008:水魚の交わり
「パーシー見て! ちょうど着いたところよ!」
『夕凪邸』の前には馬車が止まり、二人の若い海軍士官が降りたところだった。
「ジョアン兄さま!」
息せき切って現れたマリーナに、ローズマリーの灰色の瞳、ミリアムの赤毛を持った青年艦長は二角帽子を取って恭しく挨拶した。紺地に金色の縁取りがされた艦長の制服が良く似合う。
「マリーナさま、お久しぶりです」
「お久しぶりです。お元気そうで……」
義兄の姿と染みついた海の匂いに、マリーナは胸がいっぱいになって言葉が続かなかった。走ってきたせいもあって、マリーナの瞳は潤み、頬は赤かった。その姿にジョアンは微笑を浮かべる。
「マリーナさまも……少々、元気が良すぎるようですね」
「私の目が至らず申し訳ありません。ウォーナー艦長。ご無事のお戻り、なによりです」
パーシーが海軍式の敬礼をした。
「いいや、ミスター・ブラッド。私に甲斐性がないばかりに、あなたには感謝しています」
海軍時代では、パーシーの方がジョアンの先輩だった。勿論、士官候補生だったジョアンと、ただの水兵だったパーシーの間には、厳然たる階級の差があったが、経験値における差があったのも確かだった。だが、その経験値の差も、今や、ジョアンの方が上になってしまった。
パーシー・ブラッドは優れた船乗りで海を愛していたのに、それを捨てても、キール男爵家の為に殉じている。
マリーナはパーシーの顔を見た。が、彼の表情を読み取る前に、『夕凪邸』の扉が開き、二人の女性が駆けてきた。
「ああ! ジョアン!」
「ジョアン兄さま!」
「母上、ミリアム、やぁ、久しぶり。帰ってきましたよ」
勢いよく抱きついてきたミリアムをジョアンは、よろめきながらも優しく受け止めた。同じ妹でも、マリーナとの差は明らかだった。血の繋がった妹と、そうでない妹だ。当たり前の態度だったが、寂しく思う。
ローズマリーもゆっくりとした歩みで現れ、同じくジョアンと抱擁を交わした。
「――はじめまして、マリーナ・キール嬢……で、いらっしゃいますよね?」
四人の本当の家族の再会を羨ましい気持ちで見つめていたマリーナに、遠慮がちな声が掛けられた。
ジョアン・ウォーナーと一緒に来た海軍士官だ。おそらく、彼が手紙に書かれた部下であろう。髪の毛はくすんだ金髪で、目は薄い青だ。どことなく、あの偽アシフォード伯爵に似ていなくもない。彼を十年ばかり海風にさらしたら、こんな風な色合いになるかもしれない。もっとも、海軍士官の瞳には輝きが灯り、口元はいかにも楽しげだ。彼の陽気な性格は、海風にも痛まず、より一層、磨かれたようだ。
「はじめまして。マリーナ・キールです。
このような姿で申し訳ありません」
そう言えば、自分は髪の毛を短く切り、男のような服装をしているのだった。
「えっと、お名前は?」
「ジョンです!」
「……?」
「ジョン・スミスです。マリーナ・キール嬢。お会いできて光栄です。
ウォーナー艦長の操る”明星号”で海尉を務めております」
「”あなたも”ジョン?」
偽アシフォード伯爵がマリーナの名乗りに戸惑った気分が分かった。なるほど、確かに”君も””あなたも”ジョンだ。
「――ええ、よくある名前です。そして、この国に数多いる一介の海尉にすぎません。
なので私のことはどうぞお気遣いなく」
キール夫人と二人の姉も、ジョアンが連れてきた士官に挨拶をした。
素早く値踏みがされた。平民出だが、キール艦長もそうだった。将来性が無い訳ではない。それでもアシフォード伯爵と比べたら雲泥の差である。下手にマリーナに気を持たれ、マリーナも恋などしてしまったら大変だ。
『シンデレラ計画』が続行中のこともあって、マリーナを着飾らせるのは止め、普段着のドレスを着せることにした。ジョアンの手前、演技と雖も、酷い扱いが出来ないのは知っていた。噂は、あくまで相手の気を引く餌でさえあればいい。ローズマリーはまさか、その餌に思いもかけない人物が引っかかったことを知らなかった。
***
マリーナは自分のこの恰好は趣味だとジョン・スミスに説明した。
「お転婆娘なんです」
「勇名を馳せたキール艦長のご令嬢らしい……と言ったら失礼ですか?」
「いいえ。嬉しいです。でも、母や姉に迷惑をかけるので、どうか、艦に戻ってから仲間の皆さまにマリーナ・キールというのはどんな娘だったか、と聞かれたら、それなりに返事をして下さると助かります」
「それはもう。マリーナ嬢は、活発でとても愛らしいお嬢さまでしたと伝えておきましょう」
「あ……ありがとうございます」
年頃になってこの方、ずっと男の恰好をしていたこともあり、お世辞であったとしても、なんだか恥ずかしくなってしまったマリーナは頬を染めた。
「ミスター・スミス? ミスター・スミスもアシフォード伯爵と同じ艦に乗っていらっしゃるのでしょう?
