084:落下流水の情
海の英雄・キール艦長の娘、マリーナ・キールは父親から天文学と数学を習っていた。それは天測航法に必要な知識でもあった。
目印もなにもない海に浮かぶ船の上では、太陽や月、星などから、自らの位置を割り出すのだ。
トーマスの手紙の染みが、マリーナには小さい頃、父親に出された宿題に見えた。
一枚目の真ん中に落とされた大きな染みは北極星だ。その下方にある小さ目の二点は、船と水平方向を知らせるものと思われる。これで緯度は容易に計算出来る。
二枚目にも同じように大きな染みと小さな染みが二つ。おそらく、月の動きと太陽の位置。
他に必要な情報は、手紙のなかにそれとなく隠されていた。
しかし、まだ足りないものがあった。
「こちらの屋敷に、地図と『航海年鑑』がありますでしょうか?」
「それがないと困るの?」
ストークナー公爵夫人が首を傾げる。
と、どこからか声がした。
「それならば、私が持っている」
マリーナとストークナー公爵夫人は、物陰から出てきた人影に驚いた。
「フランシス……いつから!?」
「いつから? そうだね、七年前くらいからかな」
割れ物を扱うような慎重さで、ストークナー公爵が歩み出る。
下町での様子から、公爵もまた、トーマスの生存を知っているのではないかと思っていたマリーナだったが、その事実を夫婦で共有していた訳ではなさそうだった。
「そんな……なぜ?」
ストークナー公爵夫人は今現在の話をしていたのだが、公爵は彼女が佯狂となった時のことを話し始めた。
つまりは、彼は自分の妻が実は演技をしていることを、もう随分と前から知っていたということなのだ。これは、ストークナー公爵夫人は予期していないことであり、望んだことでもなかった。もっと言えば、一番、知られたくなかった人間だった。
なぜならば――。
「――それはね、セシリア、私が君を愛しているからだよ」
「あ……」
ストークナー公爵は、今にも狂気の世界に逃げ込もうとする妻の手を取って、それを防いだ。
「私はいつか君が本当のことを打ち明けてくれると思っていた。
だが、君は私を信じてはくれなかった」
「それは……そんなつもりじゃ。
知らせたら、あなたが辛い思いをするだけだと……だから……」
「いいのだ。
私は君に信用されなくて当然なのだから。
大事な息子を害されたというのに、父親として何も出来なかった。
夫としても、君の話をすぐに信じようとしなかった。そのせいで、君は一人で苦しむことになり、私は、それを支えることも出来なくなった。
全て私の責任なのだ」
「いいえ、違うの……だって……そんな……」
マリーナはストークナー公爵夫人が今度こそ、本当に気が触れてしまうのではないかと恐れた。それほど、彼女の顔は青ざめ、手はわななき、尋常ではない様子だったからだ。
公爵も同じ思いだった。
「私たちの息子、トーマスは生きているのだね? そして、今、困った状況に置かれているんだね?」
「――!」
愛する息子の名に、夫人は一気に覚醒した。
そうだ、今まで狂人を演じて来たのはトーマスの為だ。そのトーマスが何かを知らせようとしているというのに、狂っている暇など、演技であろうとも、本気だろうとも、無いのである。
「そうなの、フランシス!
あの子の手紙――」
ストークナー公爵夫人がマリーナから手紙をひったくる。
「いつもと違う感じがしたの。それで不安で。でも、私には理解出来なかった。
そうしたら、この子が……!」
「……ジョン・ブラウン? いいや、ガーデナー?」
「グリーンです。……殿下がつけてくれた名は。
でも、本当の名前は、マリーナ・キールです。
父はキール男爵です」
「そうだったね」
公爵は安堵したように微笑んだ。
「女の子で良かったよ。
実はセシリアが少年にすぎないと雖も、人目を憚らず”男”を寵愛して、あまつさえ寝室に連れ込んだので、とても不安で不快に思っていたんだ。
おまけに、アルバートも妙に執心の様子を見せるし。まさか我が甥にして、王太子が男色では困るし、その男の子を巡って、妻とつばぜり合いを始めたら、どうしようかと心配で心配で……」
「まぁ、フランシスったら!」
こんな時にもかかわらず、少年相手に嫉妬心を露わにする夫に、妻は堪らず窘めた。
その表情を見てストークナー公爵は感動に打ち震えた。
「――! 笑ってくれたね、セシリア。十年ぶりに、君のその笑顔を見たよ」
「……ごめんなさい」
「いいや、いいんだ」
夫人の手を、より一層、強く握った公爵は、涙を流さんばかりだ。
「いいえ、謝らせて下さい。
私は母親としての愛情は人に恥じるものではありません。ですが、妻としてのそれは、なんて至らなかったのでしょうか!
それなのに……まだ私を愛していると言ってくれるのですか?」
「勿論だよ。
たとえ、君が私を軟弱者と謗ろうとも、父親失格と失望しようとも、ただ、君への愛を疑って欲しくはない。
それだけは、それだけは、私は自信を持って言えよう。何度でもね」
「私は自分がしていることに、決して言い訳をしようとは思いません。
これは王妃への復讐であり、トーマスを守るため。後悔はしないと決めていました。
でも、それは間違いでした。十年もあなたを一人にしてしまった。
だけど、あなたを愛していなかったからではありません。
復讐などという醜い感情に、あなたを付き合わせたくなかった。あなたには、知られたくなかったのです。
私のこと、滑稽だと、醜悪だと思っているでしょう?」
今度は夫人が公爵の手を力の限り握り返した。まるで捨てられるのを恐れるように。
「そんなことはないよ。君はいつでも、私の可愛いセシリアだよ。
私を信じておくれ。たとえ罪深い感情だろうとも、君とならば共犯者になろう。
……私は、もっともそれに相応しい人間だと思うよ。
なにせ、七年も、誰にも君の本当の姿を気付かせなかった。君自身にも、私が知っていることを知られなかった。
大した役者だろう?
もしも、王弟としての地位を失い、公爵位を剥奪されたら、二人で旅役者でもしようか。
元公爵夫妻の舞台ならば、物珍しがって、客も呼べるかもしれないぞ」
王太子とは違い、ストークナー公爵は多少は世間を知っているにもかかわらず、現実が見えていないような提案をした。
それでも、マリーナはいいな、と思った。旅役者は比喩にすぎない。二人ならば、身分はいらないということを言いたいのだ。
対して、ストークナー公爵夫人はと言えば、こちらはまごうことなき、世間知らずの侯爵令嬢だった。
「いいですわね。
――その時は、トーマスも一緒ですよ。
あの子はきっと、帰ってきますからね」
その言葉が、頃合いだった。
マリーナは熱烈に盛り上がる二人に、ようやっと声を掛けた。
「あの……そろそろ、地図と『航海年鑑』を見せて頂けませんか?」
「おっと、忘れていた」と公爵は片目を瞑ってみせた。
叔父と甥。
マリーナはアルバートを思い出し、今頃、どうしているのだろうか? もう寝支度は済んだのだろうか? まだ半日も離れていないのに、あの淫靡な空気を吸わないと、なんだかもう落ち着かないような気分になってしまったな、などと思った。




