090:大賢は愚かの如し
”花麗国”の集いは、マダム・メイヤーと呼ばれる夫人が借りている邸宅で行われていた。
そう、あのマダム・メイヤーである。
アランからその正体を聞かされたチェレグド公爵は、ミリアムの訪問を止めるかどうか悩んだ結果、ローズマリーを通じて、徐々に頻度を減らす方向にすることにした。
いきなり顔を出さなくなっては、こちらが何か気づいたことに感づかれていまう。
ミリアムの性格ならば怪しまれない公算が高いし、念の為、パーシーを付けるように申し渡した。
そんなマダム・メイヤーという人物が、一体、どういう人物なのか、詳しく知っている者は、実は多くなかった。
祖国では踊り子として舞台に立っていたとも、仕立屋として貴婦人のドレスを縫っていたとも、だれぞの愛人をしていたとも、または、その全てとも言われていた。
人脈は広く、様々な”花麗国”出身の人間が彼女の元に集まって来ていた。しかし、よくよくその構成員を見れば、いわゆる労働者階級と呼ばれる人間が多いことに気が付くであろう。”花麗国”の貴族たちの多くは、エンブレア王国の王太后のいる『花宮』を頼っているからである。
マダム・メイヤーに興味を持ってやって来るエンブレア王国の者たちも、それ故に、王妃派の顔がちらほらとあった。もともと、王妃派は高位貴族よりも新興貴族や商人たちが多いことも、その理由であった。
反王妃派の首魁と目されているチェレグド公爵の屋敷で世話になっているミリアムは、本来ならば、招かざる客かもしれなかったが、そんな彼女はマダム・メイヤーは歓迎した。「ここは身分や性別など関係の無い、自由と平等の集いですわ。誰であろうと、門戸は閉ざしません」
ミリアムが帰るまで、従者の部屋で待機を命じられるはずのパーシーも、広間に通された。
ミリアムは嬉しくなって、パーシーの側につきっきりで、菓子や茶を勧めた。
「このお茶、すごく美味しいのよ。花の香りがするの」
パーシーは華奢なティーカップに入れられた、薄い色の上品なお茶に戸惑いながら口を付けた。
彼自身としては上質なラム酒の方がよほど嬉しいのだが、ミリアムの親切を無碍にするほどのものではない。それに、ミリアムの楽しそうな顔を見ると、失望させたくないと思う気持ちが湧いてくる。
「美味しいですね」
「ね!」
花が咲いたようだ。
この甘い香りは、この薄い茶のものではない。側に座る若い娘から香ってくるものだ。
「あの……あちらの紳士が、ミリアムさまにご用がありそうですよ」
尻がむずむずしてきたので、パーシーはミリアムの興味を、見目の良い若い男に向けようとした。
「あの人、いつも私と話したがるの」
なまじ美人で注目されがちなミリアムは、だからこそ、若い男の熱い視線など、特に目新しいものではなくなっていた。
「何をしている人なのですか?」
「さぁ? 学者さん? だったかしら。
いつも難しいことを話すの。――苦手だわ。
私、服の話がしたいのに!」
だが、若い男はミリアムの方にやって来て、強引に話し始めた。隣に座る壮年の男が、彼女の従者だと知ると、感心して見せた。
「さすがミリアム嬢。このような使用人にも親切とは。
自由と平等とは、こういう心がけから生まれるのです」
ミリアムは男の言い草に、引っかかった。このような使用人? そう言っている時点で、パーシーを見下げている。
「ありがとうございます」
ミリアムはツンとして答えた。
「私もお茶が飲みたいです」
「ご自分でなさったらどうですか? 女だからって、お茶を淹れるのは当然だって考え、それこそ自由と平等とは違う気がします」
ミリアムがパーシーの為にお茶を淹れたのは、自分がそうしたいと思ったからだ。
「――そうですね」
やや鼻白んだ男は、自分でお茶を淹れ、美味しくなさそうにそれを飲んだ。
