと思う。
もともと、ヴァイオレット妃はイルタリアの皇太后となったものを、強いて”花麗国”に嫁いで頂いた。
その際に、イルタリアより拝領した女大公位と領地もある。
エンブレアに帰国するよりは、ヴァイオレット妃にも良いだろう」
アルバートは密かにイルタリア大使を呼び、事の次第を明かして助力を請うことにした。
珍しく即決だ。
「ご存知でしたか?」
チェレグド公爵が尋ねると、アルバートは「何を?」と返した。
「ヴァイオレット妃のご無事を、です」
「いいや。”それは”知らなかった。
だが、ベルトカーン国王がヴァイオレット妃を欲していることを知った以上、彼らの手に落ちる危険性は分かっていたし、そうならない場合、なった場合の対処法は考えてあった。
今回の件は想定外だったが、アランの言ったように、独力で敵の手から逃れた時のことは考えていた。それを応用したのだ」
「なるほど。
では、何をご存知なのですか?
我々は認識を一つにするべきです。これ以上、隠し事はお止め下さい」
「私が知っているのは、王妃の元に”ベルトカーンの烏”が通っていることだ。そして、トーマスが生きているかもしれないこと……などなど、かな?」
アルバートが折る指の数は、申告したものよりも多い。
「トーマスさまのことをどうやってお知りになられたのですか?」
王宮からほぼ出ないはずの王太子が知るにはやはり多すぎる。チェレグド公爵は、アルバートの部屋にも”ベルトカーンの烏”のような輩が通っているのかと心配した。
それに対するアルバートの答えが「ジョンが王妃の庭から薔薇を貰って来たんだ。そこについていた虫に教えてもらったんだよ」では、不安過ぎる。
「烏の次は、虫ですか? 勘弁して下さいよ。
王妃の庭の虫なんて――」
そこまで言ってチェレグド公爵は唖然とした表情でストークナー公爵を見た。「王妃の庭の薔薇だと?」
「そう。
王妃の庭の薔薇は、元はと言えば我が妻、セシリアが丹精込めて育てた薔薇たちだった。
かつてはエンブレア王国一の薔薇園と呼ばれた」
それが王妃の癪に障った。
エンブレア王国の一番は、自分でなければならない。自分のものでなかればならない。
「セシリアは心優しい女性だ。
その頃、王妃が若く、慣れない王宮で苦労しているのを知っていて、少しでも心が慰められればと、自らの薔薇を差し出した。
自分の薔薇園が根こそぎ掘り起こされ、無残な有り様になっても笑って許したほどに、心優しい女性なのだ。
それを――」
ストークナー公爵の声が詰まった。
薔薇だけならば許せたものを、王妃は息子まで夫人から奪ったのだ。
「つまり、王妃の庭の庭師は、ストークナー公爵が放った間者だったという訳か」
最初に放ったのは夫人であり、次いで公爵も情報をもらい、ついには王太子も彼と接触した。
ストークナー公爵は夫人のことを、アルバートには知られたようだが、チェレグド公爵には最後まで黙っていようと思った。そして、それ以外は、全て包み隠さずに明かそうと決意した。
「そうです、チェレグド公爵。
そして、トーマスの身代わりになった男の子が、どんな経緯でそうなったのか分かりませんが、そのような子どもを少しでも減らすために、一部の地域で慈善活動をした結果、市井にも味方になってくれる人間を得ました」
「ストークナー公爵夫人は我が近衛連隊をはじめとした陸軍各隊にも人気がある」
アルバートの言葉に、マリーナは夫人がただ、若い男の子たちを息子の代わりに愛おしんでいた訳ではないことを悟った。あれも夫人の策略だったのだ。
きたるべき日に、出来るだけ自分たちの味方を増やしておくための。
そのきたるべき日とは、なんだろうか。
姪と同じく伯父も、その野心に戦慄した。だが、ストークナー公爵は自分の意図はそこにないことを表明する。
「誤解なきように。
私は王座に野望を持ってはいません。ただ、トーマスをこの国に戻す為に、邪魔な人間は排除します」
その人物とは王妃に他ならない。
決然たる意見に、アルバートが俯いたので、その場にいた者たちは、やはり母親に情が残っているのだと思った。
だが違った。
「情報は集まって来ている。けれども、私は遅すぎたのではないだろうか?
