007:犬馬の心
馬に乗って追って来られたら厄介だな、とマリーナは道を逸れた。藪や狭い木立の間では、馬は乗り入れられないだろう。
小さい頃から慣れ親しんだ『東の森』は地の利があって、上手く男を撒けそうだ。
去り際、「あなたは本物のアシフォード伯爵じゃない!」と言い捨てて来た。男が「なぜそう思うんだ!」と叫んだが、教えてやるほどマリーナは親切ではなかった。
「自分で考えたら!?」
そうは言ったが、正解が分かっても、一日二日でアシフォード伯爵にはなりきれないだろう。本物のアシフォード伯爵は、”高貴なるものの義務”に従い、十二歳の歳から士官候補生として艦に乗っているのだから。
マリーナが、がさがさと下草をかき分けて行くと、不意に、何かの気配を感じた。初めは鹿かと思った。それで銃を背中から降ろす。しかし、どうも違う。何人もの人……そう人だ。人の気配に思えてきた。
突然、『東の森』が見知らぬ場所のように見えてきた。太陽が陰り、木がざわめく。
「なんなの、今日は?」
がさり、と大きく茂みが揺れ、人が出て来たので、思わずまだ装填もしていない銃を構えてしまった。
「うわぁあ! ちょっと、待って!」
「――!?
マイケル!? マイケル・コーナー!?」
「マリーナさま!」
二人は顔を見合わせ、笑った。
人影は、マリーナの幼馴染でもある大農家コーナー家の長子・マイケルであった。いかにも健康で健全といったマイケルの顔に、マリーナは先ほどの淫靡な空気から解放された気持ちだ。
「ああ、驚いた」
「こっちでもすよ。どうしたんですか? いきなり銃を向けてくるなんて」
「それが……」
人の気配がする、と言うと、マイケルは鼻をくんくんと動かした。
「臭いで分かるの?」
「いいえ。
今、アシフォード伯爵の一行がご滞在していますからね、その関係で、いろんな人が森に立ち入っているのかもしれませんよ。
そういう僕も、伯爵が望まれた場合に備えて、狩りの下調べに来たんです」
そっとマイケルは自分の腰につけていた何かの葉っぱが入った籠を後ろの方に回した。
「銃も持たずに?」
「下調べですから。
マリーナさまは? いつもの水汲みですか?」
「ええ。そう、でも今日は駄目だったわ」
なんとはなしに二人は森の出口へと向かって歩いていた。銃は危ないから、とマイケルが持つ。
マリーナは振り返ったが、自称・アシフォード伯爵も、怪しい人影もいなくなっていた。気のせいだったかもしれない。
「森の中で変な男に会ったわ。マイケルは会わなかった? 気を付けた方がいいわ」
強盗や殺人鬼のような直接的に物騒な男ではない。どちらかと言えば、結婚詐欺師だ。さすがに本当に淫魔ではなかろう。
マイケルは安全かもしれないが、結婚ではなく、金銭的な詐欺を働くかもしれない。コーナー家は平民だが、下手な貴族よりも資産を持っている名士の家柄なのだ。
本物のアシフォード伯爵が来ているのに大胆な話だが、本物が近くにいるからこそ、騙される可能性が高まるということもあるだろう。
「アシフォード伯爵を名乗る男ですって? それは怪しい。変というか怪しい人ですよ、それ」
「見れば分かるけど、怪しいって感じはしないの。だから変なのよ」
結婚詐欺師としては合格点以上の美しさと色気があるが、それにしては芝居にしたって、浮世離れ度が酷かった。あれでは騙されたくても騙されない。しかし、それを上手くは説明出来ないのだ。
森の出口まで来ると、マリーナたちの姿を認めたキール男爵家唯一の男手・パーシー・ブラッドが慌てて駆け寄ってきた。
「マリーナさま!」
「パーシー! どうしたの?」
マリーナはパーシーの日に焼けた頑強な肉体をを見て、マイケルを見た時以上に落ち着いた気分になった。あの淫魔には色気があったが、マリーナの好むそれではなかった。彼女はああいう生白い男は趣味ではないようだ。
パーシーもマリーナを一瞥すると、ほっとしたような顔をし、それから「ウォーナー艦長が戻られますよ」と伝えてきた。
