009:早起きは三文の得
久々に浮かれ華やいだ『夕凪邸』は、往時を取り戻したように、夜遅くまで、その姿を闇の中に浮かび上がらせた。
マリーナが節約していたように、キール夫人と二人の姉も節約していた。女四人の生活に、見栄を張っても仕方が無い。お金はキール男爵家の将来、すなわちマリーナの結婚の時に使うべきだと考えていたのだ。それはすなわち、今だった。
その為にも体裁を整えるべく臨時で人を雇うことにしたが、アシフォード伯爵の”お城”の方に多くの人間が集まっていたので、それよりも給金の低い『夕凪邸』を希望する人間を探すのは難しそうだった。
なのでマリーナは次の日も、動きやすい恰好、つまりは男の姿で『夕凪邸』の下働きをしていた。
井戸の側で洗濯をしていると、馬の蹄と鳴き声が聞こえてきた。
淫魔だ! こんな早朝から淫魔がやって来た!
「やぁ、ジョン。おはよう」
今日の天気のような曇りのない笑みをたたえた偽アシフォード伯爵がそこにいた。
金髪も朝日を受けて爽やかな笑顔と一緒に、キラキラと輝いている。にもかかわらず、受ける印象が淫靡とはこれ如何に。
正直、もったいない。もしくは、本人自覚の上、どちらかに統一して欲しい。
「お……はようございます。あ、雪白も!」
マリーナの姿を認めて、雪白もまた、長い鼻を押し付けて挨拶してきた。葦毛の馬は、ご主人さまと違って安心出来る美しさだ。雪白との触れ合いに夢中になっているマリーナに、偽アシフォード伯爵は水桶を見せた。
「水を汲んで来たよ」
昨日、マリーナが置いてきた水桶にたっぷりと泉の霊水が入っていた。
「昨日、忘れていっただろう? 今朝、新しい水を汲みに行ってきた。
泉はもう濁りもない。
姉上の体調はいかがかな?」
「あ……大丈夫です。お気遣いありがとうございます。
でも、水はあるんです」
「井戸のだろう?」
「いえ……」
マイケル・コーナーは早速、昨日の昼と夕方、水を汲んできてくれた。
「どうやって?」と聞いたら、桶に棒をつけて、湧き出し口から汲んできたと説明された。今朝も、早々と森に行き、とっくにローズマリーの元に届けに来たのだ。泉の濁りが消えたのも、すでに知っている。
「そうか……」
そう話すと、男は明らかにガッカリした様子を見せた。
「遅すぎますよ。今、何時だと思っているんですか?」
マリーナはまだ暗い内から起きていた。
「すまない。そうか……皆、朝早くから働いているんだな」
「……そうですよ」
実は働いている姿を義兄やその部下のジョン・スミスに見られないように、いつもよりも早く動いていたことは言わなかった。
『夕凪邸』は昨夜、夜遅くまで、二人に話をせがみ、随分と長く起きていた。皆が起きだすのはもっと日が高くなってからだ。それまでに、朝の仕事を終わらせてしまいたい。
けれども、その願いも虚しく、明るい挨拶が響いた。
「おはよ……おお! 誰かと思えば、副長殿!
