065:どんぐりの背比べ
下町経験半日の王太子と、田舎から出てきたばかりの公爵の姪。
どちらに分があるかと言えば、どちらとも言えない。
そんな頼りない二人が下町で攫われた少女を探そうなど、どだい無理な話である。
それどころか、自分たちがいる場所すら見失ってしまった。
どこからか、子どもたちの歌が聞こえてくる。
『王妃がさらったトーマスは、妖精の国、貝殻の船、今頃、海で大冒険〜』
その頃には生まれていなかっただろう子どもたちの間でも、すっかりと馴染みになってしまった戯れ歌だ。
ほの暗い路地裏の排水路には塵が貯まり、汚水が溢れ出し、足元を濡らす。
アルバートは近くにいた男の子に声を掛けた。
「君、ここはどこ?」
男の子はずる賢そうに笑った。
「いくらくれるんだい?」
「お金が必要なのか?」
「当たり前だろう」
マリーナはアルバートがお金を持っていると思っていた。それくらいの用意はしていて当然だ。けれども、アルバートの困った顔を見ると、もしかするとそうではないのかもしれない。
一応、自身の外套の内ポケットを探ってみたアルバートだったが、中には何も入っていない。マリーナも探してみたが、埃も出なかった。
金が出ないと知ると、男の子の態度はあからさまに悪くなった。
用は無いとばかりに駆けて行こうとする男の子を、アルバートは止めた。
「なんだよ」
「お遣いを頼まれてくれないかな?」
「一文無しの癖に!?」
男の子は、常識知らずの馬鹿な大人だと言わんばかりだ。
「お金ならお遣い先の人が払うよ」
小さいのに金の亡者のような子どもに、アルバートは自身の不甲斐なさを感じながら、それでも、自分の要求を通そうとした。
「そんなの信用出来るか! 先払いにしろよ」
「そんなの、信用出来ないよ」
アルバートは意図して、男の子の言葉を重ねた。
「なんだって!」
「君がそのお金を持って逃げてしまわないとも限らないだろう?」
「そんなのしねぇよ!」と男の子は顔を真っ赤にして叫んだ。
どうやら、図星のようだ。
それなのに、アルバートは身を屈め、謝った。
「疑ってすまないね。
君の言う通り、手持ちがないのだ。
でもお遣い先にはある。トイ商会だ。分かるよね?」
無一文の大人だが、見た目は立派な大人に謝罪され、丁寧に接せられたことで男の子は悪い気分にならなかった。
素早く計算する。
男は立派な身なりをしている。良い所の坊ちゃんで、大方、女か賭博で金を巻き上げられ、金持ちの親戚に助けてもらおうとしているのだ。
ただ、トイ商会に行って、そんな男知りませんよ、とか、うちには関係のない話です、と言われてしまったら、無駄足だ。本当にトイ商会の縁者かもしれないが、縁を切りたい縁者なんて、山のようにいる。現に彼も、母親亡き後、姉と一緒に、酒乱の父親から逃げてきた身であった。
「ジョン! どうしたの!
