086:岡目八目
「海軍の艦長の仕事は、字を書くことだ」とジョアン・ウォーナーは言う。
毎日の航海日誌に、海軍省への報告、とにかく艦長は文章を書く機会が多い。その合間を縫って、ジョアンは家族に手紙を書いていた。また、キール艦長に倣い、小さな内から艦に乗り込んでいる子どもたちや望む水兵たちに文字を教え、家族に手紙を書くことを推奨した。その分の紙は、彼が自前の物を与えた。
そんなこんなで、予めたっぷり持って行った紙は、みるみる間に無くなっていく。
そこで、ジョアンは恥ずかしながら部下に紙を融通してもらうことになった。
今、彼の部下、副長はアシフォード伯爵コンラッド・アーサー・ルラローザだった。彼が艦に持ち込んだ紙は、実家のチェレグド公爵家の特注品である。上部には彼の為にアシフォード伯爵の紋章が燦然と輝いていた。
いくら艦長と雖も、それをそのまま使う訳にはいかないジョアンは、その紋章部分の紙を小刀で綺麗に切り除いて、自分用の便箋として使うことにしていた。紋章は捨てるわけにはいかないので、コンラッドに戻した。戻された方も困るのだが、彼は自身の責任でもって、処理した。
紋章部分が取り除かれているので、便箋は通常のものよりも縦が短くなる。
「つまりトーマスはコンラッドの便箋を使っていると?」
「そう考えます。
ウォーナー艦長はヴァイオレット妃救出の任を負っています。”花麗国”の周辺海域にいるはずです」
三人は地図を覗き込む。
問題はトーマスだ。彼はこれまで、遥か南の方にいたはずなのだ。
「だが、絶対ではない。
トーマスが自分の意志で南方に留まっていたのならば、同じく、自分の意志で北上も出来る。
腕の良い船乗りは引く手あまただ。北に向かう船に乗り換えることが出来れば”花麗国”にもエンブレア王国にも近づける。
そこで、トーマスはヴァイオレット妃に出会い、また、コンラッドとも合流したのではないか?」
「トーマスは帰ってこようとしたのね!」
ストークナー公爵夫人は歓喜の声を上げた。「それかヴァイオレット妃を助けようとしたのかも。そして、成功したんだわ!」
「ですが、そうなれば、ヴァイオレット妃救出の話が聞こえてくるはずです。
この手紙が届けられたというのならば、兄からの連絡も届いていなければおかしいです。
この手紙の紙を持っているアシフォード伯爵は、ウォーナー艦長の艦に乗っているのですから」
夫人を失望させることはしたくなかったが、マリーナは指摘した。チェレグド公爵の話では、ジョアンからの報告は途切れている。
ストークナー公爵も彼女の方に同意した。
「その通りだ。明日の朝、チェレグド公爵邸を訪ねよう。
何か分かるかもしれない」
「そうね……トーマスはコンラッドの紙を使った。と言うことは、コンラッドの方も、何か伝えてきているかもしれないものね。
フランシス……お願いできる?」
「ああ、勿論だよ」
十年もの間、互いを想いつつもすれ違っていた夫婦は、ことあるごとにいちゃつきたいらしい。
話も大体、終わったことだし、席をはずそうかと思ったマリーナだったが、どこに行けば良いのか、やはり分からない。案内する人間もいない。
夫妻は使用人が側にいる生活に慣れ過ぎているのか、彼女の存在を気に掛けることなく、それから十年に渡る互いの気持ちを吐露し始めた。
マリーナは椅子に座ったまま、その話を聞いていたが、その内、瞼が重くなってきて、そのまま寝息を立てて眠ってしまった。
***
翌朝、マリーナは迎えに来た王太子の馬車で王宮に戻ることになった。
「あらまぁ、随分とお早いお迎えね。
殿下は相当、あなたをお気に入りなのね」
それがマリーナの方なのか、”ジョン”の方なのか、ストークナー公爵夫人は読み取ろうとした。
もしも”ジョン”の方ならば良い。そうしたら、マリーナの方は”うちのトーマス”にもらおう。
だが、夫人のその腹積もりは、王太子の反応よりも先に、マリーナの顔つきをから、断念するしかないことが、すぐさま分かってしまった。
「そ、そんな風におっしゃらないで下さい。
殿下は私のことを”ジョン”という男の子だと思っているのです。
変な噂は殿下のお為になりません」
「そうかしら?」
「どういう意味でしょうか?」
入り口には王宮からの馬車が待っている。マリーナはやや焦っていたが、夫人の意味深な物言いが気になって動けない。
「私もフランシスに自分の演技が見抜かれているとは想像もしていなかったわ。
でも、実際はどう?
欺いているとばかり思っていたら、その逆だった……」
愛する夫の前で、狂言を演じ続けてしまった羞恥に夫人は気恥ずかしげだ。しかも、トーマスが帰ってくるまではそれを続けなければならない。
彼女はそれを、自分が周囲の人間たちを騙し、心配させた『罪』への罰だと考えた。償う為にも、最後までやりきる覚悟だ。それはトーマスを無事にこの手に取り戻すための戦いでもあり、勝利の暁には、彼女が演技をする必要はなくなる。
ストークナー公爵夫妻は愛情を確かめ合った。もはや怖いものはない。
今も、二人は寄り添い合っていた。
「ストークナー公爵は奥さまをずっと愛しておられ、よく見ていらしたから、お分かりになったのです。
そして、それと同じ理由で、気づいていることを隠し通されました。
けれども、私は……私と殿下はそういう関係ではないのです」
アルバートはマリーナ・キールと結婚しようとしたが、それは王妃派と反王妃派の融合の為の行動だった。決して、真の愛情からきた縁談ではない。
それでも側にいられるのは嬉しい。王太子は少し困る所もあるが、マリーナにとって、尊敬できる人間だった。だが、王太子にとって、マリーナ個人に価値があるのか不安になってくる。
「あらやだ、そんな泣くほどアルバート殿下がお嫌い?」
マリーナのの瞳が潤んだらしい。夫人が励ますように彼女の手を握る。
「あの子はいい子よ。王妃さまの息子じゃなかったら完璧!
私もねぇ、ストークナー公爵と結婚しろと言われた時は、気が進まなかったけど、添ってみれば、とてもいい人だったわ。
ちょっといい人すぎるのが難だけど」
「もっと悪い人なら、こんなに好きにならずに済んだのに」と惚気けた後、真剣な顔つきになる。
「さぁ、行って。
でも気を付けてね。あなたの若葉の瞳は懐かしい人を思い出させるわ。
それは私だけではないでしょう。”彼女”はとても印象的な人だった。覚えている人は多いわ。
特にベルトカーンの大使には油断してはいけなくてよ。今は詳しく話している暇はないけど、あの男は、もともと、そういう人間だけど、昨晩、あなたを見る目は何か含むものがあったわ」
よく人を見るストークナー公爵夫人にそう言われたら、マリーナは気を引き締めるしかない。




