063:色は思案の外
アンジェリカは愚かではあったかもしれないが、自らのすべきことを知っていた。
とにかく、ノラが自分の代わりに何者かに攫われた。その場所、時間を詳しく訴え、すぐさま探索の手を要求した。
トイ軍曹が手早く正確に、一通りの指示を出すと、彼女は安心したように泣き出した。
「私のせいだわ!」
「それはどういう意味?」
憧れの”ジョン”が来ているのに、アンジェリカは気づいていない。もともと彼女の本当の目的は”ジョン”ではないので当たり前である。それになによりもノラのことが心配でそれどころではない。
「私のせいなの……」
トイ氏の専横とジャック・トイの鈍さに怒り狂ったアンジェリカは、ゴールドンからもたらされた”花麗国”の極上の絹の肩掛けを、勿論、喜ばなかった。
「こんなものいらない!」とばかりに付き返すが、ゴールドンは引き下がれなかった。なにしろ、高価な品物である。自分で持っていては主人にあらぬ疑いを掛けられる。
アルバートとトイ軍曹はその事情がよく分かった。一方で、アンジェリカの気持ちも無下には出来なかった。それを受け取れば、自分は金で懐柔される女だと思われるからだ。
けれども、その後の行動に、トイ軍曹はアンジェリカをこのままにしておいてはいけないとの強い気持ちを持った。それはこれまでの彼ならば見逃していたかもしれない。しかし、トイ軍曹はアンジェリカともっと正面を向いて対応しなければいけないと決意した。
「あんまりゴールドンがしつこいから、肩掛けを受け取って、ノラにあげたの」
心配して追ってきた友人に、アンジェリカは厄介な物を押し付けた。
「なぜそんなことを……」
トイ軍曹の激しい感情を押し殺したような苦しげな声に、アンジェリカの意気が消沈する。
「だって、ノラにだって肩掛けがあってもいいじゃない。
とても綺麗な肩掛けだった。欲しいのではないかと思って。ノラも、素敵な肩掛けじゃないですかって言ったもの!」
「でも、ノラは喜ばなかっただろう?」
「遠慮したのよ……だから、構わないからって……」
無理やりノラの肩に掛けた。ノラが慌ててアンジェリカに返そうとするので、さらに強引に巻き付け、そのまま走り去った。
護衛は”お嬢さん”に付き従い、ノラには注意が向かなかった。
ノラを置き去りにしたアンジェリカは、そろそろ良いだろうと振り返った。
すると、ノラの姿が忽然と消えていたのだ。それまでノラがいた場所には、彼女の靴が落ちていた。
驚いて駆け寄ると、馬車が一台、凄まじい勢いで走っていくのが見えた。その扉に、さきほどノラに押し付けた肩掛けの端が挟まっている。
「私……私、追いかけようと思ったの――」
だが、トイ商会の護衛はそれを許さなかった。彼らはお嬢さんを危険な場所から引き離した。
「ごめんなさい」
「アンジェリカ……どうして、ノラにそんな高価な肩掛けを押し付けたのだ」
ノラを攫った人間は、おそらく彼女をトイ商会の令嬢・アンジェリカだと見誤ったのだ。立派な肩掛けを羽織った少女は、その下の質素な衣服を隠した。もし、誘拐犯が靴か髪を見れば、何かおかしいと思っただろうが、いつもがっちり警護されているはずの令嬢が一人、佇んでいるのを見て、これはまたとない好機と判断し、確認を怠ったのだろう。
「だって、知らなかったんだもの!」
トイ軍曹にいつになく厳しく接せられ、アンジェリカは”いやいや”するように首を振った。
「お前の肩掛けは、ノラが一年、働いても買えないような品だ。
それを投げ与えるなんて」
「そんなこと、してないわ! ……ちょっと、掛けてみたいんじゃないかって……思っただけ」
稚拙な言い訳は、さらにトイ軍曹を怒らせた。
「手が届かない憧れの品は遠くにあるべきだ。徒に触れさせれ、甲斐の無い望みを与えてはいけない。
その手触りを知ってしまったら、もう諦められなくなるかもしれないだろう。彼女の慎ましい生活と夢が台無しになるかもしれなかったんだぞ。
おまけに、そのせいでお前に間違えられ、誘拐される羽目に……!」
アンジェリカはもう何も反論出来ずに、俯き、ただ一言、「ノラを助けて……お願い」と呟いた。
「トイ軍曹。その通り、今はノラを助けねば」
アルバートにとって、ノラは『暁城』から王都まで、共に旅した仲間であり、隣で顔面蒼白になっているマリーナの友人である。なんとしても助けなければ。
