072:花も実もある
すっかりお腹が空いていたマリーナとアルバートの為に出て来たのは、パセリのソースがかかったぶつ切りにした鰻の煮込みだった。
蒸した芋を潰し、バターと牛乳で滑らかにしたものも、付け合わせとは思えないほど大量に添えられていた。
ストークナー公爵が買ってきた鰻はまだ泥抜きが済んでいなかったので、ちょうどトイ商会の使用人用の厨房で煮込まれていたものを持ってきたと言う。
「時間があればパイ包みに、煮こごりも出せましたのに」と、畏まる給仕と皿の前でアルバートが固まっていた。黒い物体が緑色の液体に浸っていて、周りには白い山がこんもりと乗せられているそれは、彼には見たことのない面妖な食べ物だった。そして、それがあの船の桶の中で蠢いていた物と同じ物の成れの果てだと思うと、もう固まるしかない。食べ物だったのか……あれは……。
「美味しいですよ」
トイ軍曹は上司に聞かせるようでも、そうでもないような口調で言った。敢えて積極的にお勧めしようとは思わなかった。これを出すように仄めかしたストークナー公爵の真意を量りたい気分だ。
「精がつくと言われている。労働者は牛肉は高くて食べられないので、鰻で代用しているのだ」
ストークナー公爵は食べ慣れているのか、それを口に運んでいる。
庶民の味を教えようとしたのかもしれない。トイ商会でも、船から荷揚げをするような労働に従事している人々に好まれた食べ物だった。
どちらかと言えば庶民、もしくは、まさしく庶民の面々も食べ始めた。
一方で、”花麗国”風に育てられた王太子にもっとも近い亡命画家のアランは首を振った。
「エンブレア王国に来て、何が慣れないって、この食事だね。
口に合う、合わないというよりも前に、まず見た目が拒否してしまう」
これこそが、アランが外套を手放しても食費は節約できない理由だった。
「なんだって、こうも彩が悪く、食感も酷い、味も薄ぼんやりとした食事なんだろう」
「お前、贅沢だな。貴族か?」
口の周りに緑のソースを付けた路地裏のジョンが抗議の声を上げた。食べ物に文句をつけるなど、神を冒涜するに等しい。
だからと言って、『即、貴族と決めるつけるなよ』と、鰻の煮込みを食べているエンブレア王国の筆頭公爵は思った。『王族公爵だって食べてるぞ』とも。むしろストークナー公爵を見ると、単に好物そうだ。公爵家ではなかなか食べられない鰻を、ここぞとばかり食べている。
けれども、路地裏のジョンの決め付けも、あながち外れてはいなかった。
アランは皿を押しやった。
「そう。私はさる公爵家の長男だったんだ」
その言葉に、一斉に視線が集まる。
「いや、嘘。本当は伯爵家だ。”花麗国”のね」
訂正したものの、貴族だった。
「それがなんだって売れないヘボな絵を描いて、苦労しているんだよ」
路地裏のジョンはここぞとばかりに、エンブレアの料理を否定する”花麗国”のお貴族さまに言った。
彼は王太子と食事の席を共にするという破格の名誉に預かっていた。当初は緊張していたが、段々と、場になれてしまった。多少、口汚くても、高貴な公爵さまだって自分たちと同じ言葉を使うことも分かった。姉は精一杯気どって、鰻の煮込みを啜っているが、生まれも育ちも下賤な自分が下品だって当たり前だ。それが嫌なら追い出せばいい。いつそうなってもいいように、鰻の煮込みはすでに胃の中にかきこんでいた……はずなのに、気が付くと、魔法の皿のように、食べたはずのものが戻っていた。
”花麗国”の貴族の態度を不快に思ったのは少年だけでなく、トイ商会に仕える給仕もそうだったのだ。面と向かって抗議してくれたジョンに、礼とばかりにお代わりをたっぷりと盛ったのだ。
「そりゃあ、絵が描きたいからだよ。
衣食住が足りたって、心が満たされなければ、生きていく意味ってあるのかな?」
「くっそ贅沢もんだな」
路地裏のジョンが吐き捨てた。彼にはアランの背景にお花畑が見えた。それも画家自身が描いた下手くそな花だ。これ以上、話すことは無いと、新しい鰻の煮込みを食べることに専念した。次にお腹いっぱいになれる日が、いつくるか分からない。「夢なんて喰えねえよ」
「おい、あまりがっつくな。胃が驚いて、死んでしまうこともある」
まともに食事を摂っていないような子どもが、お菓子を食べた上に、鰻の煮込みに芋の蒸かしたものまで口いっぱいに頬張っているのを、チェレグド公爵が見咎めた。彼の経験上、海上で遭難し、数日絶食した人間には、まず胃を慣らしてから食事を摂らせなければ、助けた意味がなくなることを知っていた。
「そ、そうなのか……!
