089:女心と秋の空
話は舞踏会の前日にさかのぼる。
チェレグド公爵邸では、ミリアムが鼻歌を歌いながらその日、着て行くドレスを選んでいた。
それを長椅子の上でローズマリーが見ていた。彼女の顔色は随分、良くなり、長く起きて居られるようになったが、妹を心配するあまり、今は青ざめている。
「ねぇ、もうあそこに行くのは止しなさいよ」
「なぜ? あそこは”花麗国”からやって来た一流の趣味人が集まった、流行の最先端な集まりなのよ。
折角、伝手が出来て、顔を出せるようになったのに、嫌だわ」
ミリアムの手には、ボタンが少なく、生地も薄いドレスがあった。王妃のそれよりも随分と飾りが少ない。
流行であればあるほど、簡素なのが通だからだ。
「あそこは危ないの」
ローズマリーは長椅子の脇にある小さな卓の上にある各種の新聞を見た。王都に来てから、彼女が手に入れられる新聞の種類は増え、今やエンブレア王国のみならず、”花麗国”とベルトカーン王国のものまであった。
さらに、チェレグド公爵からも注意を受けていた。
「せめてパーシーを連れて行って」
これまたチェレグド公爵の言いつけどおり、ローズマリーが言う。
姉の気持ちを汲んだのか、それとも違う理由からか、ミリアムはその提案を受け入れた。
「いいわよ! パーシーなら大歓迎!
――あ、だって、ちゃんとした家の娘なら、従者の一人は連れて行ってもおかしくはない、どころか、その方が断然、世間体が良いに決まっているわ。
そうでしょう?
呼んだら来てくれるのかしら……その……私の為に……」
俯いて、手をもじもじし始めた妹を見て、ローズマリーは苦笑した。
かくして、パーシーを連れたミリアムは、その”花麗国”の集に赴いた。
***
チェレグド公爵家に用意してもらった、地味な紋章無しの馬車にミリアムは乗っていた。乗り込む際に、踏み台を勢いよく踏み抜いてしまったが、そんなことはどうでも良い。
「きっと板が腐っていたのね」
「公爵家の馬車ですよ」
「でも、普段使いじゃないし。私、そんなに重く見える?」
ぷうっと、頬を膨らませると、一緒に、胸も大きく膨らんだ。
目のやり場に困ったパーシーは横目で流れる景色を追う。
「ちょっと! なんで目を逸らすのよ!
嘘、やだ……もしかして、太った!?
チェレグド公爵家のお料理が美味しくて、つい……つい、食べ過ぎてしまって……」
泣きそうになるミリアムに、パーシーは娘か妹を見るような気持になった。
「いいえ、ミリアムさま。
太ってはおりませんよ」
それどころか、大変、素晴らしい体型です。外套の上からでも、その見事な肢体が伺える。下ろした赤い髪の毛が誘うように、豊かな胸元を滑り落ちていった。
つい、男としての視線になってしまい、パーシーは頭を振った。相手はそれこそ、娘か年の離れた妹くらいの年頃の娘だし、なによりも、大事なイヴァンジェリンさまの大事なマリーナさまの、大事な姉上だ。
にしても、自分もまだまだ若いなぁと、年甲斐もなく、若い娘と狭い馬車の中にいることに、心が浮ついた自分を戒めた。
『夕凪邸』にいる頃には、こうして親しく馬車を共にするとは思っていなかったパーシーは、改めて冷静になり、ミリアムという娘を観察して、若くて美しいと確認した。それに活き活きとして可愛らしい。
チェレグド公爵の後押しがあれば、思ってもないほど、よい所に嫁げるだろう。
もっとも物を壊す癖と、少し……大分、軽薄な性格は直さないといけないが。
「そう? 良かったわ。今から行く所で出る”花麗国”のお菓子も美味しいの。
パーシーも食べられるわよ。
あそこはね、使用人も貴族も、みんな一緒に食卓を囲むのよ。
ええっと、なんだったかしら? ”自由”と”平等”なんですって」
「自由と平等?」
胡散臭そうに言うパーシーに、ミリアムはここぞとばかりに自慢し始めた。
「そうよ。
それが今、最高に新しい思想なの。
ああ、王都に来て良かった。こんな最新の流行の真ん中、いいえ、先頭の一員になれるなんて、マリーナには感謝しないと……っと、マリーナ元気かしらね?