「ジョアン兄さまが! マイケル、私、もう行くわ! ありがとう!」
「またこんな危ないものを持ち出して」
マイケルから銃を受け取ろうとすると、パーシーが奪った。彼は少年時代をキール艦長の指揮する艦で過ごし、艦長に付き従って、艦を降りた。それ以降、慣れない陸での生活を送りつつ、マリーナを見守る役目を任された。それはキール艦長がパーシーに与えた最後の命令だった。パーシーの忠誠心はキール艦長亡き後も失われることはなく、マリーナの為に、どんな犠牲も惜しまなかった。
キール男爵家が手元不如意になり給金が払えなくなると、自ら率先して「下宿人にして欲しい」と願い出た。彼は『夕凪邸』に住み、そこからコーナー家の農地に通い、農作業を手伝っては日銭を稼ぎ、それを下宿代と称してマリーナに渡した。仕事の合間には『夕凪邸』で屋敷の補修や薪割りなど、男手の必要な作業を行った。
申し訳なく思ったマリーナが、ジョアンに言って艦に戻してもらおうとしたが、パーシーはそれを断った。「私の任務はマリーナさまを守ることです」
その忠誠心は誠にあっぱれではあるが、マリーナには口うるさい存在でもあった。森で変な人に遭遇したと聞いたら、どれだけ心配し、彼女の行動についての説教が始まるだろうか。
「しばらくは水汲みは控えて下さい」
何も言わない内から、パーシーがそう言ったので、マリーナは驚いた。
「なぜ?」
「アシフォード伯爵の滞在に伴い、不特定多数の男たちがうろついています。伯爵の従者であろうと、近隣の村々から集められたものや、どこからか紛れ込んだものもいることでしょう。
そんな中、人気の少ない森の中を不用意に動き回って、何かあったら大変です。
それに、そんな姿では、鹿と間違えられて、追われて撃たれてしまうかもしれません」
ベージュのズボンを履き、生成りのシャツの上に、茶色のベストを着ている男爵令嬢を見て、パーシーはやれやれと苦笑した。
「今日からは、赤やピンクのドレスを着て下さい。そうすれば、鹿とは間違われません。
それから銃の代わりに扇子を持つんですよ」
「私、赤やピンクは似合わないの。
そういう色はマリー姉さまが良く似合うわ。髪の色は同じだけど、目の色とか肌の透明感とか、雰囲気が違うのよ。
折角、ジョアン兄さまが戻られるのだから、マリー姉さまが元気でいられるように、あの水は必要なの」
ローズマリーよりも、マリーナの方がずっと大事な男は、その訴えに、にべもなかった。
「いけません」
「僕が汲みに行きましょうか?」
二人の押し問答に、マイケルが手を挙げた。
「マイケル! いいえ、そんな悪いわ」
「水を汲んでくるだけでしょう? 構いませんよ。ローズマリーさまに必要なのでしょう?」
「それはありがたい。マイケルさま、お願いできますか?」
マリーナ第一のパーシーは、今の雇い主とも言えるコーナー家の長子にも遠慮がなかった。おまけに、「荷車の修理は済んだので、本日はこれにてお暇させてもらいます」と仕事まで放ってしまった。
「パーシー、それは良くないわ。
自分の仕事は最後まで、責任を持って全うしないと」
それはキール艦長の言葉でもあった。パーシーもそれならば聞くはず……と思いきや、まったく効果がない。
「私の役目は、マリーナさまをお守りすることですから。それが何よりも優先されるのです。
コーナー氏もそれは承知しています。そうですよね、マイケルさま」
「はい。父はパーシーの好きにさせろと。父はキール艦長を尊敬しています。キール艦長に忠実なパーシーにも感じ入っているのです。
本当なら、コーナー家もマリーナさまに出来るだけの援助をしたいと思っているのですが……ええ、マリーナさま、それがあなたの望みではないことは重々、承知していますよ。
だからこそ、パーシーを通じて、応援しているのです」
結局、「パーシーはうちで雇っているので、どういう勤務形態だろうが、マリーナさまには関係の無いことです」ということになった。
マリーナはそれこそ、鹿のようにパーシーに『夕凪邸』に追い立てられた。