いいや、腹が減って死ぬくらいなら、満腹で死にたい!」
スプーンを取り直した路地裏のジョンの皿を、先ほどの給仕が取り上げた。死なれたら後味が悪い。「今、パイ包みも作っている。お土産に持たせてあげるから、今は止めなさい」
「いつでも適度な量の食事を摂れるようにしたくはないのか?」
ストークナー公爵はここぞとばかりに持ちかけた。「私が面倒をみよう。勉強をしながら働ける場所を紹介する」
「げぇ……」
路地裏のジョンが呻いた。食べ過ぎで気分が悪くなったのではなく、『勉強』という単語に拒絶反応が出たのだ。
「いい話ではないか」
アランは仕返しとばかりに煽った。
「てめぇ」
「私も父に言われて、神聖イルタリア帝国に留学したなぁ。
そこで芸術に出会った。これこそ、私の進むべき道だと確信して、そこから画家を目指すことにしたんだ」
『さぞや父上はがっかりしただろうな』と一同、アランの貧しそうな服装と、優雅な仕草を見比べた。
貴族として必要な知識や人脈を作りにいったはずが、芸術にかぶれ、ついには廃嫡になった挙句に、エンブレア王国で困窮している。
「せっかく貴族に生まれたのにもったいねぇな」
「全然。
大体、私は人の上に立つ性格じゃあないし。
今は自由でいい。責任も重圧からも免れて、好きなことをして生きていける。
とても満足だ……と言いたいところだが、絵を認めて欲しいものだ」
「無責任だな。貴族がそんなんだから”花麗国”は駄目なんだ」
”花麗国”の荒れた内情は、路地裏の子どもすら知っていた。
「君はエンブレアの食事を批判されたら怒ったね。そんな君が私の国を批判するんだ」
「エンブレアの食事と一緒にすんなよ!」
そう言いつつも、路地裏のジョンは助けを求めるように姉を見た。
駄目だ。姉は畏まって王太子の方を見ている。
他の人間は、小骨の多い鰻を慎重に食べ進めており、二人の会話に口を挟もうとはしなかった。
なので、ジョンもアルバートを見た。王太子はまだ鰻の煮込みに手を出すのを躊躇していて、端に盛られた蒸した芋を潰したもので、空腹を満たしていた。
彼は路地裏のジョンの代わりに謝罪した。
「申し訳ない」
「あ、謝っちゃうんだ。王太子殿下が、こんな子どもの為に」
いよいよ面白そうにアランはアルバートを見る。
「謝ることはありませんよ、殿下。
この子がエンブレアの食事を批判された事に対し憤ったのを見て、私は羨ましくなりました」
「なぜ?」
「私は”花麗国”を批判されてもちっとも悔しい気持ちじゃないんだ。
政治も……文化も……もはや誇るべき気分になれなくてね」
自分で申告した通り、アランは”花麗国”の内情について、多くのものを見聞きしてきた。
それが彼に故国へ失望に近い感情を抱かせているのだ。
「王太子殿下は王都の下町を歩いてみて、なんて貧しく不幸な場所なのだろうか、と思いませんでしたか?」
アランの指摘に、アルバートは素直に頷いた。
「私が不甲斐ないせいだ」
「いやいや、それは思いあがりですね」
いくらアルバートの懐が広いとはいえ、自分の責務を放棄した男にそこまで言われると、さすがに怒った方がいいのかと眉を上げた。
それに対し、アランはまだ早いという風に、慌てて続けた。