それから、集まって来た人間に対して、自由と平等について、一席ぶちはじめた。
ミリアムは欠伸をかみ殺すのが大変になって、席を外した。パーシーも連れて行きたがったが、彼はどうも、男の話に傾聴しているようで、それは出来なかった。
仕方が無く、一人で話の合いそうな若い女の子を探しに行くことにした。
すると、マダム・メイヤーが一人で歩いているのを見つける。彼女の洗練された服装と革新的な考え方は、ミリアムにとって憧れを凝縮した象徴だった。
ここに入り浸るようになったのも、彼女と親しく話をしたいという、ただそれだけの純粋な気持ちだった。
けれども、人気者のマダム・メイヤーの周りには常に人垣が出来、ミリアムのような何の芸も能も無い小娘の入り込む隙はないと、言わんばかり。
それが今、奇跡の様に人がいない。これは千載一遇の機会と思い、ミリアムは彼女の近くに行こうとした。
「あの……」
話しかけようとしたが、マダム・メイヤーは何かに気を取られているようにしながら、奥の方に行ってしまう。
折角、マダム・メイヤーの目に留まろうと、精一杯お洒落したのに。無視されているようで悔しかった。
ミリアムはなんとしてでもマダム・メイヤーと話そうと後を追いかけたが、見失ってしまった。中庭に出る。
「どこに行ったのかしら?」
キョロキョロと見回すと、回廊の向こうに、人影があった。すわ、マダム・メイヤーかと思ったら、この邸宅では初めて見る中年の男だった。男は”花麗国”風の瀟洒な身なりだったが、ミリアムの目には、不自然に見えた。
もうパーシーの所に戻ろうとした時、マダム・メイヤーがその男の近くにいたのに気が付く。マダム・メイヤーは男に抱きついている。
この邸宅の女主人の逢瀬の現場に出くわしてしまった。いますぐにもこことを離れないと。
中庭を囲む回廊は、こちらからも見えるし、あちらからも見える。
今にもマダム・メイヤーか男に自分の姿が見られると焦った彼女は、咄嗟に近くの部屋に滑り込んでしまった。そこは、マダム・メイヤーの部屋の一つのようで、大きな机があった。
「まぁ、素敵!」
そこにはマダム・メイヤーの手によると思われるドレスの素描があった。いけないと思いつつも、最新流行どころか、まだ公に出ていないものを見る誘惑に打ち勝てなかった。
「ちょっとだけ……ちょっとだけよ……」
そう言いつつ、何枚もめくっていく内に、それまでとは違う感じの紙が現れる。絵の類は一切、無く、細かい字ばかりのそれにミリアムは息を飲んだ。
「そこにいるのは誰!?」
「あ……」
マダム・メイヤーが入って来て、ミリアムは持っていた便箋を破いてしまい、慌てて、それを胸の谷間に突っ込んで隠した。それから、素描の方を床中にぶちまけた。
「あなた、何をしているの?」
「ごめんなさい!」
後ろから男もやってきた。
『この女は?』
男は流暢な”花麗国”語で話した。
『最近、やってきた子よ。あの男の親戚筋らしいわ』
『あの男……それは困ったことになったね』
ミリアムは慌てた。自分は大変なことを仕出かしたことを彼女は悟っていた。
このままでは殺されるかもしれない。男は人の命に対する尊敬の念など、これっぽちも持ち合わせていないような目をしていた。
彼女は茫然として彼らを見た。幸運にもそれはミリアムを救うことになる。
『そうでもないわ。この子、お頭が軽いのよ。何も気づいていないわ』
マダム・メイヤーはミリアムにニッコリと微笑みかけた。ミリアムもつられたように、ヘラヘラと笑った。
『今日はこの子、従者を連れて来たの。下手なことをして、大騒ぎをされたら一大事よ。
あの男に付け入る隙を与えてもいいっていうの?』
『それは――確かにそうだね……』
ミリアムはここぞとばかりに、愛想笑いをして『こんにちは。初めまして、ミリアム・”ウォーナー”と申します。私は十八歳です』と”花麗国”語で挨拶をした。
