092:目の上の瘤
王太子アルバートの美しい顔に、血が流れた。
「殿下!」
マリーナが駆け寄って、ハンカチで傷を抑える。
「なんてこと……!」
思わず王に抗議しそうになった彼女の腕を、アルバートが強く掴んだ。
代わりにストークナー公爵が「陛下、我が子に対してあまりに情けの無いことです」と訴えた。
それが王の怒りに、さらに火をつける。
「フランシス! お前はことあるごとに、子ども、子ども、と!
私に当てつけているのか!」
「いいえ、そうではありません。陛下」
「私は国王だぞ! ただ一人の王だ! 『王さまなんだから、なんでも思い通りに出来る』……そう言ったのは、お前ではないか!
そうだ、お前だ……お前は……誰だ?」
「――陛下?」
ストークナー公爵が王の視線を辿ると、そこには怒りに燃える若葉の瞳。エリザベス・イヴァンジェリンの血を受け継ぐ、マリーナの瞳があった。
『あ、やばい』とチェレグド公爵が舌打ちした瞬間、再び扉が開く。
「王妃さまの御成りです」
侍従の声にかぶさるように、王妃の上機嫌な声が響いた。
「陛下! ああ、陛下、お戻りになられましたのね!」
王に抱きつく王妃は、髪は乱れ、服もこれこそ寝間着かと思う様な有り様だった。
「ロザリンド!」
「嬉しゅうございますわ!
お腹は空いておられませんか? 何かお飲みになりますか?」
「……母上」
あまりに場違いな王妃の登場に、アルバートは久々に『母』と呼んで呻いた。自国だけならともかく、イルタリアとベルトカーンの大使が見ているのだ。
頭から血を流す息子を見て、王妃は驚いた。
「アルバート! 一体、どういう……」
「私がやったのだ。この者、私に対して不敬な真似をしたのだぞ!
お前の教育がなっておらんからだ」
王が吐き捨てるように言うと、王妃は真っ青になった。
「おお、陛下、お許しください。
アルバート、お前はなんて恥知らずな子なのだろう。陛下に刃向うなど」
少しでも傷がつけば、その是非を問わず苛烈な報復をする王妃が、たとえ国王のしたことととはいえ、アルバートに対し全く同情も心配もしなかった。
「ロザリンド、もう良い。
それよりも、何か飲ませてくれ。重大な事を決めた。すっかり疲れてしまったよ」
「まぁ、さすが陛下ですわ。ご立派なこと」
その重大な事がベルトカーン王国との同盟であり、ヴァイオレット妃を精力旺盛な壮年の男に嫁がせることなどとは、まだ分かっていない王妃は手放しで王を讃えた。
王はすっかり気をよくして、そのまま血を流す息子を一瞥することなく、王妃の手を取り、部屋を出て行った。
残されたブルクハルト大使は笑みを浮かべ「同盟についてのお話をしたいのですが、今日は止めておきましょう」と言った。
「”花麗国”平定に関しては、我が軍が一手に引き受けますので、そちらがすることは、海軍に我が軍への攻撃を止めさせることですよ。
では、お大事になさってください、王太子殿下」
冷たく言い放つと、ブルクハルト大使も出て行った。
続いてイルタリア大使も「このこと、本国に報告させて頂きます」と去っていく。
「殿下、大丈夫ですか?
