077:目は口ほどに物を言う
アランは、少し迷った後、いつも持ち歩いている紙ばさみから一枚の絵を取り出した。
「ヴァイオレット妃だよ。
神聖イルタリア帝国妃としての姿を描いたんだ。
実際、見て描かせもらった肖像を元に、折りに触れ、描き直したから、大分、よくなっているはずだ」
絵姿を何度も描き直すという行為は、アランのヴァイオレット妃に対する並々ならぬ執着を感じさせた。
「なぜ、そこまで?」
マリーナは、アランにとってもヴァイオレット妃が”幻想の乙女”なのだろうかと訝しんだ。アルバートと違い、彼は本人に何度か会っている様子で、生身の彼女をよく知っているから、”幻想”ではない。
「――ヴァイオレット妃は大変、興味深い方だったのですよ。
今は、どちらかと言えば、君の方にそれは移っている」
「ええ?」
「”ジョン”は私の芸術的感性を刺激する、非常に面白い……失礼、興味深い”少年”だからね。
ヴァイオレット妃の方は、とりあえずはこれで十分だ。
また新しい彼女に出会うことが出来れば――」
アランはマリーナにバイオレット妃が描かれた紙を突き出して言った。
「きっと再会すると思うけど――その時は、また描き直す羽目になりそうだ」
言葉とは裏腹に、口調には願望とか、祈りとかが籠められていた。
アランの見方は、ヴァイオレット妃に対して少なくとも負の感情よりも正の方が多そうだ。
それを踏まえて、マリーナはアランの目を通して初めて、ヴァイオレット妃と見えることになった。
ヴァイオレットはエンブレア王国の王族らしい美形の少女だった。しかし、穏やかで、現状に満足することを知っているようなニミル公爵夫妻には似ていなかった。顔の造作に面影があるものの、いかにも気が強そうで、どこか不満そうに見えた。
もっとも嫌な感じはしなかった。
イルタリア風にきつく結い上げた黒い髪の毛と意思の強そうな眉、引き結ばれた唇がそう感じさせるのだが、紫色の瞳には好奇心が隠しきれないといったような光が宿っている。
微笑んだのならば、愛嬌がありそうだ。
そう思ってみると、段々と口元が笑っているようにも見えてくるのが不思議だ。紫色の瞳も悪戯っ子のように煌めく。
『威厳ある神聖イルタリア帝国の皇后だから。前夫であるサイマイル国王の喪中だから。私は仕方がなくすました顔をしているけど、本当は笑い出したくてたまらないの』
そんな声まで聞こえてきそうだ。
確かにアランが興味を惹かれる、独特の魅力がありそうな少女だった。
「アラン殿は見事な絵師なのですね。
姿形だけでなく、その人の内面を紙に写し取ることが出来る――特にこの紫色の瞳の描写が素晴らしいです」
マリーナがそう言うと、アランの瞳が喜色に輝いた後、なぜか沈んだ。
「そう言ってもらえると嬉しいですね。
ヴァイオレット妃はその紫色の瞳が印象的だった。
君の若葉の瞳のようにね。
ヴァイオレット妃は”花麗国”に嫁いできた時、”花麗国の紫水晶”と讃えられたものです」
「そうなのですか?」
「ええ……それで、サビーナがひどく気分を害しましてね」
「サビーナ?」
マリーナには初めて聞く名だったが、他の人間は知っていたようだ。
「あの”花麗国”の亡命貴族の娘とお前は知り合いなのか?」
トイ軍曹が詰め寄った。
「さっき全部話したんじゃなかったのか?」
気を利かせたマリーナがアルバートにヴァイオレット妃の絵姿を渡そうとして、片手で軽く押しやられた。
「そうなのか? アラン。
あの『花宮』にいる娘は、貴殿の知り合いなのか?」
「そのようです、殿下。
彼女は私の従妹です」
沈んだままのアランの表情がますます痛ましくなった。
彼が語るに、エンブレア国王の愛人となった”花麗国”の伯爵令嬢・サビーナの父親はアランの叔父。元は伯爵家の次男だった。
「エンブレアと違わず、”花麗国”でも貴族の次男はごく潰し者です」
ふんっと、公爵家の元次男坊が鼻を鳴らした。
「そうですね、そうでない者もいますが、私の叔父はそうでした。
ただ、伯爵家を継いだ兄……私の父と仲は悪くなかったのです。
叔父は巧みに父に取り入り、伯爵家に家族で長逗留していました。
娘のサビーナも連れてね」
サビーネは暗い、黒にも見える茶色い髪と瞳の美しい少女だった。
「そして、”花麗国”の貴族を体現したような娘でした」
アランは一人息子で、他には子どもがいなかったこと、サビーナが愛くるしい女の子だったことから、アランの母も可愛がっていた。
周囲の無節操で無責任な甘やかしでサビーナは自分が美しい娘だと認識し、さらにあたかも自分が伯爵家の令嬢のように振舞い始めたのだ。
