082:臥薪嘗胆
ストークナー公爵邸にやって来たマリーナは夫人に付き添い、寝室まで入り込んだ。
着替えの時すら追い払われなかったので、彼女はその年頃の少年らしく、目を伏せて待った。それから、寝付くまで手を握って欲しいと言われたので、そうする。
ストークナー公爵夫人が軽い寝息を立てはじめた。
そろそろこの場を立ち去っても構わないはずなのだが、マリーナはそうしなかった。
第一、どこに行けばいいのか聞こうにも、侍女の姿も見えない。
「もしかして”若い男”に見られていない?」
夫人はともかく、公爵までも”ジョン”を少年……それもまだまだ幼い子どもだと勘違いしているのかもしれない。
「設定年齢は十五歳なんだけど……」
思わず呟いた。
それだけあれば、間違いがなくはない年頃ではないのだろうか。
「あら、そうなの? てっきり十三歳くらいに見えるわ」
答えが返って来て、マリーナはびっくりして立ちあがろうとしたが、ストークナー公爵夫人に手をがっしりと握られているので、中腰になった。
その腰が引ける。
「はじめまして。あなたはだぁれ?」
ストークナー公爵夫人は身を起した。その口から発せられる台詞は、”まとも”だった。
「あ……あの……」
「あなたは誰?」
そのしっかりとした問いかけに、マリーナは隠し事をするのを諦め、覚悟を決めた。
「マリーナ・キールと申します」
「ああ、やっぱり」
驚かれると思いきや、マリーナの答えは想定内だったらしい。その上で、言われる。
「チェレグド公爵令嬢エリザベス・イヴァンジェリン・ルラローザの娘」
「そうです」
「面影があるわ」
昔を懐かしむような視線に、マリーナは懐疑的だ。母親はまごうことなき美人だった。
「王太子妃になるために王都に?」
「――そういう話もありましたが、殿下に断られてしまいました」
「あら、今の情勢を平穏に着地させるには、それが一番、いい方法だと言うのに」
ストークナー公爵夫人は真顔だった。
「あの……佯狂……でしたか」
マリーナはまさか、という気持ちと、やはりと言う気持ちがない交ぜになった。
ストークナー公爵夫人はコロコロと笑い声を上げた。
「いいえ、違うわ。私は本当に狂っているの。そうでなければ、十年も、狂ったふりなどできないわ。
そうでしょう?」
「私は狂っているのよ」とストークナー公爵夫人が繰り返した。
「一人息子の復讐のために、狂ったふりをし続けるなんて、正気じゃない」
王宮での華やかな舞踏会から一転、豪奢であるものの、蝋燭の炎と”母親”の瞳ばかり光る暗い寝室にマリーナは来ていた。
暗い寝室で知った真実。
「あの……」
「なぁに?」
ともすればストークナー公爵夫人の口調は、どこかこの世ならざる響きを帯びる。それが彼女が自身を狂っていると称する理由でもあった。一日の半分以上を、狂ったふりをして生活しているのだ。段々と、どちらが本当の自分が分からなくもなる。
それもこれも愛する息子の為。それだけのために、ストークナー公爵夫人は生きていた。
マリーナは堪らない気持ちになる。ストークナー公爵夫人がまともな判断が出来るのならば、真実を語って謝罪しなければ、マリーナの気持ちがおさまらない。しかし、自分が満足するために、ストークナー公爵夫人にまたもや憎しみや悲しみを与えてもいいものか、迷うのだ。
「あたなは私に何か後ろめたいことがあるのね」
「え……!」
長い間、狂人を装いつつも、人々を観察してきたストークナー公爵夫人の視線は鋭かった。
「あなたが私を見る目は、王妃さまに似ている」
「そんな!」
「ごめんなさい。王妃さまに似ているなんて、言われたら嫌よね」
ふふふ、と笑うストークナー公爵夫人は、どちら側にいるのか分からない。
「じゃあ、ラブリー男爵夫妻ね。
考えてみれば、あなた自身が私に対して、何か贖罪が必要なことをしたとは思えないわもの。
つまり、エリザベス・イヴァンジェリン・ルラローザ嬢ね。
まさか、あの方が、王をロザリンド・ラブリー嬢に押し付けて、自分は好きな相手と結婚したせいで、私の可愛いトーマスに害が及んだなんて、そんなことで謝りたいなんて思ってはいないわよね?」
そんなくだらないことで苦悩されたら困るわ、とストークナー公爵夫人は言わんばかりだ。苦悩とは、もっと重い事実の前でするものだ。
「違います」
マリーナは動悸がしてきた。
「言いなさい」
強い口調で命令されたのを切っ掛けに、マリーナはついこの間知った母親の『罪』を吐き出した。
最初こそ、それこそ童話を読むように淡々と語ってみせたが、やはり後半になると彼女の良心と涙が耐え切れなくなった。
「ごめんなさい! すみません!」
それ以外の言葉が見つからなかったが、それが正しい言葉だとは思わなかった。
ストークナー公爵夫人は黙ったまま、その事実を受け止めた。
「母が……そんなことをするなんて……」
「私も意外ですわ。あのエリザベス嬢がね」
素っ気なくストークナー公爵夫人が言い捨てた。
「確かにあの方は、余計な真似をしたわね。おかげで王妃が暴走して、私の可愛いトーマスが苦労する羽目に陥った。
でも、あなたが謝ってもどうにもならないわ。
アルバート殿下が母親の王妃がしたことを謝罪しても、何も変わらないようにね」
「それは、そうですが……」
「だけど、それじゃあ、あなたの気持ちがおさまらないのでしょう?
ならば結構よ。”あなたの”謝罪は受け入れましょう」
つまりは母親のことは許しては貰えないようだ。
マリーナは思った。
「いいじゃないの。あなたの母親はもうこの世にはいない。もう、許すも許されるもない。
出来れば、ご自分の口から聞きたかったわね。娘に『罪』を背負わせて、重荷にさせるなんて」
「ひどい母親ね。私はそんなこと、自分の子どもにはさせないわ」そう言った後、泣き出していたマリーナの背中を優しくさすった。
「ごめんなさい……」
「だからもう、あなたが謝る必要はないわ」
そう言ったものの、ストークナー公爵夫人の手がピタリと止まった。
「でも気になる?」
ふふふ、と笑い声がマリーナの耳元でした。
「……え?」
「あなたに謝罪の機会を差し上げても構わないわよ」
息子のために十年もの長い間、気が触れた母親を演じて来た女性はしたたかであり、マリーナの罪悪感につけこむことに、一切の躊躇を持たなかった。
「教えてちょうだい。あなたは何に気が付いたの?」
「何に……」
「トーマスの手紙を見て、声を上げたでしょう? あれはどうして?」
それが知りたくて、ストークナー公爵夫人はマリーナを連れてきた上に、自身の秘密を明らかにしたのだ。マリーナは良い子のようであるが、秘密を共有するには今一つ、踏ん切りがつかなかった。
だがエリザベス・イヴァンジェリンの『罪』を聞き、それに関してのマリーナの態度を見て、自分の絶対的な優位を確信した。
「自分の不利になるような真実は、たとえどんな『罪』であろうとも隠し通すべきよ。
もしくは、この世のすべての人間に知らせるべきね」




