078:脛に傷持つ
病床の王太子を新たに訪ねて来た客を、マリーナは断れなかった。
なにしろ王姉であり、”花麗国”王妃の実母でもあるニミル公爵夫人オーガスタだったからだ。それに彼女は穏やかな気質で、アルバートを難しい問題で悩ませるようなことはしないと思われた。
その通り、ニミル公爵夫人はアルバートに「あら、随分、顔色が良くなったわね」と母親のように優しく語りかけ、手袋を外すと、掌を甥の額に添えた。
白くて柔らかそうな手は、いかにも心地が良さそうで、いかにも”母親然”としていて、マリーナはつい、凝視してしまった。
その視線を恥ずかしく思ったのか、アルバートは伯母の気分を害さないように、そっとその手を外させた。ニミル公爵夫人は「ごめんなさい。つい」と言いながら、手を下ろした。
「あなたは王太子なのですものね。
ついつい息子のように接してしまうわ……もっとも、息子なんて、十歳の年に手放して以来、すっかりご無沙汰よ。
だから、あなたはお嫌でも、代わりに可愛がらせてちょうだいね」
彼女の息子、ウィステリア伯爵ランスロットは王妃に睨まれ、長く海の上だった。
恨み節には聞こえなかったが、アルバートは伯母の願いを無碍に出来ない。
「勿論ですよ」
アルバートはストークナー公爵夫人にもトーマスとして扱われていた。
この際、母親が三人いると思うことにしている。
「でも、熱が下がったようだわ。本当に良かった」
実の母親のように喜ぶニミル公爵夫人は、果物とよい香りのお茶の葉を持って来た。
「果物はうちの温室で作ったものよ。『花宮』にも届けたばかりなの。
お茶は爽やかな香りで、気分が良くなるわ。イルタリア帝国から届けられたものよ。
あの国の帝室は、ヴァイオレットがいなくなっても、我が家に親切にしてくれるわ。
これからロザリンドにもお届けしましょう。
あなたが快方に向かっていると知ったら、ロザリンドも安心するでしょうね」
ニミル公爵夫人は、王家の総領姫として、各所に気を配っていた。
「王妃にも?」
「そうよ!
アルバートのことを随分心配していて、お見舞いに行きたいとおっしゃってたのだけどね、もしかしたら疫病かもしれないから、周囲がお止していたの。
ほら、あなたの小姓が、最近、流行り病の疑いで、王宮を辞したそうじゃないの。
どうやら、そうではなかったようだけど、立場のある人間は、気を付けないといけないわ」
王妃ともなると息子の看病すら、自由に出来ないのだ。
もっともアルバートは、それで良かったと感じた。側に王妃がいられたら、治るものも治らない気がした。
「オーガスタ伯母上のお優しい人柄には、いつも尊敬しております」
息子ですら嫌気が差している王妃にも、ニミル公爵夫人は親切なことに、アルバートは感嘆した。息子も娘も、その王妃の差し金で、苦労させられていることにも、寛容なようだ。
「そんなことないのよ。
王がずっと離宮に籠っていて、さぞや寂しい思いをしていることでしょう。
不甲斐ない弟の代わりに、私が慰めて差し上げないと……。
だけど、ありがとう。嬉しいわ」
ニミル公爵夫人は長居をすることはなかった。すぐに腰を浮かし、暇の挨拶に移ろうとするのを、アルバートが呼び止めた。
「何かご用でしょうか、殿下」
王太子より特に呼び止められたことに、ニミル公爵夫人は畏まって、座り直した。アルバートは、そんな大した用事ではありませんよ、というように微笑んだ。
「オーガスタ伯母上は、最近、『花宮』で気になることがありますか? その……見慣れぬ人間が出入りしている……とか?」
アルバートの質問に、ニミル公爵夫人は首を傾げる。
「分からないわ。
”花麗国”からいろんな人たちが来て、『花宮』も人の出入りが激しくてね。
今日見た人が明日見かけなくなったり、昨日、見なかった人が、今日、見かけたり……そんな状況でね、母は賑やかだと喜んだり、逆に騒々しいと怒ったりするくらいなの」
「もう、我が母ながら、勝手よねぇ」と、ニミル公爵夫人は楽しげに笑ってから、ふと、真顔になった。
「そう言えば、ちょと前に、おかしな噂を聞いたわ」
「おかしな噂?」
「そうよ」
ニミル公爵夫人の顔に、再び笑顔が戻る。
「『花宮』に幽霊が出るのですって」
「幽霊!?」
「そう、幽霊よ。黒尽くめの人影が、夜中に歩いているんですって!」
興奮した様子からは、恐怖よりも面白さを感じていることが分かった。だが、さすがにそれは王太子の前では不謹慎だと思ったのか、再び、真面目な顔に戻った。
「いやねぇ、母の耳に入ったら、不安にさせてしまうから、止めてちょうだいって、言っているの。
王もご滞在でしょう。
その代わり、油代はいくらかかっても構わないから、明かりを増やして、夜中も絶やさないように申し付けたわ。
警備も増やしてもらったの。
おかげで、そんな噂もなくなったわ。やっぱり気のせいだったのよ。
だから……あら、余計なことだったかしら?」
「――いいえ、そうは思いません。
夜でも明るくなったせいで、よからぬ噂が立つ隙がなくなったのでしょう。良いことだと思います。
『花宮』は私の目が届きませんので、伯母上のご配慮に感謝しています」
「良かったわ。王の姉が立場を利用して、勝手なことをしていると思われたら、王にも母にも、迷惑を掛けますもの。
あなたにも、よ」
ニミル公爵夫人は今度こそ、立ち上がった。
「しっかりと治すのよ」
それからマリーナにも手を差し伸べる。
「ジョン、王太子殿下のこと、宜しくね」
マリーナはニミル公爵夫人の白く優美な手を見つめた。
「なにかしら?」
「申し訳ありません。
あの……御手に傷が……私、よい傷薬を持っております。よろしければお使い下さい」
ニミル公爵夫人の手の甲に、ひっかき傷のようなものがあり、それが気になったのだ。
すると優雅な手が、大したことないという風に揺れた。
「あら、本当!