すでにベルトカーンの魔の手は、国の中枢まで蝕んでいた。
私は遅すぎた。固まっている場合などなかったのだ。後手に回りすぎた」
悔しそうに膝を叩く。弾みでテーブルの上のティーカップとソーサーが抗議の音をたて、チェレグド公爵が慰めの声を上げた。
「まだ挽回できますよ。
ただし、攻め手を一個でも間違えれば、やつらに逆襲されてしまいます。
慎重に、しかし、大胆に、対策していきましょう」
「私に協力してくれるか?」
「はい、殿下」
ストークナー公爵も続いた。
「力を合わせて、この難局を乗り越えましょう」
けれども、そこに抗議の声を上げたのはパーシーだった。
「そうならば、もっと早く言って欲しかったです。
こちとら無駄足と踏みましたよ、ストークナー公爵閣下」
王太子は身分の差なく忌憚なく意見を述べるように申し付けた場だったとはいえ、マリーナはパーシーが叱られるのではないかと恐れたが、庶民派のストークナー公爵はパーシーの態度よりも、内容を気にした。
「と、言うと?」
「私はチェレグド公爵の言いつけで、トーマスさまを殺害した人間を探していました。
ですが、今、話を聞けば、誘拐して、船の乗員として売り渡したのですよね?」
彼曰く、「そういう商売は、この国の港にも少なからずあります」。
家の厄介者や、若くして財産を継ぐ甥を始末する為に、邪悪な叔父が、子どもを眠らせて、そのまま船に乗せてしまうのだ。
『この子は嘘吐きで、自分のことを公爵の息子と言ってはばからない。しかし、それを信じてはいけない。この子は我儘で、どうしようもない子どもだから、しっかりと躾けて欲しい』
そんなことを言えば、誰もその子の言うことを信じない。公爵の息子だなんて、誰が信じると言うのだろう。
子どもは薬か何かで眠らされ、船倉に入れられる。それから遠く、祖国から離れたところでようやく船倉から出されるのだ。陸は遥か遠く、もう、帰れない。自らの運命を受け入れるか、海に身を投げるしかなくなるのだ。
「おそらく王妃に命じられた人間が、王妃から金を受け取るだけでは飽き足らず、子どもを悪徳船主に売って、二重に金を手に入れたのでしょう。
最悪の野郎ですが、それでトーマスさまは命だけは助かりました。
と、なると、そちらの方向から犯人を捜すべきでした。
トーマスさまの身代わりになった子どもも、湧いて出てきた訳ではありません。
親がいるはずです。売ったとしても、攫われたとしても、子どもが一人、いなくなったのです、いいえ、トーマスさまを入れて、二人、あの界隈では一日で子どもがいなくなったのです。尋常なことではありません」
「しかし、パーシー。
私もそれとなく、トーマス以外の子どもがいなくなってはいないか、探りを入れてみたのだが、そういう噂は聞かなかった。
就学で街を離れた者の消息まで辿ったが、その生死はともかく、行方が不明になったものは見つからなかった。
だから私は、身代わりの子どもは親から離れたか、先に親が死んだかして身寄りがなくなったものではないかと。
二重で金を受け取るのならば、元手はかからない方が良いだろう? 可哀想に、きっと野垂れ死にした子どもだったのだろうと思ったのだ」
子どもの弔いを理由に、何度も足を運んで調べたストークナー公爵の情報に、漏れはなかった。
「そうでしたか……ですが、船の方はどうですか?」
「それは分からなかった。あの日、何隻もの船が出港していった。すぐに調べればわかったかもしれないが、何しろ、私はあの遺体がトーマスだと判断してしまった。よく見れば、あの子の背格好に似ているだけの別の子どもだと分かったかもしれない……だが……」
水に沈んで数週間も経った遺体の腐敗は激しかった。ストークナー公爵はそれでも、必死で自分の息子の面影を見出そうとしたが、無理だった。遺体が身に着けていた服が、当日、トーマスが着ていたものだというだけの決め手で、トーマスと断定された。
「あの子のお尻には、小さな痣があったのだけど、それももう……分からなくなっていてね。
薔薇の形の痣だった。セシリアは赤ん坊の頃のトーマスのお尻にキスをして、私の可愛い薔薇と呼んでいた……」
ストークナー公爵の喉から嗚咽が漏れる。
「閣下……港に停泊している船がすぐに出航するとは限りません。
何日か、何週間か、トーマスさまは船倉に押し込められていたかもしれません」
なので、そう責めないように、と慰めたかったパーシーだったが、それは即ち、捜索の手を船舶に広げれば、出航前にトーマスを助け出せた可能性があったことも示唆してしまった。
あの頃のことだ、王妃の意向で、トーマスの捜索は熱心に行われたとは言えない。
「と、とにかく、そういうあくどいことをする船主は、今も同じようなことをしているかもしれません。
もう一度、視点を変えて探してみましょう」
「当てはあるのかい?」
アルバートの期待に満ちた問いに、パーシーは覚悟をもって一礼した。
「はい。
下町には海軍時代に一緒に艦に乗っていた知り合いが大勢います。キール艦長から恩を受けた者も多くいました。
すでに彼らの協力を得ています」
トーマスを連れ去った男を見つければ、王妃の『罪』を明らかにする証人が得られるのだ。
「それからもう一人、探さなければならない人間がいます」
パーシーは言った。
「”ベルトカーンの烏”は、エンブレアの人間です。
マダム・メイヤーの邸宅で見かけたのですが、あいつは……かつて一緒の艦に乗ったことがある男です」
「そして、どうやら、”ベルトカーンの烏”はカール・ブルクハルト大使のようですね」
チェレグド公爵はアルバートが”ベルトカーンの烏”がカール・ブルクハルト大使だいうことを把握していると予想し、それは当たっていた。
ただし、さすがに彼がエンブレア王国の人間、それも海軍の人間だったことには驚くだろうと思った。
チェレグド公爵の前で、アルバートは目を見開いた。驚いたらしい。
もっとも、王太子は口元に笑みを浮かべ、小姓を見た。
「なるほど、ジョンの鼻は見事だな。
奴は確かに、海の臭いのする男だったという訳だ」
「お恥ずかしいです」
二人で何か面白そうに微笑みあう様子に、チェレグド公爵は『こっちはちっとも面白くねぇよ』と舌打ちをした。




