070:竹屋の火事
「何を考えている!
自分のケツも拭けないひよっ子が、他人のケツを拭けると思ってやがるのか!!」
トイ商会に怒号が響き渡った。
そこにはチェレグド公爵ではなく、水兵たちに恐れられた”エリック艦長”の姿があった。
マリーナを抱きしめようとしたミリアムは手を引っ込め、アンジェリカとノラは恐ろしさに互いに抱きしめ合い、隅でお菓子を食べていた路地裏で会った姉弟は驚き、姉は菓子を取り落とし、弟はあやうく喉に詰まらせかけた。
ストークナー公爵は表情を変えず、トイ軍曹は引きつり笑いをした。画家のアランは喉の奥で笑いをこらえ、トイ商会の従業員は恐縮して身を縮こめた。
「それは私に向かって発言しているのか?」
周りを見て、どうやらチェレグド公爵が自分に向かって怒鳴っていると判断したアルバートが問うた。
彼はチェレグド公爵が二人を心配するあまり怒っているのだと分かっていたが、罵倒の意味が理解出来ない。
「ケツとはなんだ?」
路地裏のジョンが「尻のことだよ、綺麗な顔の兄ちゃん」と口を挟んだ後、亀のように首を竦めた。チェレグド公爵が忌々しそうに、かつ、盛大に舌打ちをしたからだ。つい地が出てしまった。
「お耳汚しをいたしました。
つまりは人は己の能力と立場に見合った行動を取るべきであって、それが出来ない人間は他人を助けることなど不可能なことをお知り下さい」
『くそっ! 丁寧に言い直した方が、より失礼に聞こえるじゃねぇか!』
チェレグド公爵は、アルバートがついに怒り狂うだろうことを予感したものの、そうはならなかった。
「なるほど。確かに私は愚かなようだ。
そしてノラは賢い娘だ。
無事で良かったよ。お帰りなさい」
「あ……あの、ご心配お掛けしました……」
アンジェリカに抱きしめられながら、ノラは言った。
「ちったぁ、反省して下さいませんかねぇ!」
アルバートの態度は、愁傷であったが、それがチェレグド公爵には危機感がなく思われ、自分の諫言が真面目に受け取られていない気がした。
トイ軍曹はチェレグド公爵の意見には概ね同意であるが、それでも臣下として無礼討ちした方がいいのか迷いながら剣に手を掛ける。もっとも、王太子も、その叔父も、エンブレア王国の王族が貶められたとは思っていない様子だ。ストークナー公爵は真剣な顔をして甥を見つめている。
逆にマリーナが憤慨した。
「それはあんまりな言いようです!」
「何ぃ?」
「殿下はノラに危険が迫っていることを知って、助けようとしたんです!」
「それが無謀なんだよ! 自分が誰か忘れてる時点で大問題だ!
この国の王太子だぞ! 何かあったらどうすんだ!
しかも――しかも、お前を連れまわして!!」
「チェレグド公爵、落ち着いて下さい。
自分が誰か忘れているのはあなたです」
剣に手を掛けたまま、トイ軍曹は窘めた。
さすがにこれ以上はまずい。彼は自分の家も剣も、公爵の血で汚したくはなかった。
路地裏の姉弟は自分たちが会った文無し青年が王太子とかいう存在だと知って、目を白黒し始めた。
お遣いを済ませ、礼金をもらったので帰ろうとしたら、商会の人間に捕まり、風呂に入れさせられ、綺麗な服を着せられ、おやつまで与えられたのは罠だったのだ。ここは魔女のお菓子の家に違いない。弟のジョンは震えて泣きそうになった。なんとしても姉は守らないと。
もっとも姉は、美しい青年が本物の王子さまと知って、最高潮に心がときめいていた。
「殿下は――私をちゃんと守って下さいました!