王宮は窮屈そうよ。
あそここそ、自由と平等が必要ね」
「ミリアムさま……そのような話は、チェレグド公爵邸ではお控え下さい」
「なぁぜ?」
ローズマリーの知性を少し分けてあげたい。
「公爵はこの国で王家に次ぐ家柄お方ですよ」
自由と平等とは程遠い立場だ。
「パーシーは人に仕えるのに疑問はないの?」
小さい頃から、人にこき使われて生きてきた男に、その感覚はなかった。お貴族さまはお貴族さまだし、庶民は庶民だ。その境を犯そうなど、思ってもないことだった。
「そういうの、駄目よ。
自分で物事を考えるってことをしないと!」
ものすごい受け売りの、ものすごい上から目線の台詞にパーシーは笑い出しそうになった。
「なによ! パーシーったら!」
「いいえ、申し訳ありません。
そうですね、物を考えるのは大事ですよ。
私はそういうのが苦手なのです。難しいことは偉い人たちに任せていればいいのです」
「でも、その偉い人たちが能無しだったら、困るでしょう?」
「ええ……無能な艦長は、艦にとっては致命的です」
艦長は海上では王の代わりであった。それが無能だったり、徒に厳しかった場合、水兵たちは鬱憤を貯め、ついには叛乱を起こすことになる。
その場合、よほどの理由があり、それが証明されない以上、処罰されるのは叛乱を起こした水兵だ。それ故に、叛乱を起こした水兵は追っ手に怯え、自国には帰れなくなる。かと言って、無能な艦長に耐えても、その指揮ではいずれ、多くの者が命を落とすに決まっている。
無能な艦長は、水兵たちにとっては死神同然だ。
「ほら、だから――」
「しかし、ミリアムさま。
そのようなお考えに、一方的に傾倒するのは危険です。
まずはご自身が能を得なければ、一体、どうやって他の人間の能が無いことを批判出来るでしょうか」
叛乱を起こし、艦長を放逐した艦では、よほどしっかりした人間がその場をまとめなければ、結局は、もっと悪い事態に陥るのだ。
パーシーの真摯な訴えは、残念ながらミリアムはよく理解出来なかった。ただし、パーシーがあまり良い印象を受けていないのだけは分かった。
そしてミリアムにとっては、最新流行の思想なんかよりも、この一昔前の服を着た、考え方の古い、水兵上がりの男の考えを支持する方が、ずっと大事だった。
彼女は確かに軽かった。体重もだが、性格も。
だが、時に身軽なことは、役に立つこともある。ミリアムはひらり、と考えを翻す。
「そうね。本当のことを言うと、私もよく分からないの。
でも、みんないけないって言うから、そういうものかと。
ごめんなさい」
「いえ、そういうつもりでは」
あっさり非を認めたので、パーシーの方が焦った。
自分がミリアムの様な若くて美しい娘に説教するような立場でも、知性を持っている訳でも無いことを思い出す。
「ううん、パーシーの言う通りよ。
今日はもっとよく、お話を聞いて、考えてみようと思うの。
あ――、でも、いつもお菓子の美味しさと、ドレスの素敵さに見とれてしまって、実は、話は全然、頭に入ってこないのよねぇ」
しょんぼりと言うミリアムに、パーシーはついに笑い出した。
これはそれほど心配することはないかもしれない。
馬車はほどなくして、目的地に着いた。