――ちょっと、うちの弟になんの用よ!」
男の子の今や、ただ一人の肉親となった姉が、弟が悪い大人に絡まれていると思い、血相を変えて駆けつけてきた。
「ジョン? 君もジョンなの?」
「なんだよ。悪いかよ」
「この子もジョンなんだ」
少しでも親近感を持ってもらおうと、アルバートはマリーナをそう、紹介した。
が、男の子……ジョンは全く感銘を受けた様子はない。それもそうだった。「ジョンなんて名前の人間、そこら中に歩いているさ。そこの犬の名前だって、ジョンだぞ」
「あんたたち、なんなのよ!」
アルバートの代わりに、男の子が姉に説明する。弟の話を聞いた姉も胡散臭そうにアルバートを見る。そして、姉弟でほぼ同じような思考の手順を踏み、迷った。もしも、目の前の大人の言うことが本当で、提示されているお駄賃を貰えれば、一か月は食うに困らない。穴の開いた靴を新しく出来るかもしれない。
迷う姉弟に決定打となることがあった。アルバートがフードを取ったのだ。
顔を隠しているから信用してもらえないのだ。または、人に物を頼むのに被り物をしていては失礼かな? と思って起こした行動だったが、その結果、勿論、彼の見目麗しい顔が明らかになる。
少女はうっとりとその顔を見つめた。まるで王子さまみたいだ。
その通り、王子さまであるアルバートは、もう一度、丁寧にお願いした。
「お遣いを頼まれてはくれないか?」
男の子は姉の方に、助けを求めるように視線を向けた。
「――行ってもいいわよ……ね、ジョン?」
「え……いいの?」
「トイ商会でしょう。ひとっ走りすれば着くわ」
無駄足でも、帰り道にひとつ、馬車にでも当たればいい。トイ商会の前は羽振りの良い人間が集まっている。どうせいつもそちら側に行って”商売”しているのである。
「ありがとう」
アルバートはほっとしたように微笑み、礼を言う。
お腹は空いているし、靴には穴が開いているし、寝床は固い路上で、明日をも知らない身の上だが、少女はその笑顔だけで十分、報われた気分になった。
お駄賃がなくても、いいくらいだ。
「助かるよ。本当にありがとう」
「い……いえ。
もし騙していたら、許さないんだからね!」
それでも弟を養う為に、少女は精一杯、偉ぶった。
「分かっている。決して約束は違えないよ」
「わ……分かった……わよ!」
やや人間関係の距離感が近い王太子は、少女にぐいぐい近づいていた。今にも手を取って礼を言われそうだ。だが、少女はそうと感づいて、それを拒絶した。
「ああ、これは失礼」
アルバートは淑女に非礼を働いたかのようだ。
少女は本当はこの美しい青年に、手を握って欲しかった。しかし寸前で、自分の手が薄汚れていて、爪の先まで黒くなっていることを思い出したのだ。
とても残念な気分だが、同時に、容易に触れさせなかったことで、青年が自分を一目置いているような気がして誇らしかった。
誇らしい! それはこの惨めな生活を強いられてきた少女が、初めて自身に対して抱いた感情だった。そして、美しい金髪の青年に抱いた淡い気持ちも、そうだった。
『アルバートをここで見た』
伝えることはそれだけだった。その短い言葉を少女は忘れようとしても忘れないだろうが、トイ商会に着くまで、ずっと口の中で呟いた。
ああ、あの人はアルバートという名前なんだ。とても素敵な名前だ。もう一度、会えるかしら?
***
改めてアルバートの魅力を、まざまざと見せつけられたマリーナは、感心もし、呆れもした。
あの子はすっかりアルバートに誘惑されてしまった。彼ほどの美貌があれば、王太子という身分抜きでも、簡単に女性を籠絡してしまう。
マリーナは胸に掛けた王太子のボタンを、服の上から押さえた。
「大丈夫?」
王都の路地裏で怖い思いをさせているのではないかと、アルバートが案じた。
「へっ? 平気です」
胸を押さえているのは恐怖からではない。動悸からだった。
「ならいいのだけど。もう少し、表通りに出よう。
その方が安全だろう」
自身の継ぐべき王国の都の中が、全て安全な場所ではないと認めることに心苦しそうなアルバートだったが、幼いのに荒んだ生活を送る姉弟を見てしまった以上、現実を受け入れるしかなかった。
落ち込んだアルバートの姿に、マリーナの胸がまた違った高鳴りをした。
「大通りでもノラの行方を探せるかもしれません。
路地裏から来た人もいるでしょう」
無駄なことかもしれないが、何もせずにトイ軍曹の迎えを待つよりはいいだろう。
「そうだね」
「ありがとう」とアルバートはマリーナに礼を言い、彼女に指摘され、またフードを目深に被った。
王妃でなくとも、トイ軍曹でなくとも、彼を王宮から出したくない気持ちがよく分かる。
この王太子をそこら中、好きに歩かせたら”被害者”が無尽蔵に増えていくのだ。