ロバートさま、殿下をお運びします。手を貸して下さい! ……ロバートさま?」
ともかくアルバートの手当てをしないとと思ったマリーナがロバートに訴える。
いつもなら即座に動くはずのロバートが棒立ちになっていた。ようやく気が付いて、側によろうとしたのをアルバートが止めた。
「いや、いい。自分で歩ける。
そなたには、私の代わりに国王陛下お詫びに行って欲しい。
それから皆のもの、今回のこと、尋常ではないことだ。
対応策を練るので、後ほど、また集まって欲しい」
とは言っても、ベルトカーン王国との同盟を支持する層も多かった。ブルクハルトの工作もあるが、陸続きのイルタリアやサイマイルと違い、海を隔てたエンブレアではその驚異を問題視する意識が低かったこともある。イルタリアやサイマイルと手を組み、ベルトカーンと対立するのは、そこに”信義”があるからだ。
だが、ヴァイオレットがベルトカーン国王と婚姻すれば、名目は立つ。
大陸最強と言われるベルトカーン陸軍と、精強なるエンブレア海軍。この二つが共同で作戦を行えば、周辺国は戦わずに退く公算が高い。
そうして、エンブレアはベルトカーンに協力した礼として、以前に失ってしまい、長年、奪還を渇望している”花麗国”内に持っていたかつての領地を要求できる。
それを考えると、国内の意見を統一させるのは難しいことだろう。
ストークナー公爵がロバートに代わって、痛む頭を抱えたアルバートを支えた。傷は浅いようだが、額からの血の量が多い。
「医師を呼べ」
そう言うと、アルバートを自室に運んだ。
***
「殿下、お話があります!」
医師の手当てが済み、退室を見届けると、マリーナは言った。
アルバートの介添えを口実に部屋に入り込んだストークナー公爵も頷く。
それで、どうやらこれは”ジョン”がマリーナ・キールであることを打ち明けようとしている話とは別件である、ということが分かった。
「出来ればチェレグド公爵にもご同席を……」
「分かった」
チェレグド公爵は”ジョン”の部屋を経由して、こっそりとやって来た。驚くことにパーシーもいた。
「この者は……」
「パーシー・ブラッドと申すものです。
殿下のお側に近寄れる身分の者ではありませんが、今回のマダム・メイヤーの検挙に、大きな力となりました。
また、ブルクハルト大使に関して、情報を持っています」
アルバートはパーシーを受け入れただけでなく、「この場では忌憚のない意見を聞きたい。よって、身分の上下は気にせずに発言して欲しい」と”厳命”した。今一度、今度は詳しくミリアムの話を聞いた。
「見上げた女性だね。事が落ち着いたのならば、褒美を遣わしたい」
「ありがとうございます」
チェレグド公爵はその褒美が、出来るだけ早くなされることを望んだ。
マリーナは姉が危険な目に合ったと聞き、大層、驚き、心配した。
「ジョン、顔色が悪いよ。頭が痛くないかい? 私はさっきからずっと頭痛がしている。
いや、傷のせいではなく、『花宮』の雰囲気にあてられたようだから、ジョンもそうなのではないかと思ってね。
お茶にしようではないか。ちょうど私の祖母が作った菓子が届いている。この間、ニミル公爵夫人から頂いた、美味しいお茶もある」
舞踏会で約束した通り、アルバートのもう一人の祖母であるラブリー男爵夫人の菓子があった。寝ずに作って届けた菓子だ。
それは王太子が王妃の部屋から持って来て、ロバートに下げ渡した菓子と全く同じものだった。その時は、口もつけなかったというのに、今日のアルバートは美味しそうにそれを食べ、マリーナに勧めた。
パーシーが淹れてくれたお茶で乾いた口内を潤してから、菓子をもそもそと口に運ぶと、その素朴な味に、ほっとして、気を取り直した。
「あの……殿下……」
「そうだね、話があったんだね」
そこでマリーナはストークナー公爵の力を借りながらも、トーマスの生存とヴァイオレットの話をした。ストークナー公爵夫人の佯狂に関しては口を噤んだ。すべてマリーナとストークナー公爵が彼女の話から推測したことにしたのだ。
ストークナー公爵がその手紙と『航海年鑑』を渡す。チェレグド公爵とパーシーによって、素早く再計算が行われた。二人の答えは一致し、マリーナのそれとも合った。
「間違いありません。これは”花麗国”の王都を指しています」
パーシーはマリーナを感心した様子で見た。
さらにチェレグド公爵も言う。
「ジョンの推測通り、どうやらこれは我が愚息の便箋のようですね。
ちなみに、全く同じく上部が切り取られた便箋で、ウォーナー艦長より家族に手紙が来ています」
ようやくジョアンからも連絡が来たのだ。
マリーナは安堵した。
「嵐が過ぎた後に、男を二人、救助した、というのは公式の報告と同じものですが、彼が任務に関係する内容を、家族宛てに書くことは、これまでにはなかったことです。
また、コンラッドよりも珍しく手紙が来ましてね。水兵の”トム”が補給先の島で、珍しい花を摘んで来たそうで、王立植物園で見てもらいたいそうです。絵が描いてありました。”紫色”の花でしたよ」
”トム”は下町でのトーマスの呼び名だった。コンラッドも”トム”と呼んでいた。
ストークナー公爵は、息を呑んだ。夫人の話だけでなく、チェレグド公爵経由で、コンラッドからも確証を得た。トーマス生存の実感がわいてくる。しかし、無事に帰ってこれるかはまだ未知数だ。過度に期待しないように、必死で抑え込むあまり固まった。
それに対し、いつもは固まるアルバートが、冷静に衝撃の事実を受け入れていた。
「では、トーマスは生きていて、ヴァイオレット妃と共にウォーナー艦長の”ヴィヴィアン号”にいると?」
「はい、殿下」
『普段、固まる人間が固まらないのは、逆に怪しいんですけどね』
チェレグド公爵は、いつにない態度のアルバートを胡散臭く見た。