どこでついたのかしら? 指輪か何かが引っかかったのかしらね。
これくらい、平気でしょう。
気遣ってくれてありがとう」
感謝を忘れないニミル公爵夫人はマリーナにも丁寧に礼を述べると、手袋を嵌めた。
アルバートの代わりにニミル公爵夫人を見送りに出たマリーナは、王太子の部屋に戻る直前、息を切らして駆け込むロバートに出くわした。
手には例の『東の森』の霊水が入った瓶が握られている。アルバートが、木で出来た樽に入った水は臭いがついて受け付けないと”我儘”を言って、ガラスで出来た瓶にさせたのだ。そのせいで、運搬にはより気を遣うことになってしまった。
マリーナは少しばかりロバートが気の毒になる。
ロバートはマリーナを見て、すぐさま、アルバートの容体を聞いた。
「アルバート殿下のご様子はどうだ?」
「随分と良くなりました」
その答えに、ロバートは旅で薄汚れた大きな身体を震わせて喜んだ。
また、アルバートから直接、「私が快癒したのは、ロバートの献身のおかげだ」という言葉を賜り、彼の喜びは頂点に達した。
アルバートもマリーナも、ロバートを信用していなかったが、表だって敵に回すのは避ける方向でいた。
マリーナは王妃との直接対決の一件から、変に王妃を褒めたりはしないことにした。ロバートのことも同様で、彼女が彼の感情や行動を操るのは難しいと判断していた。ただ、彼女なりに、真摯にアルバートに仕えている姿を見せることで、ロバートの信頼を確保することにしたのだ。
しかし、アルバートはそうではないようだ。
彼は変わってしまったように見えた。王太子として必要な変化ではあったものの、王妃関連で胸によぎった一抹の不安を、完全に消し去ることは出来ないでいた。
***
アルバートは無事に回復した。
それで懸案になったのが、国王との政治の主導権を巡る争いだったが、それは避けられることになる。
なぜならば、今度は国王が病を得たからだ。
『花宮』に見舞いに行ったニミル公爵夫人が、「心配しているでしょうから」と、アルバートに知らせに来た。
「原因は分からないけど、腹痛と嘔吐があって、熱が高いのよ。
もともと、飲み過ぎで、ここ最近は、顔色も黄色くて、目も濁っていたから、養生した方がいいと進言していたのですけどね。
今回のことで、よい教訓になって、節制してくれるといいのだけど」
「そんなにひどいのですか?」
「病気? そうねぇ……しばらくは、身体を休めないと。
嘔吐も熱も、それだけで疲れるもの。
それなのにロザリンドが見舞いに来て……王に会わせる会わせないで、サビーナと揉めてしまったの。
サビーナというのは、最近、王の身辺のお世話をしている、”花麗国”の娘よ。母のお気に入りなの。
勿論、王もよ」
「存じております」
ニミル公爵夫人の口調で『王の身辺のお世話をしている』と言われると、純粋に、それだけの関係のように聞こえる効果があった。
そんな彼女ですら、今回の王妃と”世話係”の争いには、手を焼いているようだ。
「いい娘なのよ。
ロザリンドを王から遠ざけたのも、病がまだ原因不明で、移るかもしれないと案じてのことでしょう?」
「そうでしょうね」
内容は同意だったが、どうしても否定的な感情が滲んでいた。
「けれどもロザリンドも納得しなくて、王の部屋の扉を挟んで押し問答。
王の加減は悪くなるし、お母さまも激昂したせいで、卒倒しかけるし……ロザリンドも、サビーナに王との面会を拒絶されたことに、それはそれは嘆き悲しんで、可哀想だったわ」
「そうでしたか……ご迷惑をお掛けしました」
息子への見舞いは周囲の制止を聞いて取り止めた王妃が、原因不明の病に倒れた王の元にはすぐさま行ったことに、アルバートは驚きはしなかった。
「いいえ。
全員を落ち着かせるまで、随分と時間がかかってしまって、こちらこそ、役立たずで申し訳ないわ。
これからロザリンドの所に行く予定よ。
何か伝言は?」
「特に何も」と言いたい所だが、アルバートは孝行息子を演じた。
「どうぞお心、穏やかに。心配しております――と」
「分かったわ。伝えておきましょう」
王の病は長引くことはなかったが、周囲がまたお体を害されてはいけないと説得して、国政への関与を止めた。
その説得にはニミル公爵夫妻が大きな力となった。