コンラッド副長ではないですか!」
ジョン・スミスが大袈裟に手を広げて歓迎した。
「――ジョン・スミスか」
「はい。ジョン・スミスですよ。おはようございます」
ジョン・スミスがマリーナの方にも挨拶をしようとしたので、彼女は青ざめた。偽アシフォード伯爵の前で、自分の本当の性別と名前を知られたくない。
そう思ってから、あれ? と思った。
ジョン・スミスは偽アシフォード伯爵を「コンラッド副長」と呼んだ。それでは彼は本物のアシフォード伯爵だということなのだろうか。
「ジョン。これが昨日私が言った『”君も”ジョンなのか』のジョンだよ」
マリーナが息を飲んだをの勘違いした偽アシフォード伯爵が、先んじてそう説明すると、今度はジョン・スミスが目を見開いた。
「へぇー、君もジョンなんだ」
「え……ええ」
すでに自己紹介が済んでいるにも関わらず、ジョン・スミスはまるで初めて会ったような振る舞いに変った。彼女の意図が伝わったとも言える。
そうとは知らない無邪気な偽アシフォード伯爵は、勝ち誇ったようにマリーナに胸を張った。
「ほうら、”明星号”の海尉も私のことをアシフォード伯爵と認めただろう?」
「そう……ですね」
「え? どういうこと?」
そこで男は、昨日、森の中で会った時に、「コンラッド・アーサー・ルラローザだと名乗ったのに、偽物呼ばわりされたんだ」とジョン・スミスに語った。
「それはそれは……」
「それはそれは」ともう一度言ったジョン・スミスは、後ろを向いて手を振った。そこにはジョアン・ウォーナーの姿があった。
「艦長! ウォーナー艦長! コンラッド副長がお出でですよ!」
ジョアンは三人に気づき、足早にやって来た。
ここでもマリーナはひやりとした。
「ウォーナー艦長、”おたくのジョンくん”が、この方をアシフォード伯爵ではないと言って憚らないのです。
どうか、”おたくのジョンくん”に彼が本物のコンラッド・アーサー・ルラローザであると証言して下さい。
艦長の言ならば、”おたくのジョンくん”も信じるしかないはず」
ジョン・スミスは三度も”おたくのジョンくん”と強調して、マリーナを指差した。
アシフォード伯爵を名乗る男は、それをジョン・スミスが自分と『夕凪邸』のジョンを混同しないようにしているだけだと受け取ったが、ジョアンは違った。
穏やかな顔つきは変わらなかったが、マリーナは義兄が複雑な心境にあることが分かった。けれども、ジョアンはマリーナの名誉を守ることを選んだ。
「ジョン。
この方は間違いなくアシフォード伯爵だ。私の部下で”明星号”の副長を務めている。ミスター・コンラッドだよ」
義兄がそう言うのならば、マリーナは否定出来なかった。それでも、義兄が自分に嘘を吐いているのは明らかだった。
しゅん、とするマリーナの姿に、三人の男はそれぞれの感想を抱いた。
偽アシフォード伯爵はマリーナの無礼を許した。
「申し訳ありませんが、まだこちらの準備が整っておりません。
私に用事があれば、城の方に伺いましょう」
それとなくマリーナの前に立ったジョアンが、自身の副長に言った。
「いいや、散歩の途中に寄っただけだ」
偽アシフォード伯爵はそう言うと、さりげなく『夕凪邸』の水桶を、井戸の周りの洗濯用の桶に混ぜて、去って行った。
その姿を見送った後、桶の一つに、ジョン・スミスがシャツを脱いで入れた。
『きゃあ!』とマリーナは心の中で悲鳴を上げた。父や義兄、パーシーと同じく海の男であるジョン・スミスの上半身は、よく引き締まった上に、海風と日射しに晒され、偽アシフォード伯爵の滑らかな肌とは対極にあった。
だが、そこにマリーナの胸はときめいた。
彼女の初恋は父であり、次の恋はパーシーで、そして、今はジョアンに憧れを抱いていた。マリーナ・キールには日に焼けて、海風に痛めつけられた肌と髪質にこそ、より色気を感じる性癖があったのだ。
「――ミスター・スミス? 何を?」
マリーナが頬を染めながら、桶の中でざぶざぶとシャツを洗い始めたジョン・スミスに尋ねる。
「何って洗濯ですよ。なぁ、ジョン?」
「は……はい。……って、それは私が!」
「いやいや、洗濯くらい海の男なら一人で出来ますよ。
ついでに身体も洗いたい。艦の上でも朝は海水を浴びるのが日課だったんです。
真水が使い放題とは、贅沢で楽しいものですね。
ウォーナー艦長の分も洗いましょう、出して下さい」
軽やかに釣瓶を操って、空の桶に水を注いだ。背中の筋肉が動くのがいい……と、マリーナが見惚れているとジョアンも桶を手にした。
「――私も自分の分は自分で洗おう」
「ジョアン兄さま!」
「マリーナさま、ミスター・スミスの言う通りです。
我々は自分のことは自分でするように身についているのです。
あなたはご自分のことをなさって下さい」
「でも」
休暇で帰ってきている義兄を働かせるような真似をしていいものか。
「男爵令嬢に洗ってもらうには憚りがあるものもありますからね」
「――!」
確かにマリーナの洗濯するものは、母と姉のものだった。パーシーも自分で洗う。
「マリーナさま……せめてもう一人、人を雇って下さい。
あなたがこのような真似をしているのをキール艦長もイヴァンジェリンさまも悲しむでしょう。そして、私も……。
ローズマリーやミリアムがまだ寝ているのに、あなたが働くなんて。
私がもっとお金を稼げばいいのですが……」
「いいえ! お金なんかよりもジョアン兄さまが無事に帰ってくる方が大事です!
