067:水清ければ魚棲まず
叩かれた女はアルバートには理解出来ない言葉を吐いて逃げて行った。
叩いた女は、またもや自分の大事なものを狙う輩が現れたのだと、視線の先を睨み付けた。
「これは私のだ! この泥棒ども――」
振り上げた拳が力なく下ろされた。アルバートの姿を認めたのだ。
肩掛けだった頃と比べれば残骸と言っていい有様の”花麗国”の極上の絹が揺れた。
「なんだい……私に何か用かい?」
そう言いながらアルバートに擦り寄ってくる。
そこでマリーナが手に持っている絹の切れ端について聞こうとすると、怒鳴られた。「あんたなんかに聞いちゃいないよ!」
女はマリーナを胡散臭く見る側の人間だった。美しい青年にまとわりつく蠅のような邪魔者にしか見えない。
「その手に持っているものを見せて下さいませんか?」
顔立ちが良いだけでなく、丁寧な物腰のアルバートの質問に、女は待ってましたとばかりに自慢気に話し始めた。
「これはよぉ、貰ったんだ。
天使みたいに可愛い女の子がくれたんだ。
盗んでなんかいないよ。貰ったんだ」
ノラの特徴を尋ねると女はそうだと頷いた。「そんな子だった」
どちらに言ったか教えて欲しいと頼んだが、それは断られた。
「誰にも言わないで欲しいって。その礼に貰ったんだ。
もっとも――物によっては考えるよ」
女が意味深にポケットの中に手を入れると、中で金属の音がした。すでに幾ばくかの硬貨を貰い、ノラとの約束を破ったようだ。
急がないと、誘拐犯に追いつかれ、今度こそ始末されてしまう。
アルバートとマリーナのポケットには硬貨どころか、道しるべにする”パン屑”すらない。
無言の二人に、女は苛立った。
「知りたくないのかい?」
「生憎、持ち合わせがないのです」
アルバートが正直に申告してしまった。先ほどの男の子のように見下されるかと思いきや、女は少し考えると、アルバートの腕にすがった。すえた臭いが鼻についた。
「いいよ。あんたみたいに様子のいい男になら、教えてあげても。
なんなら遊んで行かないか? お代はいらないからさ」
そういう生業の女であることは、見る人が見たら一目瞭然であったが、アルバートはその申し出に意表を突かれた。
「そのような事をしているのですか?」
もしも、そこに侮蔑や軽蔑、嘲りや蔑みがほんの少しでも含まれていたら、女は悲しい気持ちにならなかっただろう。そんなのは当たり前の反応で、彼女は慣れきってしまっていたからだ。男はそう言いながらも、結局は彼女を金で買う。
なのにアルバートは心底、驚いた様子で尋ねたのだ。
自分はそんな風には見えないと言うのだろか。そんな訳はない。自分は汚れた女なのだ。
それが無性に悔しく、惨めに気持ちにさせた。
女はアルバートから飛びのいた。
「馬鹿にしやがって! じゃあ、どうすればいいんだよ! 生きていく為には仕方がないじゃないか!