「いつかエンブレアの王太子の妃になるのが夢だと言っていましたね」
「私の?」
「アルバート王太子の絵姿は”花麗国”でも人気でした」
肖像画というものは、大体において、美化されるもので、アランも実物のエンブレア王太子はそれほどでもないと思っていたが、現実は絵を遥かに上にいく美貌だった。
「サビーナはあなたの姿を描いた小さな絵を持っていましたよ」
王家と繋がりのある伯爵家の令嬢ならば、エンブレア王太子に嫁ぐのも夢ではないかもしれない。
そんなサビーナにさらなる追い風が吹いた。
「彼女は本物の伯爵令嬢になったのです」
アランの父親は、神聖イルタリア帝国で芸術にかぶれた息子に激怒して勘当してしまったのだ。
「随分と短慮だな……」
トイ軍曹は腕を組む。彼も父親の望んだような跡取り息子ではなかった。トイ商会の当主は、息子への不満や愚痴をいつも口にしている。それでも、財産を他人に渡すくらいなら、血を分けた我が子に継がせたいとの気持ちを拭い去ることは出来なかったというのに。
「父は……そうですね、気が短かった。
私に対する見せしめも兼ねていました。謝れば、もう一度、嫡男としての権利を復活させる腹積もりだったのかもしれません」
しかし、アランの父は、息子と縁を切ったまま亡くなってしまう。そうなるとサビーナの父が正式な伯爵家の当主だ。彼にはサビーナとその妹、という二人の娘しかいなかったので、アランにはもう一度、復権の機会があった。
そうはさせじと、サビーナの父は妻と無理矢理、離縁して、若い娘と再婚した。
サビーナは母親の嘆きを「伯爵家のためですもの」と無情にも退けた。彼女にとって、伯爵家の令嬢であることが、母親よりも大事だった。
サビーナの母親は、自分に同情する次女とともに、伯爵家を出た。その後の行方は分からないと言う。
「その頃、”花麗国”……私の家の近くの地域では長雨が続き、凶作に見舞われました。
ベルトカーンの領土と接していたので、そちらの方も似たような状況に陥りました。
ですが、両者の対応には恐ろしいほどの違いがありました」
「私はねぇ」とアランはアルバートを見た。
「ベルトカーンを敵だと認識しています。ベルトカーン国王は嫌な奴だと。
だが、彼は自国の王としては有能なのです。
凶作に見舞われた地域にはすぐさま援助の手を差し伸べ、壊れた家屋や決壊した堤を直すように命じました。
それが”花麗国”ではどうでしょうか?
ヴァイオレット妃からの見舞いの品は届きましたが、それは一時凌ぎにしかなりません。
領主である伯爵家が、動くべきでした。
しかし、叔父はそれをしなかった」
その頃、ちょうど”花麗国”に見切りをつけ、エンブレア王国に行くことにしたアランは、最後に故郷に挨拶に行ったのだ。
「――実は、私がエンブレア王国に行くとヴァイオレット妃に伝えたところ、ならば故郷に私の見舞いの品を届けてから行け、とその機会を作ってくれた……と言っていいのでしょうか……正直、もうあそこに戻りたくはなかったし、戻ったことを後悔しました」
飢饉に苦しむ領民をしり目に、伯爵家は贅沢三昧をしていた。
アランが持って来たヴァイオレット妃からの品も、叔父や従妹に奪われそうになった。加えて、王都から支援物資が届いたと聞いた領民たちは、伯爵家の館に押し寄せ、暴動寸前になった。
その中で、アランの顔を見知った何人かに、彼は恨み言を言われた。
『もしもあなたが居てくれたら、こんなことにはならなかったのに』
『裏切り者』
『お前のせいだ――』
「ヴァイオレット妃は、それを予期して、私を遣わしたのかもしれないですね。
自分が国を捨てて逃げ出すことの重みを知って、それでもなお、逃げる覚悟があるかどうかを、見たかったのかもしれない」
手元に戻ってきたヴァイオレット妃の絵姿を見つめるアランに、アルバートが声を掛ける。
「後悔しているのか?」
その問いに、アランは力なく首をふった。
「いいえ。私は自分の決断に、後悔はしません。
私がいたところで、ただ民に寄り添って、一緒に飢え死にするだけでしょう。
前にも言った通り、私には土地を治めるなんて能はないのです。
叔父ではなく、もっと有能な人間にその権利を渡せれば良かったのですが……”花麗国”ではそれは出来ませんでした。
それに、私は絵を描きたい」
「描きたいのです……」と、腹の底から絞り出すように、アランが誰とも無しに訴えた。
しかしアルバートは冷静だった。
「ヴァイオレット妃にも面識があり、サイマイル王国の伯爵家にも親戚がいる。神聖イルタリア帝国にも知り合いがいるであろう貴殿なら、領地が窮乏の危機にある時、それを訴え、援助を請うことが出来たのではないか?」