「先程も言いましたように、私は神聖イルタリア帝国に留学していました。その前にはサイマイル王国にも滞在していました。母がそこの伯爵家の出身だったのでね。
ご存知の通り、神聖イルタリア帝国の先代皇帝は厳格で英邁な君主でした。しかし、それであっても、貧しい者や病気の者を無くすことは出来ませんでした。
サイマイル王国の前国王は非常な遊び人でしたが、真面目に治世をしていた神聖イルタリア帝国とほぼ同程度の経済格差でしたよ。しかも彼はどういう訳か、不思議と国民に愛されていた。現国王の方が”ご立派”ではあるものの、面白味がないと不人気なくらいです」
「そうなのか……」
意図した訳ではなかったが、アランがそれぞれの国に滞在した時、その国の君主の妃はエンブレア王国出身のヴァイオレットだった。そして、彼が”花麗国”に戻ってきた時、彼の国の王妃の座にも彼女が座っていた。
「”花麗国”は酷い状況です。
エンブレア王国とは比べ物にならないほどの悲惨な有り様ですよ。
私は――なんとかしようと思ったのです。こんな私でもね。
けれども、私は知ってしまったのですよ」
そこまで言って、アランはこの場で、これ以上のことは話すべきではないと判断した。
ちょうどそこにトイ商会の給仕が、鰻の煮込みを食べない客人の為に、厨房が急いで作った牛肉のパイ包みの”花麗国”風を持ってきた。
「これはこれは……お心遣い、ありがとうございます」
「――じゃねぇか」
「なんだい? 少年」
路地裏のジョンがぶすっとした顔で言った。
「でも、食事は”花麗国”の方が好きじゃねぇか!
お前、なんだかんだいって”花麗国”が好きなんだよ。好きじゃなきゃ、がっかりなんかしないもんだ」
「……! ああ、そうか。その通りだな。
私にもまだ、愛国心なんてものがあったのか――」
路地裏のジョンの指摘に、アランは嬉しそうに笑って、握手を求めた。「君はやっぱり勉強した方がいいよ。私とは違って、立派な大人になれる。そうして、エンブレアを”正しく”支えるといい」
***
王太子アルバートが路地裏で出会った姉弟は、王弟ストークナー公爵の預かりとなった。
ジョンは渋ったが、弟の将来をずっと憂いていた姉の「自分はどんなことでもするから、どうか弟だけは真っ当な生活をさせてあげたい」という訴えに、心を動かされた。
もっとも「海軍に入隊するか?」というチェレグド公爵の誘いは、断固として断られた。余程、”エリック艦長”が恐ろしかったらしい。代わりに船を造る仕事に就きそうだ。ストークナー公爵がいた三角州は造船所が集まっている区画だったからだ。
ストークナー公爵は弟の想いの姉にも、勿論、情をかけた。
「君も立派な大人になるんだよ」
同じく造船所を経営する家の小間使いとして働くことになった。
「良かったですね! 私も攫われた甲斐があったというものですわ!」
自分と同じくらいの年の女の子が、きちんとした後見の下でちゃんとした働き先を見つけたことに、ノラは素直に喜んだ。
『夕凪邸』爆破炎上事件の時と同じように、怖い目にあったというのに、彼女は前向きで明るかった。ミリアムにして『絹の肩掛けなんかよりも、はるかにずっと価値のある少女』なのである。
「ごめんね……」
しかし、アンジェリカはそこまで楽観的な気分にはなれなかった。
「アンジェリカさまったら!