海軍で金を稼ぐとなったら、戦闘行為が伴います。ジョアン兄さまをそんな危険な目にあわせてまで……辛い目に合わせて得たお金で贅沢をしたいとは思いません!
それにマリー姉さまは病弱だし、ミリー姉さまは……美人です。外で働かせて美貌がくすんだらどうするんですか!?
美人は財産なんですよ! ここには海風は吹きませんが、日射しはあるんです。
私が働きます!」
「マリーナ嬢はお優しい方ですね」
マリーナの熱弁を面白そうに聞いているジョン・スミスの左肩にも大きな傷があった。
「ですが、そろそろきな臭くなってきましたよ。
我々の稼ぎ時です」
「そんな……」
ジョン・スミスは見かけによらず戦闘的な性格のようだ。また義兄が戦闘に参加するかと思い、顔を曇らせるマリーナに対し、ニヤリと笑う。対して、ジョアンは戦いに際しては勇猛果敢だが、好戦的ではない。
「無益な戦いはしたくはありません」
その真面目な答えに、ジョン・スミスも同意する。
「まぁ、金があっても命がなくては楽しめませんからね」
「ジョアン兄さま……人を雇うこと、考えます」
「マリーナさま、どうかお願いします」
きっと『夕凪邸』も手放した方がいいと思っているのだろうな、とマリーナは推測した。しかし、キール艦長が命を賭して手に入れ、それを守るために命を捨てた『夕凪邸』を諦める決心がつかないのも事実だった。
「それはそうと、マリーナ嬢はミスター・コンラッドに会っていたんですね」
シャツを洗い終わったジョン・スミスは、濡れたそれで身体を拭こうとしていた。
「あの方、本当に……」
「本当にアシフォード伯爵だよ」
マリーナが疑問をすべて口にする前に、ジョアンによって遮られた。先ほどとは違い、断固とした口調で、マリーナではなく、出来の悪い水兵を叱りつけるような響きがあった。
思わず身がすくむ。
艦長の言うことは絶対。そういう威厳があった。
マリーナは偽アシフォード伯爵が汲んで来た水が、洗濯に費やされないように台所に運ぶことにした。
なんだかとても悔しい気持ちになったので、ジョン・スミスに向かって言った。
「そのお怪我……随分と重い刀傷を負ったのですね」
「え? ええ。昔の傷です」
「十年前の?」
「そうです」
「”オリオン号”が海賊に襲われた民間船を助けようとなさった時に?」
「そうです! よくご存知で……」
自身の軍功を讃えるような口調だったので、ジョン・スミスは嬉しそうに返答しかけた。――と。
「ミスター・ジョン・スミス!」
マリーナに対してよりも一層、強い口調でジョアンが止めた。
「あ……」
バツの悪そうな顔を見ればそれで十分だった。
マリーナは今度こそ、その場を辞した。