「おっしゃる通りです……エンブレアの王太子殿下……」
アランは唇を噛んだ。
「私は自分の夢を叶える為に、守るべきものを捨てた人間です。
だからこそ、夢を必ず、叶えます。
ジョン……絵を褒めてくれてありがとう」
「いいえ。本当に……よい絵だと……」
マリーナは胸がつまる想いだった。伯爵家という恵まれた家柄に生まれたのに、だからこそ、それが彼の足枷になるなんて。
一方で、伯爵家というものに拘泥するものもいる。
「そのサビーナ嬢も、このエンブレアにやって来たということですよね?」
「ああ……先の飢饉に加え、ベルトカーンの影響力の大きい地域なだけあって、革命派の勢力が強くてね。
と言うか、ほとんどは主義も主張も持たない民たちだ。彼らは自由と平等よりも、食料が欲しい。より生死にかかわる欲求なのだ。
おそらくベルトカーンが侵略して来ても、食料や医薬品を配給すれば、革命派からあっさりと寝返るだろう」
「だが、それを浅ましいと決めつける訳にはいかん」
チェレグド公爵が言った。
「夢も大事だが、人は着る物、食べる物、住む所が必要なのだ。
親や子どもがいる者だっている」
衣食住よりも、夢を重視するアランも同意した。
「ええ。その通りです。
とにもかくにも、サビーナたちは”花麗国”の中でもいち早く逃げてきた貴族たちのひとつです。
叔父と若い後妻は金遣いが荒い。すでに生活は困窮し、家宝である紫水晶の首飾りも売りに出す始末です」
「紫水晶の首飾り……と言うと、トイ商会にあるあれか」
トイ軍曹の言葉に、マリーナはそう言えば、ミリアムと一緒にトイ商会を訪れた時、アンジェリカが強請っていた品が紫水晶の首飾りだったことを思い出した。
「そうです。
”花麗国の紫水晶”とは、ヴァイオレット妃が来る前までは、私の実家の伯爵家を指す代名詞でした」
「それはそれは……さぞやサビーナ嬢は悔しかっただろうね」と、チェレグド公爵が皮肉っぽい声を漏らす。
「本当に。
あの首飾りは、伯爵家の夫人か娘しか身に付けられないもので、私の父が健在の頃は、いくらサビーナが愛らしく頼んでも、触ることすら許されなかった。
その念願の首飾りを手に入れ、意気揚々と舞踏会に赴いたサビーナの前で、彼女が首に掛けるその紫水晶よりも、ヴァイオレット妃の紫色の瞳の方がずっと美しいと言われたらしいですよ」
マリーナはもう一度、アランの描いたヴァイオレット妃の絵を見たくなった。
だが、アランはもう、その絵を紙ばさみの中に戻してしまっていた。
「そのサビーナご自慢の紫水晶の首飾りが売られたと聞いた時、まさか、と思いました。
サビーナが納得して売ったのでは、やはりなかったのですね。自分の首飾りを取り返す為に、王の愛人になったのでしょう。
あの娘は、他人の権利は平気で踏みにじるが、自分の権利と信じるものを侵害されるのは許さないような性格です」
「それだけではないだろう……」
アルバートが思案顔だ。アランは頷く。
「はい、殿下。
おそらく、紫水晶の首飾りだけなく、領地も、伯爵家の権勢も取り戻したいと思っているのかもしれません」
「だからせっせと国王陛下の側で、国政に干渉しようとしているのか。
なんとかしないと、無茶な進軍命令が下りそうだ。
……殿下?」
チェレグド公爵の前で、アルバートは固まっていた。思考の海に深く潜ってしまったのだ。これは長引くようだということが、チェレグド公爵には分かった。
王太子は何かに引っかかっているようだ。
『それを相談して欲しいんですけどね』
公爵は王太子の肩を掴んで、激しく揺さぶりたい気持ちになった。それか逆さまにしたら、白状するだろうか。
それを実践する前に、マリーナがチェレグド公爵、トイ軍曹、アランの三人を追い出しにかかった。
「もう十分でしょう。
殿下はお疲れです。
今日はこれでお帰り下さい」
小姓にしては出過ぎた真似だが、王太子の身を案じているという大義名分の前では、三人の大の男も従うしかない。
それにアルバートの為に、若葉の瞳に精一杯、強気な光を宿し、小さな体を大きく見せようと胸を張る様子が、いじらしくて可愛かった。
三人の男たちは、ジョンが女性であることを知っていた。チェレグド公爵は当然、トイ軍曹もそうだ。アランもトイ商会でマリーナの姿を見ていた。人の内面を描く画家は、勿論、ジョンがマリーナであることを察していた。
そこで、マリーナに敬意を表して、彼らは大人しく、引き下がった。
アルバートが我に返った時、部屋には男三人ではなく、代わりに伯母が居た。
「あれ? オーガスタ伯母上??」