公爵閣下が思うほど、殿下は見た目ほどヘタレじゃありません!」
チェレグド公爵に引きずられ、マリーナは幼い頃、『夕凪邸』の庭で聞き知った言葉遣いが出てきてしまった。
「ヘタレってなんだろう……」
アルバートはマリーナが敢然とチェレグド公爵に立ち向かってくれたことに感激しつつも、彼女まで自分が知らない言葉を使ったことに戸惑った。世の中には知らないことが多すぎる。出来ればマリーナとは共通の認識をもって意思疎通したい。
「ヘタレって何?」
路地裏のジョンを見ると、歯をガタガタさせている。代わりにストークナー公爵が注釈をつけた。
「情けない男という意味だよ。
良かったねぇ。ヘタレじゃないって」
マリーナの訴えと、ストークナー公爵の穏やかさにチェレグド公爵の怒りもようやく冷静になった。
「殿下、再三、失礼をいたしております」
「いいや……ありがとう」
「……はぁ?」
「そこまで真剣に私のことを考えてくれているとは思わなかった。
私を本気で叱ってくれて嬉しく思う」
アンジェリカがトイ軍曹に視線をやった。それから口元に浮かんだ笑みを誰にも見られないように俯く。
王太子と筆頭公爵の間では、未だ深刻な会話が交わされている。一人、浮かれた表情は相応しくないと思ったのだ。
「殿下の為だけではありません。
海軍の艦長時代、我が命令によって部下の多くの命を犠牲にしました。私自身がみすみす見殺しにした命も、無駄死にさせてしまった命もあります。
それ、全て、この国を守ると言う大義名分の元にです。
今ここで、エンブレア王国に何事かあれば、彼らが報われません。
私の首、我が家名、家族、使用人たちを犠牲にしても、ここは分かって頂かなくてはいけないのです」
その時のことを思いだし、チェレグド公爵は沈痛な面持ちになった。若々しく明るい公爵の顔に、老いの影が過る。
「そうだな。そうかもしれない。だが、それでは一体、私は何を守るのだ?
国とはなんだ? チェレグド公の言を借りれば、船長しかいない船など、守る意味があるのか?
乗員がいてこその、船ではないのか?」
「殿下のおっしゃる通りです。それもまた真。
そして私の言うことも、また、真なのです。
――チェレグド公爵家が無くなっても、この国は滅びませんよ」
チェレグド公爵は、今はもう剣から手を離してしまったトイ軍曹を誘うように首に手をやった。
「いけない。
そなたは私のため……エンブレア王国のために、その能力を使ってもらう。
能力があるものが、それに見合った仕事を出来るのが、真っ当な国だと聞いた」
素直なアルバートが聞いたばかりのストークナー公爵の自論を、自分なりに解釈して使った。それを聞いたストークナー公爵は何か考えこむように、床に視線を落とす。
「それに――」
「それに?」
アルバートは不敵な笑みを浮かべた。
「マリーナ・キール嬢の後見人が謀反人では困るのだ」
「――さいですか……いえ、左様でございますか」
チェレグド公爵も笑いを浮かべたた。やっぱりこの王太子はお仕えし甲斐がある。それに何よりも、以前よりも親しみが湧いてくるではないか。
「殿下の良い所は、諫言をきちんと聞いて下さるところですね」
改まってそう述べたチェレグド公爵の耳に、「そうだろうか」と懐疑的な言葉が聞こえてきた。ストークナー公爵だった。
「……と、申しますと」
意外にもストークナー公爵の厳しい物言いに、チェレグド公爵が聞き返す。
「兄もそうだったよ」
ストークナー公爵が言った。「兄も昔はそうだった」
王弟の兄。すなわち現国王のことだ。
「兄も昔はチェレグド公爵の言うことをよく聞いていた。英邁ではなかったが、真面目な王だった」
この場合、チェレグド公爵は先々代を指す。
「けれどもチェレグド公爵はあまりに王を束縛した。王はあまりにも公爵を頼りにしすぎた。
チェレグド公爵の意見は正しいものもあれば、間違いもあった。王は全てを鵜呑みにし、決断を下した。
それが間違いだったり、失政だったと知った時、王はチェレグド公爵を恨んだ」
「それは……そうでしょうとも」
現チェレグド公爵は自分の叱責に自信がなくなった。アルバートは立派に成長した大人だ。自分の身どころか、マリーナの身も守った。『ちゃんと自分のケツは拭けてたなぁ』
だがストークナー公爵が言いたいのはそういうことではなかった。
「それはいけない。臣下の意見は大事だ。それを聞くことも大事だ。
だが最終的に決断し、それに責任を負うのは王なのだ。
アルバート……人の言うことをよく聞くことは良いことだが、決してそれを頼みにしてはならない。
お前は誰かのせいには出来ない身分なのだ。決断、行動、全てが自分が担う責任となる。
チェレグド公爵の言った通り、生きている人間だけでなく、死んでいった者たち、今から生まれてくる命にまで、その責任は渡る。