お聞きになったように、私を攫われたのはアンジェリカさまのせいではございません。
むしろ、アンジェリカさまを誘拐しようとしていた人たちがいたからこそ、逃げる隙が出来たんですよ」
「逆にお礼を言わないといけないくらいですわ」とノラは屈託なく笑った。
「それでも……私、あなたにすごく悪いことをしたわ」
「ああ……私も詫びたい」
ノラが誘拐された時、アンジェリカが無事だったことを喜んだトイ家の兄妹は決まりが悪かった。なんとかして報いたい。そうでなければ自分たちの気が納まらなかった。
自分勝手な考え方だが、ノラにとっても悪い話ではないはずだ。
彼女の行動は機転が利いていたし、明朗快活で働き者だ。もっと良い生活を送れる可能性があってもいい。
「君を然るべき待遇で、当家に引き取りたい。
娘として、アンジェリカの妹として」
「まぁ、困ります!」
「どうして!?」
躊躇なく断りを入れたノラに、アンジェリカが縋りついた。「私のことが嫌いだから?」
「違います!
でも……そこまでして頂くようなことは……何かしましたっけ?」
トイ兄妹の破格の申し出に、ノラの方が申し訳無い気持ちになった。
「した! したわよ! ねぇ、お兄さま」
「あ……ああ……」
「でもぉ……私にお嬢さまなんて無理ですし。どこかに嫁がされるのも嫌です。
あ、アンジェリカさま……すみません」
いずれそうなる運命を呪っているアンジェリカの前で、酷な理由だった。アンジェリカは怒ると思いきや、いやに達観した顔で微笑んだ。
「ううん……私はもう、諦めたわ。どことなりともお嫁に行こうと思っているの」
「おい、待て! その話は、もう一度、私が父に話してみよう。だから早まるなよ」
トイ軍曹の方が狼狽を隠せない様子で言った。アンジェリカはその真意をまだちゃんと把握出来ないものの、トイ軍曹が「待て」と言うのならば、そうしようと頷いた。
ノラの対応に関しては、ゴールドンが助け舟を出した。
「では、どうでしょうか。
トイ商会から年金を出すというのは」
「年金か」
それはいいとばかりに、トイ軍曹はノラに提案した。
「毎年、決まった額のお金が君の手元にいくようにしよう」
ノラはどうすべきか迷い、チェレグド公爵の顔色を伺った。彼女の現在の雇い主の大元は公爵だからだ。
下手なことを言って”エリック艦長”に叱り飛ばされたら泣いてしまうだろうということも頭にあった。
路地裏のジョンの拒絶と、今のノラの不安を感じ取って、チェレグド公爵は不用意に感情を露わにした代償が小さくなかったを悟った。
『すげぇ、びびられてる……』
そこで出来るだけ温和な表情と声を心掛けた。
「トイ商会が詫びとして用意してくれるのだ、受け取りなさい。
いずれ結婚するにしても、そうでなくても、財産はあって悪いものではない。
ただし、お金を手にしたからといって、仕事を怠けたり、奢ったりするようなことがあってはいけないよ。
それならば、トイ商会に引き取ってもらった方がよい」
物言いは優しくても、内容はやはり厳しくなってしまった。
これはまた怯えられると思いきや、ノラはここでもあっけらかんと返事した。
「はい。肥溜めに落ちないように気を付けます」
「肥溜め?」
怪訝そうな顔のチェレグド公爵に、ノラは自分が話を端折りすぎたと詫びた。
「おばあさん……祖母がいつも言っていました。
人間は思いもかけない幸運に見舞われると、ついつい調子に乗って下を見ないで歩いてしまうんだって。
下を見ないで歩いていると、肥溜めに落ちちゃうんだから、そういう時こそ、よくよく気を引き締めて歩きなさいって。
つまりそういうことですよね? 」
「そういうことだな」
船乗りには船乗りの喩えが、農家には農家の喩え方があるようだ。
チェレグド公爵は若く少々おしゃべりな女の子ではあるが、ノラがしっかりとした考え方をしていることを評価しない訳にはいかなかった。
「あらまぁ! 私なら、すごく良いことがあったら、肥溜に落ちても笑っちゃいそうだけどね」
一方、ミリアムはもう少し地に足が着いていた方がいいかもしれない。
だが、この場において、彼女の発言は温かい笑いを誘い、場を和ませるのに大いに役立ったのも確かであった。




