085:昔取った杵柄
ストークナー公爵が持って来た地図は、エンブレア王国の海軍が各軍艦に配備しているのと同じ物だった。
なぜか、ずっと南の方の海域の印字がこすれ、文字が消えかかっている。
「セシリアの話を聞いてね。トーマスはこの辺にいるのだろうと思って……」
息子がいるであろう場所を、父親は何度も何度も、指で触って想いを馳せていたのだ。
「あなた……」
再び盛り上がる夫妻はともかく、マリーナはその地図と、星の位置が書かれている『航海年鑑』、その他諸々を前に、うんうんと唸りながら、トーマスが教えようとしている地点を計算した。
思いつきは間違ってはいないと思うが、父親が亡くなって以来、ご無沙汰だった為、出した結果に自信がない。
案の定、彼女が割り出した経度と緯度は、まったく思っていない場所だった。
どうしよう……。
公爵にしっかりと手を握られた夫人は期待に目を輝かせている。
やっぱり勘違いでしたとは、とても言えない。
「どうしたのだ?」
マリーナの様子に、公爵が尋ねた。
「計算が上手くいかなかったようです。
あの……チェレグド公爵邸にパーシー・ブラッドという者がいるのですが、彼をお呼び出し下さいませんか?
我が父より、航海術を学んでおります。きっと、正しい答えを導き出すでしょう」
「ならば、エリックを呼ぶよ。彼も天測航法を習得しているだろう?」
チェレグド公爵エリック・グレン・ルラローザは艦長経験者である。当然、天測航法を習得している。
「と、その前に、君の答えを教えてくれないか?」
「ここです」
マリーナはエンブレア王国にほど近い、大陸のある地点を指し示した。
それを見て、公爵は「でかした」と彼女を褒めた。
「どういうことですか?」
トーマスが自分の居場所を教えようとするならば、それは海の上ではないか。少なくとも港だ。こんなにも内陸ではない。
しかし、そう訝しむマリーナに、ストークナー公爵夫妻は息子の真意を伝えた。
「トーマスは自分の居場所を教えようとした訳ではないからよ」
「ここをご覧」と、公爵がマリーナの示した場所の上を、同じく指で、とんとんと叩いた。
「ここは”花麗国”の王都がある場所だよ。
……セシリアはトーマスの手紙に今までにないものを感じ取った。そうだね?」
夫人は「そうよ」と頷いた。
「この前の手紙からも妙だった。珍しい薔薇を手に入れたなんて……そして、今度はお姫さま!
今までとは何かが違うの。トーマスは手紙が第三者に渡るのを恐れて、曖昧な書き方はしているけど、嘘や作り話は書かない」
「巨大なイカも人を喰う貝も、生ける女神も……空想のような話だが、船乗りにはよく知られた”事実”だ」
すっかり文字が見辛くなった地図上の南方海域を大きく丸で囲うように、公爵の指は動いた。
「これまでエリックをはじめ、海軍や商船経験者にそれとなく話を聞いていたからね。
実際、目にしていないと、話されても俄かには信じられないものばかりだったが、世界は広く、海はそれらに通じている」
地図も『航海年鑑』も、六分儀も羅針盤もコンパスも……少しでも息子を身近に感じようと、公爵が集めた品だった。
「世の中に、イカも貝もたくさんいるようだ。多くの船乗りが見ている。
だが、”海賊に攫われたお姫さま”とはどうだろうか?」
「けれども、トーマスは嘘を吐かないの」
公爵夫人がうっとりと言った。
「つまり……トーマスさまは本当に”お姫さま”を助けたと……それが――」
マリーナはそう言えば、北極星を表す染みの所に、まさに”お姫さま”という単語があったな、と手に持った手紙を確認した。
船乗りを導く不動の星。それが指し示す”お姫さま”。その”お姫さま”が導くのは、”花麗国”の王都。
「そう……ヴァイオレット妃よ。あの方に違いないわ。
この広い世界で、今まさに、国を逃れ、少ない護衛で大海原に打って出なけれなならない身の上の”お姫さま”」
「トーマスはヴァイオレット妃のことを見知っている。
バイオレット妃は小さい頃、トーマスとは仲が良かったからね」
公爵の指は再び、”花麗国”の王都を指す。
「トーマスはヴァイオレット妃を保護したことを伝えようとしているのだ」
だがトーマスは暗号という形でそれをした。
義兄のウォーナー艦長が救出作戦を担っているのを思い出したマリーナは、すぐさまこの事実をチェレグド公爵に知らせないといけないと思った。ヴァイオレット妃が無事ならば、義兄が危険を押して、”花麗国”の王都に潜入しなくても済む。それどころか、王城に辿りついてみたら、すでに逃げ出した後では、骨折り損のくたびれもうけではないか。
が――。
「あれ?」
彼女はまたしても気が付いてしまった。
「どうした?」
「この紙なんですが……」
トーマスからの手紙に使われている紙は、かなり上質の物だった。
「申し訳ありませんが、ここに、ストークナー公爵家の便箋がありますでしょうか?」
聞くと、ストークナー公爵夫人がすぐに、自身の文箱を持って来た。
そこにはしっかりと封蝋が押された夥しい数の手紙が入っていた。
「トーマスへのお返事なの」
送り先の分からない手紙だが、母親は書かずにはいられなかった。
「いつか帰って来た時に、全部、読ませるわ」
そう微笑みながら、マリーナにまだ使っていない便箋を渡す。上部に箔押しと極彩色に彩られた豪奢な紋章が付いた、非常に立派なものである。
それだけではない、紙の厚さや、素材の配合、梳き方などを、好みの書き心地のものにすべく、特注されている贅沢なものだ。
よって、大袈裟に言えば、紋章がついてなくても、手触りだけで、その便箋がどこの家のものか分かる場合があった。ただし、大きさは国内で使われている、ごく一般的なものに準じていた。エンブレアの王太后が、手紙の大きさがまちまちなことに苛立って、統一させたからだ。
マリーナはその便箋に、トーマスの手紙を重ねる。すると、トーマスの便箋の方が縦の長さが短いのが一目瞭然となった。ちょうど紋章のある部分を切り取ったような感じであり、実際、そうなのであろう。
「でも、これは我が家の便箋じゃないわ。手触りが違うし、少し黄色っぽい。
この紙は……」
「「チェレグド公爵家」」
マリーナと公爵夫人は二人で声を合わせた。
「どういうことだい?」
お見舞いに、季節の挨拶に、等々、よくチェレグド公爵夫人から手紙を貰っていたストークナー公爵夫人にはすぐに分かった。一方、チェレグド公爵より、公的な書類はもらうものの、私的な手紙はあまりもらわないストークナー公爵は、その紙質に縁がなかったようだ。
もっとも、ストークナー公爵夫人も、なぜトーマスの手紙がチェレグド公爵家の便箋に書かれているのかまでは分からない。トーマスはその時その場で手に入れた紙に手紙を書いているようで、その紙質も大きさも一様ではない。粗末な紙もあれば、稀に上等な紙の時もあった。だが、今回の紙はそれらともまた違った。よく知る手触りなのに、決してそれを使う場所にいるはずのない人間から出された手紙。公爵夫人は内容だけでなく、無意識のまま、その違和感も察していたようだ。
そして、その理由を知っているのは、この場では、筆まめな父と義兄のいるマリーナだけだった。




