087:使っている鍬は光る
馬車の中に足を踏み入れると、手を引っ張られた。
「……っ!」
王宮に来てから「きゃあ」という悲鳴は上げないように心がけていて、それを実践出来たことにマリーナは個人的に自慢に思った。
「殿下!」
「おはよう、ジョン」
アルバートは気だるげで疲れた様子だった。
「な……なぜこちらに?」
「君を迎えに来た」
馬車だけ遣わせば済むことなのに、王太子自ら小姓を迎えに来るなんて、どうかしている。昨晩、必死に回避した男色の噂なのに、台無しだ。
「私の為に、もったいないことです」
「君の為じゃない」
「あ……」
早とちりにマリーナの頬が赤らんだ。
それを横目で見たアルバートはちょっとだけ、マリーナに気付かれないように固まった後、何事もなかったように尋ねた。
「ストークナー公爵夫人のご様子は?」
「はい、本日は大変、調子が良いようです」
「そう? それは良かった……」
蹄の音が、車内に響いた。互いが探るような目つきになっている。
「疲れているかもしれないが、これから『花宮』に行く。付き合うように」
「『花宮』へ?」
王太后の離宮だ。
「ご機嫌伺いにいかないと」
「――はい」
なぜ、と聞きたいが、小姓程度では王太子に質問など出来ない。
「あ、そうそう、あそこは”花麗国”語しか通じないから――ジョン、どうした? そんな所に連れていかれるのは憂鬱か?」
「い、いえ!」
マリーナはストークナー公爵夫人の言ったことが胸につかえていた。
アルバートはもしかして自分のことを気づいていて、そうでないフリをしているかもしれない。それは自分のことを愛している……訳でないにしろ、よく見ていてくれたことには違いない。
または気が付いていないのかもしれない。
どちらにしても、マリーナはもう自分を偽るのは辞めたいと思った。
夢うつつで聞いた夫妻の話では、ストークナー公爵は夫人に信じてもらえなかったことについては、とても悲しみ、悔いていた。
自分がマリーナ・キールだと打ち明けても、きっとアルバートは許してくれるのではないか、そう、信じてみたくなったのだ。愛はなくても、信じあえる間柄になりたい。
「あの……殿下?」
「どうした?」
「お話が……あるのですが……」
俯き、それから上目がちで言い難そうに訴えるマリーナに、アルバートも挙動不審になった。
打ち明けてくれる気になったのは嬉しいが、ここでその話をされると、これからの予定に支障が起きる。しかし、出鼻を挫いたら、もう二度と、その気になってはくれないかもしれない。
馬車は揺れ、心は揺れる。
アルバートが完全に固まってしまったので、マリーナも話すことが出来ない。
結果、彼らは押し黙ったまま、『花宮』についてしまった。
***
アルバートがマリーナに教えたように、『花宮』はそこだけ”花麗国”がまるごと引っ越してきたような場所だった。
むしろ混乱する”花麗国”よりもずっと栄華を誇ったかつての”花麗国”を体現していた。
王太后は孫の訪れに上機嫌だった。
昨日の舞踏会の招待を年齢と体調を理由に断ったものの、実は行きたくてたまらなかったのだ。あの忌々しい王妃が欠席すれば、出席しても良かったのに。
しかし、こうして”花麗国”の作法を身に付けた、王妃の息子ということを除けば完璧な麗しい王太子である自分の孫が気にかけてくれるのは、大層、嬉しいことだ。
世間から引きこもっていると思われがちの王太后ではあったが、周りから持ちあげられるのは大好きな性格であった。
もっとも、それは”花麗国”の文化を身につけ、言葉を操れる高位貴族に限るのだが。
そんな王太后が最近、特に気に入っている娘がいた。
『花宮』に滞在させている彼女は毎朝、王太后に挨拶にやってきていた。昨夜は舞踏会で夜遅くまで起きていたというのに、アルバートと同じく、彼女が起きて身支度する頃合いを見計らって、早速、やって来た。
『王太子殿下がお出でならば、後ほどまたお伺いします』という娘を、敢えて呼んだ。
言っていることは相変わらずちんぷんかんぷんだったが、マリーナは呼びこまれた娘が、昨夜、舞踏会で会ったサビーナであることは分かった。
サビーナはアルバートを見るや、嬉しさを隠しきれない様子で、精一杯、気取った仕草さで膝を折ったが、足が震えてよろめきそうになった。それでも、同じように震える口元には笑みを作り、視線はアルバートから離さない。
『王太子殿下、昨夜はご挨拶も出来ず失礼いたしました』