どんな方なのですか?」
マリーナとジョン・スミスが親しげに話しているのを見て、ミリアムは口を挟んだ。
引き離そうという気持ちもあったが、自身も正確な情報を知っておきたいと思ったのだ。
「どんな方? ……普通?」
「普通って……」
ジョン・スミスの返答にミリアムは不満をあらわにした。こういう時は、手に持ったティーカップの命運が危険だ。マリーナははらはらしたが、今はいつもとは違う。そう、ジョアンがいるのだ。
「アシフォード伯爵と言っても、ごく普通の青年だよ。いや、大変、優秀で勇敢で立派な海軍士官だ。
彼は小さい時から艦に乗り、他の乗員たちと変わらぬ生活をして、危険な任務に立ち向かい、喜びも悲しみも共にしてきた仲間なんだ。
ミスター・コンラッドは……ああ、彼は自分のことをそう呼んで欲しいと言っている……一緒に艦に乗れるならば、こんな頼もしい友人はいない」
「ミスター・コンラッド?」
やはりあの偽アシフォード伯爵は”偽”だった。マリーナは確信した。あの男は自分の爵位を誇らしげに名乗った。
「ロード・ルラローザだなんて、舌を噛みそうだろう?」
面白そうにジョン・スミスが言った。
「ミスター・コンラッドのご先祖さまは、自分の子孫が海軍に奉職するなんて思っていなかったんだろうね。
戦闘中にロード・ルラローザなんて呼び辛くて仕方が無いよ。ミスター・ルラローザでもそう。
だから、ミスター・コンラッドでいいって。艦上勤務だった頃のチェレグド公爵閣下も同じように呼ばせていたそうだ。
それに、部下に”ロード”がついていると、何かと気を遣って不便でもあるしね。艦上はともかく、上陸した時に晩餐会なんかに招待されるともう最悪。
名前だけで、艦長よりも上席に座らされそうになるなんて、勘弁して欲しいものですよ」
「そうは言っても、休暇中に会う時は、私もアシフォード伯爵とお呼びしなければならないとは思いますが、中身は変わりません。
私の知る限り、ミスター・コンラッドは堅苦しくて偉そうな人間ではありませんよ」
二人の海軍士官の語るアシフォード伯爵に、ミリアムは安堵した。姉に押されてマリーナをアシフォード伯爵に添わせようとしたが、あんまりにも偉そうで鼻持ちならないような男では、マリーナに申し訳ないと心苦しかったのだ。聞こえてくる評判は良かったが、噂は噂にすぎないことは、ミリアムもよく分かっていた。しかし、今やそれは晴れ晴れとした。聞けば聞くほど、素晴らしい青年のようだ。是非ともこの縁談が上手くまとまって欲しいと願うばかりだ。
「アシフォード伯爵にご挨拶に行かないといけないと思っておりました。
とても立派な方だと緊張しておりましたが、思ったよりも気さくな方のようで、安心しました」
同じくアシフォード伯爵に好印象を持った母親の言葉にジョアンは謎めいた笑みを見せた。
「”アシフォード伯爵”は舞踏会を開くそうです。
そこに我々家族を招待したいと」
「「まああああ!!」」
舞踏会という単語に、ローズマリーとミリアムは歓喜の声を上げた。すぐさま、ローズマリーは椅子の肘掛にもたれかかり、ミリアムのティーカップは手から滑り落ち、割れた。咄嗟に立ち上がろうとしたマリーナを、『夕凪邸』の唯一の使用人であるナタリーが止めた。ローズマリーの元には彼女が、ミリアムのぶちまけたお茶の後始末はパーシーが行った。
それが当たり前の光景なのだろうが、マリーナは落ち着かない気分になる。それで、舞踏会という華やかな単語を好意的に受け止められなかった。
「マリーナ! あなたの為に素敵なドレスを仕立てないと」
キール夫人がうきうきとした。ローズマリーはすぐに気分が悪くなる娘だし、ミリアムは物を壊す娘だ。そのどちらも舞踏会に連れて行く気はなかった。
第一、アシフォード伯爵に用事があるのはマリーナだ。
なまじ賢いローズマリーや、美人なミリアムは邪魔になるだろう。
”王子さま”が選ぶのは”シンデレラ”なのだ。ならば、最初から”シンデレラ”を連れていけばいい。
継母はそう判断した。