それとも、私みたいな阿婆擦れは、とっとと野垂れ死にしろって言うのか!」
顔を真っ赤にしながら憤る女に、アルバートは固まってしまった。路地裏で真面目に自分が出来ることを考えはじめてしまったのだ。
そうと知ったマリーナが強引にアルバートの背を押した。
「急ぐので! ごめんなさい!」
それがまた女の怒りに火を注ぐ。彼女から見たら、マリーナはなんて幸せそうな子どもなのだろうか。
マリーナが殴られそうになったので、アルバートもさすがに覚醒し、女をかるくいなしてその場を急いで立ち去った。
***
「どこに行きましょう?」
「――うん」
またもや固まりかけているアルバートをマリーナは持て余す。
ノラは逃げている。追いかけたいのに、これでは一向に進まない。
「お願いですから動いて下さい。
歩きながら考え事、出来ませんか?」
王太子の考え中に邪魔をする人間など、これまでいなかった。それはアルバートが珍しくはっきりと嫌う行為だったからだ。
「今はノラを探さないと!」
この国の福祉厚生とか女性の権利とか、考えることは多く、大事なことではあるが、ノラの無事も重要な案件だ。
「歩きながら?」
いつも座って考え事をするアルバートは驚いて、思わず固まってから、それに気づいた。怒ったようなマリーナに、自分はそうではないと微笑む。
「やってみるよ」
「ではどこに行くか決めないと。
ノラは私たちに手掛かりを残してくれていると思います」
それがあの肩掛けの残骸だ。あれは綺麗に引き裂かれていた。大きな肩掛けだったから、きっと何枚もの人を魅了する絹の切れ端になっただろう。
「”光る石”だね。それとも”パン屑”かな?」
誘拐犯たちも追っていけるし、貰った人間が隠してしまうことを考えれば、小鳥に啄まれる”パン屑”かもしれない。
「それでも、まったく無いよりは役に立ちます」
「そうだね」
「どちらに?」
歩きながら考えて下さいと言ったものの、アルバートが一つの方向に進みだしたので、マリーナは止めようとした。
「こっちだと思う」
「根拠は? あ、あるのですか?」
「あの女の人がノラの話をした時、こっちの方を一瞬、見た」
「そ……そうですか」
マリーナにはアルバートを誘惑しようと流し目を送ったように見えていた。
「信用出来ない?」
「どちらにしても、どこかに向かっていかなければなりません」
「それって信用してないってことだよね」
「そういう訳ではありません」
「そう?」「そうですよ」とやや言い争いになりながら、二人が歩いていくと、またもや絹の布きれを持った人物に行きあたった。
してやったりと、アルバートがマリーナに得意そうに片目を瞑って見せる。
ふいっとマリーナが横を向いたのでアルバートは慌てた。
「怒った?」
「いいえ! とんでもない!」
「……私に怒っても構わないよ。それにほら、やっぱり怒っている」
マリーナの顔は真っ赤になっていた。
「と、とにかく、話を――あの人に、話を聞きましょう」
絹の切れ端を持っていたのは男だった。どこかの貴族の家の使用人で、手に入れた絹でリボンを作り、恋人にあげようと思っているらしい。
彼は親身に話を聞いてくれた。
女の子は困っていたように見えたし、その後、風体が怪しい男たちが追いかけてきた。何か恐ろしい目に合っているのだ。
アルバートの魅力は、ここでも作用した。貴族を知る男にとって、彼は見るからに”上品で信用のおける人間”に見えたからだ。
「あの橋を渡って行ったよ」
「橋?」
見れば確かに橋があった。
エンブレア王国の王都の中心を貫くように流れている川に掛かる橋の一つである。
海に繋がるその川を使い、王都は商業も発展していた。川を伝えばトイ商会に戻れる可能性も出てきた。
男に礼を言い、橋に向かう。
「どうりで海の匂いがすると思っていました」
「海の匂い?」
ここではマリーナの感じる船乗りっぽさではなく、純粋に、海からの風の匂いを指していた。
そうかな? と確かめようとしたアルバートは、王都の路地裏の淀んだ空気を胸いっぱいに吸い込む羽目になった。
思わず手で、口と鼻を抑えてしまう。ずっと気になっていたが、衛生状態もかなり悪い。王宮の妙なる香りになれた身には辛い悪臭なことは、誰の鼻にも明らかなことだったが、王太子は恥ずかしくなった。
もっとも、固まりそうになりながらもアルバートの足は止まらなかった。
「あの橋の向こうにノラがいるね」
「はい!」
一人、脳内反省会と改革案を練っているアルバートとは違い、マリーナは単純に喜んだ。
あの男の人がノラの行方を誘拐犯に黙っていてくれたのならば、橋の向こうは安全だ。きっと、無事なノラに再会出来る。
けれども王都の仕組みがそれを許さなかった。
二人は橋の袂で足止めをくった。橋を渡るにはお金が必要だというのだ。
ここでも無一文では何も出来ない。