サビーナは”花麗国”の伯爵令嬢かもしれないが、だからといって、エンブレアの王太子に挨拶しなかったことが、無礼な行為というかと言えば、そうではない。挨拶はあくまで、王太子側が与えるもので、サビーナが求めるものではない。アルバートに対面し、言葉を交わせたことに歓喜していることは伝わってきたが、傲慢さと思い上がりも透けて見えてしまう。
アルバートはそれでも女性に対する最低限の礼儀でもって、受け答えた。彼としては、まさかサビーナがこんなに早起きだとは想像していなかった。王太后に合わせる為にする、その努力だけは見上げたものだ。
『構いません。お気になさらずに』
『でも、ご一緒に踊れませんでして、残念でしたわ……とても』
どうかすると、アルバートがサビーナと踊りたいと熱望しているように聞こえる。
そうではないと言いたいところだが、ここでもアルバートは態度を崩さない。
『あなたは国王陛下とばかり踊っていましたからね。
皆、あなたのような美しい令嬢と踊りたいと望んでいましたので、次の機会があれば、是非、我々、臣下にもお情けを』
『そんな風に見えたとしたら、恥ずかしいですわ。
陛下はご親切にも、知り合いが少なくて、人見知りが激しい私を慮ってくださっただけですのよ』
アルバートの型にはまった対応にもかかわらず、サビーナはまるで王太子が自分に夢中になっているのだと大いに期待に胸を膨らませた。王太后がいなければ、もっとはっきりと、自分の好意をアルバートに明かしそうだ。
王太后は自分が気に入っている娘に対し、孫が丁寧に接しているのを、自分への敬意だと受け取る。こちらもご機嫌だ。
『アルバート、今度、『花宮』でも舞踏会を開こうと思う。その時は、このサビーナと踊ってやっておくれ』
『……畏まりました』
『まぁ、嬉しい!』
サビーナは胸の前で手を合わせて夢見心地の表情だ。
あくまで社交辞令にすぎない会話だったが、アルバートはマリーナがどんな風に思っているか気になった。
が、マリーナは”花麗国”語を解さないので、心配したほど不愉快な気持ちにはなってはいなかった。
ただ、言葉が分からない代わりに、ストークナー公爵夫人を見習って、サビーナという少女を、朝の光の下でよく観察してみることにした。
まず、第一印象は、容貌や雰囲気が王妃に似ている。王の好みなのだろう。トイ商会のアンジェリカも暗い瞳と髪色で、どこかしらあどけなさを感じる容姿だった。
舞踏会では味方に囲まれた時の王妃のように自信満々で、何か企んでいる感じがしたが、王太子の前ではそうではない。アルバートの前では、それこそ、地が出ている。
――そう、ただの女の子だ。
チェレグド公爵ならばそこに”愚かな”とか、”浅はかな”といった形容詞をつけそうだが、年相応の、普通の女の子だ。
王を手玉に取るには、美しさだけでなく、誰かの指南が必要そうである。
『良かったこと。
猫が死んで、しばらく落ち込んでいたので、心配していたのだ。
王宮の舞踏会に行くことを勧めて良かったよ』
『お心遣い、感謝します』
『猫?』
アルバートが怪訝そうに発したその単語は、マリーナの拙い知識でも聞き取ることが出来た。猫だ。あの、死んでしまったという猫のことだろうか。
『そうなのだアルバート。
この者が大事にしていた猫が、この間、泡を吹いて死んでしまったのだ』
『”花麗国”から連れてきた”珍しい”猫ちゃんでしたのよ。それなのに――』
サビーナは目に涙が滲む。
『オーガスタが悪い病の前兆ではいけないと、即刻、焼却処分するように命じてくれた。
あの娘は、いつも私の身を案じてくれる。
おかげで私はいつも元気だ』
王太后の意見に、サビーナは同意するしかなかったが、死んだとは言え、自分の猫を粗末に扱われたことに、憤っていた。誰かの過失かもしれないので、調べて欲しいという願いも却下された。
『それは可哀想なことになりましたね』
『ええ……ええ、そうなんです!』
優しいアルバートの声に、サビーナは猫のことなど、瞬時に消し去ったように喜色満面になった。『お優しい言葉、嬉しいですわ!』
そこでようやくマリーナは不愉快になった。まるで猫の死が、アルバートの気を惹く材料になって喜んでいるように見えたからだ。
サビーナの”花麗国”語が、どこかねっとりして聞こえてきたマリーナの耳に、新鮮なエンブレア語の風が吹く。
「サビーナ! そこにいたのか!