その重荷を――本当に背負えると思うか? 最後まで弛まず進めるか?」
思わぬ叔父の問いかけに、アルバートは固まった。固まって深く深く考えた。
こうなってしまうともう、誰もアルバートの邪魔が出来なくなってしまう。
トイ商会の居間に沈黙が落ちた。誰もが息をひそめ、王太子を見守った……見守った方がいいものの、一向に動く気配が無い。
このまま三日、下手をすれば一週間、考え続ける恐れすらあった。それで出る結果はと言えば、ある意味、どちらも正解ではないのだ。
「アルバート、戻ってきなさい」
ストークナー公爵はアルバートの思考を止めた。
「ですが、まだ答えが出ません」
突然、思考を中断されるのが苦手なアルバートはあまり嬉しそうではない。
「これは答えを出す問題ではないからね。それでいいのだ。
常に心に問い掛けて欲しい。それが、この問いの本当の意味なのだよ。答えはあるようでないのだ。
アルバートが先ほど、チェレグド公爵に問いかけた質問もそうだ。
それも真。これも真。それを適時、選ぶのが、お前の役割という訳だ」
「そういうものなのですか――」
「そうだよ。
それにアルバートが考えている間、ずっと固まっていられては、周りのものの迷惑なのだ。
ねぇ? チェレグド公爵?」
散々、王太子に暴言を吐いたチェレグド公爵は、許されたといっても、しばらくの間は大人しくしていたい気分だった。ストークナー公爵の問いかけに、曖昧に笑った。が、アルバートはその態度こそ、許さなかった。
「そうなのか? 迷惑だったのだろうか?」
「……いや……まぁ――」
『あーあ、もうどうとでもなれ!』
チェレグド公爵はこの際なので、言っておくことにした。アルバートが長考している間、手持無沙汰であり、思考の経路が見えないで結論だけ言われるのは戸惑うこと。それから「判断には瞬発力と即決力も大事なのです。殿下はいささか慎重すぎます」とも。
「しかし、物事はよく考えないと正しく判断できないだろう?」
「それは分かりますが、今まさに嵐が来て船が海に呑まれよう言う時に、完全に正しい決断を待っていては、船が沈んでしまいます。
いくら船内の秩序を保っても、沈んでしまったら全てが無に帰すんですよ。
自分の思い通りにならないのならば、船ごと沈んでもいいと思うのならばともかく。もっとも、そんな船長の船に乗せられる我々はたまったものじゃありません。
物によっては、取りあえず、やり過ごすことも覚えて下さい。
それから――」
「まだあるのか!?」
アルバートの脳内には様々な課題が山積みになり、それこそ溺れそうになった。これ以上は、許容量を超えてしまいそうだ。
だが、チェレグド公爵は、いっそ溢れ出てしまえとばかりに、彼の堤防に穴を開けた。
「不機嫌な時は、少しくらいなら出しても構いませんよ。我慢していると身体に悪いですから」
「それは――なんとなく分かる」
我慢した結果、頂上の噴火口ではなく、山の横腹から噴火してしまう。その予期せぬ怒りの矛先は、本来でない相手に向かってしまうのだ。
それでマリーナに鬱憤をぶちまけて、彼女を傷つけ、王宮を下がってしまう結果となった。
アルバートはマリーナを見る。すると、不意に、マリーナのお腹が空腹を訴えるように鳴った。それにつられるように、アルバートの胃も同じ音を出す。
マリーナは乙女らしい恥じらいに襲われたが、王太子はもっと恥ずかしい気持ちになった。お金を持っていなかったせいで、マリーナに何か食べさせることも出来なかったからだ。
「何か出しましょう。
それに殿下、外套はどうしたんですか? 風邪を引きますよ」
トイ軍曹が使用人に食事を用意するように命令すると、ストークナー公爵が「私が買ってきた鰻があるよ」と口添えした。
「外套の話は長くなる。
ともあれ、次の機会では、私にお金を持たせてもらえないか?
必要ならば、働こう」
「……殿下は十二分に、働いておられます」
「ならば多少は持たせてくれればいいのに」
マリーナの前で無一文だったことがアルバートには堪えていた。だが、それは言わない方が良かった。
「前回の街歩きの時、殿下が一人の浮浪児に情けを掛けてお金を与えたせいで、我も我もと子どもたちが集まって来て、大変な騒ぎになったからです。
私がお金を預かり、必要な時にお出ししようと思っておりました。
まさかお一人で……我々抜きで勝手に出歩かれるなんて想定していませんでした」
そこまで言って、トイ軍曹は探るように王太子を見た。
マリーナが王宮に戻ることになり機嫌は良さそうだ。多少の厳しい言葉も受け入れる度量はある。トイ商会は王家に金を貸している強みもある。
「次回と申しておりましたが、次回はありません。少なくとも私を巻き込まないで下さい。
殿下のお共をしていたら、命がいくつあっても足りませんよ」




