088:危急存亡の秋
さて、困ったと思った王太子の耳に、小姓が耳打ちをした。
「笑って下さい」
「何?」
「最高に爽やかな顔で笑って下さい」
そう言うマリーナの方が、爽やかな、と評するにはどこか悪戯っぽく、アルバートには愛らしく見える笑みを湛えていた。
別に害もないだろうと、その通りにすると、老女と美女は黙った。そのまま『申し訳ありません。公務の予定があることを忘れてたようです。そうでなかったら、いつまでもここにいたかったのですが……では失礼します』と言ってみると、二人の女性は操り人形のように頷いた。
王にも挨拶をすると、そのまま廊下に出ようとした。
一瞬、王がマリーナに目を留めそうになったので、身体で庇った。
マリーナは俯いていた。身分が低いものは高貴なものの顔を見るものではない。それは正しい姿勢でもあり、彼女自身にとってもストークナー公爵夫人の戒めを守るのに必要なことだった。王は彼女の母の元婚約者だ。受け継いだ”若葉の瞳”を極力、隠さないといけないだろう。
二人で馬車に乗ると、窓を全開にした。
『花宮』の甘美を通り越して腐敗したような臭いのせいで、頭が痛かった。その匂いを風で吹き飛ばし、新鮮な空気を吸う。
「ああ、生き返るな、ジョン!」
「はい、殿下!」
王家の馬車と雖も、規格外に大きいわけではない。二人で窓から顔を出すと、頬がくっつきそうになる。
マリーナが引こうとすると「遠慮するな」とアルバートが止めた。
「あんな場所に連れて行ったのは私だ。嫌なものを見せてしまったね……王が、まさかあそこまで見境がなくなっていたとは……」
アルバートの方が恥ずかしそうだ。
「ニミル公爵夫人のご苦労を察しました」
王を批判する訳にはいかないマリーナは、いつも『花宮』にご機嫌伺いに行っているニミル公爵夫人を労わった。
「誠にその通りだ。
しかし、オーガスタ伯母上には幽霊の噂よりも、『花宮』の風紀を正して欲しいと言うのは、頼りすぎだろか?」
「伯母上はよい方だが、大らかすぎる」と言ったアルバートに、マリーナは首を振った。控えめであるからこそ、皆に頼られる人なのだ。
「王姉殿下でいらっしゃいます。そのくらいの方が、良いのでしょう」
「確かに……伯母上も難しい立場には違いない。
私はどうしても、それを失念してしまうのだが……なぜだろう……」
「それはやはり……ニミル公爵夫人の人柄故でしょう」
そう言いつつも、マリーナにはどこか胸につかえるものがあった。ストークナー公爵夫人ほどでなくても、子どもを二人、人質に取られているようなニミル公爵夫人も、大らかに振舞わねば、耐えられないこともあるのかもしれない。
「それはそうと、なぜあんなことを?」
「あんなこと?」
ひとしきり、外の空気を吸った二人は馬車の中に引っ込んだ。
「『笑え』と」
「ああ……殿下は大変、魅力的な方です。
笑えば、大抵の女性は言いなりになると思っていたんです」
「はぁ?」
「――失礼を」
マリーナはあの笑顔が自分にだけ適用だとは思っていなかった。それで、あの二人を黙らせるには王太子の爽やかな、と思っているが、実は淫魔の微笑みを利用出来ると考えたのだ。
目論見通り、二人は魅了されたようだ。もっとも、国王の寵愛を受けているはずのサビーナは、それ以前にすっかり王太子にお熱のようにも見えた。
彼女は小さい頃からエンブレアの王太子の絵を見ては、恋焦がれていたらしい。肖像以上の美しさの本物のアルバートに、夢中になってもおかしくない。
アルバートは固まっていた。変なことを言ったので、不機嫌になったのだろうか。
「ジョン……」
「はい」
怒られるかと思ったら、微笑まれた。
王太子アルバート、渾身の爽やかな微笑みは、先程のよりも数倍の威力をもってマリーナの心の港に進軍してきた。港はすっかり空で、彼女の心を守る守護艦は一隻も停泊していない。
「――!」
「私の言いなりになってくれる?」
「い……いい……私は殿下の小姓ですので、そんな、もったいない笑顔を頂かなくても、ご命令通りに……」
「じゃあ、教えてくれるよね」
アルバートは揺れる馬車の中で、巧みにマリーナの隣の席に移動した。マリーナは反対側に移った。
「なぜ逃げる」
「逃げてはいません。ただ、殿下と同席するなど恐れ多いことですので」
「逃げる方が不敬だよ」
「また変な噂が……」
「変な噂……ね。別にいいんじゃないのかな?」
だって君は――そう王太子は言って立ち上がり、マリーナが動けないように、どん、と馬車の壁に手をついて拘束した。
そうだ私は――マリーナは先ほどの打ち明け話をする許しが出たのだと思った。
二人は見つめ合い、今にも触れ合いそうなほど近づいた唇を同じ形にして、その名を発音しようとした。
けれどもそれは出来なかった。
なぜならば、馬車が突如、停まったからだ。弾みで、うっかりアルバートの唇がマリーナのそれに触れた。
「――っ!」
マリーナはあまりのことに口を押さえ、動揺したが、アルバートにはそれが許されなかった。
「殿下! アルバート殿下!」
騎馬のロバートが下りるや、跪く。
「何事だ?」
どうやら緊急事態のようだ。固まる暇も、怒る余裕もなかった。
「”花麗国”の王都で暴徒が蜂起し、王太后とその愛人の伯爵を処刑した模様です。治安維持を口実に、ベルトカーンが国境を突破。革命軍を称する暴徒と戦闘状態に入りました。それに伴い、エンブレアの一部の海軍軍艦が命令を無視して、こちらからベルトカーンの軍艦に砲撃を仕掛けたとの情報も届いております。
また、昨夜、海軍大臣チェレグド公爵が、港に停泊していた神聖イルタリア帝国船籍の船を無許可で臨検し、船員を拘束したとのこと。イルタリア大使より抗議が来ています。それから――」
「まだあるのか!?」
一つだけでも大問題なのに、ロバートの口から次々と凶事が告げられる。
「はい。
王妃さまのご実家より、ジョンに菓子が届いております。
その王妃さまは、ご機嫌が大変、優れないようです。どうか、お見舞いに――」
アルバートはつい「はぁ?」と言う声が出かかったが、必死で喉の奥に押し込んだ。
王妃のことはさておき、とにかく、王宮へと急ぎ戻らなければならなかった。
またもた痛み始めた頭をアルバートは、かるく振って気合を入れ直した。