おお、アルバートではないか!」
ただし、どうやら国王陛下の登場のようだ。緊張する。
視線を巧みに動かし、無礼にならない程度に王を見る。舞踏会では遠くに見るだけの姿を、間近で見た。かつての母の婚約者だ。
『おお嫌だ。下品な言葉を話さないでおくれ』
王太后はあからさまに嫌悪の表情を浮かべる。
『国王陛下、おはようございます』
息子の慇懃な挨拶に、父親は手を上げて答えただけで、すぐに若い娘に擦り寄っていった。
『サビーナ、朝、起きたら、隣からいなくなっていて心配したぞ』
『まぁ、殿下の前でそんなお話、困りますわ、陛下……』
サビーナはアルバートの前で、王に密着されたことに嫌悪感を露わにした。
家宝の紫水晶の首飾りをはじめとした、自分の権利を取り返す為とはいえ、サビーナが王を好いてはいないことが明白になった。
マリーナは、王妃との結婚生活が破たんした王が、母親の元に身を寄せた亡命貴族の令嬢と出会い、純粋愛し合うに至る可能性を、自分は僅かでも望んでいたのだと、その様子を見て、心を痛めた。
アランが何と言おうとも、サビーナは自分と同年代の同性なのだ。
王はアルバートの父親だけあって、若い頃は”美男王”として有名だったが、今は不摂生も重なり、肉体はたるみ、精神も堕落していた。ただ、若い娘を求める欲求だけは、なおも旺盛のようで、朝だというのに、母親や息子の前で、娘のような少女の腰に手を回し、首筋に顔を埋めている。
『陛下……お止め下さい……アルバート殿下が見ておりますのに……』
もう片方の手が伸びて、身体をまさぐりはじめたのを、サビーナは必死で阻止した。
本気で嫌がっているようにしか見えない。
王も最初こそ、『恥ずかしいのか? お前はいつも初々しいな』とご満悦だったのが、段々と機嫌を取るのが面倒になってきたのか、乱暴な扱いになっていく。
『どうしたんだ、いつものお前らしくない。
私の言うことが聞けないのか!』
『お願いでございます……今は……せめてこの場だけはお許しを! ……王太后陛下!』
『あらあら、仲が良いこと』
頼みの王太后も王の狼藉を許容したことで、サビーナは絶望で真っ青になった。
さすがにアルバートが咳払いをする。会話は理解出来なくても、こうもあからさまにマリーナの前で痴態を演じられたら堪らない。
マリーナはもう見ることも出来ずに、俯いていた。耳が真っ赤だ。恥ずかしさだけでなく、怒りがそうさせた。
王太后も孫の咎めるような視線に、きまりが悪そうだ。王太后がサビーナを贔屓しているのは、自身を一心に慕ってくるからだけではない。王と寝台を共にし、子ども産む可能性があるからだ。エンブレア王国の子爵家だか男爵家だか知らないが、下級貴族の娘の産んだ王子よりも、自分と同じく”花麗国”の王族の血を引く伯爵家の令嬢が生んだ王子の方が可愛いに決まっている。どうせなら、王位もあげたいくらいだと言うのが、本心だからだ。
もっとも、そう決断するには、アルバートは可愛すぎる孫だった。
舞踏会を欠席した自分の為に、王妃への挨拶よりも先に、自分の元に来てくれた。それに若くて健康なはずのサビーナからは、一向に懐妊の話が聞こえてこない。まだ産まれてこない孫よりも、実際に存在して、自分を大事にしてくれる見目麗しい孫を邪険には出来ない。
アルバートは勿論、そうと知っていて、王太后を優先させた。それには、マリーナを迎えに行かなければならないという事情もあった。彼はマリーナがストークナー公爵家でどのような扱いを受けるのか、あの秘密がばれてしまうのではないかと気が気ではなかったのだ。
どうやらマリーナは無事だったようだが、こんな場所に連れて来てしまったことを後悔した。
おまけに、どうせ起きるのは昼前になるくせに、王太后の次にされた王妃はさぞ、機嫌が悪くなるだろう。
『花宮』を辞した後は、すぐに王妃のご機嫌伺いに行かねばならない。アルバートは自身も睡眠が浅かったせいで、頭痛がしてきた。
この『花宮』を包む、甘美を通り越した、言い知れぬ不快な臭いも気に障る。
もう一刻もここにいたくない。
自分の安眠を防いだ大きな要因であるマリーナに目配せすると、王宮に帰ることにした。
アルバートのおかげで王から身を守ったサビーナは、また寝室に連れ込まれることが嫌なのか、アルバートを引き留めたい風だった。王太后も、アルバートが王妃の元に行くのを邪魔したい為に、「今日はここでゆっくりしていくとよい」と、加勢してくる。
王は自分よりも人気がある王太子に不機嫌になる。なによりも、この品行方正な息子がいると、いつもは従順なサビーナが逆らう素振りを見せるのが気にらない。濁った目で、アルバートを睨んだ。