それは彼女が”花麗国”語を解せるという証ではなく、その逆として、受け取られた。
マダム・メイヤーが鼻で笑うのを必死で抑えた。男も、うっすらと口元をゆがませる。
「ミリアムさま! ミリアムさま!?」
「あ、パーシーだわ! パーシー! ここよ! 私はここ!」
助かった、とミリアムは思いつつも、出来るだけ、呑気そうに大きな声を出した。
「ミリアムさま! ……こちらの方は?」
「マダム・メイヤーよ! ほら! 私が尊敬して止まないと、いつも話している方!」
うっとりとミリアムはマダム・メイヤーを見た。この際、男は目に入らないことにした。パーシーも、その存在を感じながらも、敢えて軽く挨拶する程度に留めた。彼はその男にどこかで会ったような気がしたが、それは決して歓迎できる再会ではなさそうだ。相手に自分を思い出させるようなことは控えねばならない。
マダム・メイヤーに、さも申し訳なさそうな顔で謝る。
「お嬢さまが”また”何か失礼なことを?」
まるでいつもこんなことをしているような言い草だ。
「ええ、勝手に私の部屋に入ったの」
「だって! とっても素敵なドレスの素描があったんですもの」
ミリアムは身体を左右に揺らした。よく成長した胸は揺れたが、その仕草は子どもっぽい。謎の男の目が細められた。
「あの……いけないとは知っていましたの」
「本当よ。いくら自由と平等だって言ってもね。個々の権利は守らなければ……言っていること、分かる?」
ぽかーん、としたミリアムに、マダム・メイヤーは呆れたようだ。
「あ、はい……多分……いいえ! 分かりましたわ!」
絶対、分かってないわね、とマダム・メイヤーはミリアムを馬鹿にしつつも安堵した。ドアに鍵をかけておかなかったのはこちらの失策だ。それで、”彼”に嫌われたら大変なのだ。
「では、もう二度と、こんなこと、しちゃ駄目よ」
「はい!」
憧れのマダム・メイヤーの忠告に、元気よく、返事だけは良い、という典型のような口調でミリアムは答えた。
「行きましょう」
去り際、男が静かにミリアムに寄って来た。あまりに自然に側に寄られて、驚く間もなかった。そのまま自然と取られた手に、口づけされる。
「会ったばかりというのに、もうお別れとは残念です。次に会う時は、ゆっくりとお話させて下さい」
今度は流暢なエンブレア語だった。「魅力的な赤毛の”ウォーナー”嬢」
マダム・メイヤーは”恋人”の行動に鼻白み、ミリアムは乱暴にその手を振り払う。彼女のすることだ、当然、何かが壊れる。男の掌に、ミリアムの長い爪でひっかき傷がついていた。「これはいけない子猫ちゃんだ」と、男は不敵に笑い、傷口を唇に持っていった。”花麗国”風の優美な服装を身に纏いながらも、醸し出す雰囲気は野獣のようだ。
パーシーは急いでミリアムを男から引き離すと、彼女をマダム・メイヤーの邸宅から連れ出した。
馬車の中で、ミリアムは震えた。
「寒いのですか? こんな季節に、そんな薄っぺらい服を着ているからですよ」
急ぐあまり、外套を受け取ってくるのを忘れ、薄手の白い”花麗国”風のドレスのままだった。
「違うの……すごく怖かった」
「何か見たのですね。見てはいけないものを」
「ええ」
パーシーは、躊躇ったものの、自分の上着をミリアムに羽織らせた。
「こんなので申し訳ないですが」
「――いいえ、嬉しいわ。ありがとう」
「助けてくれて、私を探しに来てくれてありがとう」と、もう一度言うと、ミリアムはその上着で自分の身を包み込むようにした。頬にほんのりと赤みが戻る。
「チェレグド公爵にお会いしないといけないわ」
「はい。そのようですね。しかし、ミリアムさま」
「なぁに?」
「大変、見事なお振舞でした」
「……まぁ、ありがとう」
ミリアムは首まで真っ赤になった。