「分かっています。誘拐犯はすでに攫った少女がアンジェリカではないと気が付いたでしょう」
「そんな……!」
マリーナとミリアムが言葉を失う。それではノラはどうなってしまうのだろう。
「ですから、こちらが必死になって探します。
アンジェリカが誘拐されたのと同じくらいに。
そうすれば、相手も、ノラを重要視してくれるでしょう」
トイ商会の令嬢を狙って誘拐したのならば、行きずりの犯行とは考え難い。その身の安全と引き換えに金を要求するするのに使うはずである。トイ商会が令嬢ではなく、使用人であろうとも等しく金を払う姿勢を見せれば、人質を丁寧に扱ってくれる。今はそれを願うしかない。
「勿論、それよりも早く、身柄を保護出来るのが一番です」
アルバートは頷き、一歩前に出た。
「そうだな。私も手伝おう。もしかしたら金ではなく、別の要求があってのことかもしれない――私が頼んだことで、アンジェリカ嬢が狙われ、ノラ嬢が攫われることになったとしたら、申し訳ないどころの話ではない」
「私も!」
『夕凪邸』で長く働いてもらったナタリーの姪のノラの一大事である。マリーナも勇んで進み出る。
「あー……」
王太子と曰くつきらしい男装の令嬢の蛮勇にトイ軍曹はこれ以上、厄介事を増やされたらたまらないと思った。はっきり言って、邪魔である。
「お気持ちはありがたいですが、アルバートさまは”お家”に戻って下さい。
ジョン、お連れ申し上げるのだ。アルバートさまが無茶な真似をしないように」
「え……あっ、はい!」
自分はいいが、アルバートを危険な目に合わせてはいけないとマリーナはトイ軍曹の指示に従った。
「ちょっと待て!」
「アルバートさまはジョンと一緒に帰るのです。
ジョンが無茶な真似をしないように」
「え? ……あ、そうか……」
同じく、自分はともかく、マリーナを誘拐犯と対峙させる訳にはいかない。アルバートも納得させられた。
つまり、二人は互いに互いの身を気遣って、退くことになった。
「まぁ、”ジョン”。王宮に帰っちゃうの?」
あれよあれよとマリーナがアルバートの”お家”、即ち、王宮に行くことになり、ミリアムは呑気に言った。「だったら、私が伝えておくわね」
「よろしくお願いします」
そうか、そういうことになるのか。マリーナはその時になって気づいた。また王太子の小姓として王宮に上がることになってしまった。
もう、『やっぱり行けません』とは言えない。マリーナが監視して、アルバートを王宮に戻さなかったら、彼はノラ探索を強行しそうだ。なにやら、トイ軍曹とこっそり動いていて、それがアンジェリカ誘拐の引き金になったと考えている節がある。彼の責任感としてはあり得る話だ。しかし、王太子としての責任もあることを考えなければ。
「アルバートさま、参りましょう」
ここはトイ軍曹に任せて、自分はアルバートの安全を確保しようと、マリーナは彼と一緒に馬車に乗った。
ミリアムも素直に、チェレグド公爵邸から連れてきた護衛を一人残し、もう一人と共に馬車に乗る。「チェレグド公爵閣下にもお話を通しましょう。ノラは公爵家の使用人ですもの。無体な真似は絶対にさせませんわ」
アンジェリカは泣きながらミリアムの手を握った。
二台の馬車が行った後、彼女はもう一度、トイ軍曹に謝った。
「ごめんなさい……」
トイ軍曹は視線を巡らせ、人びとが慌ただしく動いたり、何事か話し合っているのを見て、大きな身を屈ませ涙に濡れる少女に囁いた。
「お前が無事で良かったよ」
「え?」
突然の言葉に、アンジェリカが潤んだ瞳をトイ軍曹に向けた。
「ここだけの話だ。誰にも言うなよ」
憐れな使用人を身代わりの犠牲にしておいて、自分の身内が無事だったことを喜ぶ利己的で最低な発言だからだ。
分かっていても、彼はそう言わずにはいられなかった。
しーっと、人差し指でトイ軍曹は唇を指した。
「これは秘密だ。お前と俺とのな」
アンジェリカはうんうんと頷く。
彼女を部屋に連れて行き、やはり無茶な真似をしないようにきつく言い含ませる。
「ノラは必ず私が見つけ出して助けるから。私を信じて任せておくれ」
二人の秘密を後味悪くしないためにも、ノラの無事は絶対である。第一、少女を誘拐して、自分の要求を通そうなんて考えは、絶対に許してはいけない。
それは、秘密でもなんでもなく、大っぴらに表明してもよい、”彼の気持ち”であった。
つまり、トイ軍曹は心置きなく、部下たちを使って探索を始めた。




