062:芋の煮えたもご存知ない
アルバートは上手に隠れたつもりだったが、トイ軍曹にはバレていた。
「お見苦しい所をお見せしました」
「いいや、こちらこそ」
父親が正妻そっちのけで愛人の所に入り浸りになったせいで、市井の娘にまでかような迷惑を掛けたことに対する、息子の謝罪であった。
それに対し、トイ軍曹は苦笑した。真面目なお方だ。それだけに、思いつめているかもしれない。
「ところで、なぜ廊下に?」
「――ジョンを見つけて」
「そうでしたか。
やぁ、ジョン、”久しぶり”。元気そうだな」
三日ぶりの再会だが、トイ軍曹は十日以上前に近衛の練兵場で会った以来のような顔でマリーナを迎えてくれた。
どうやらアルバートにはマリーナの正体ことは話していないらしい。
と、すると……マリーナはようやく、この場所に王太子殿下がいることに違和感を覚える。
「殿下!」
「――アルバート」
マリーナの目くじらが立ちかけているのを見て、アルバートは身構えた。
「アルバートさま? なぜここに?」
「後学の為だ。やはり一度でも民の生活をこの目で見る必要があると思ってね」
「危ないですよ」
「トイ軍曹がついてくれているから、それほど危なくないよ。
……本当に危ない場所には連れて行ってくれないんだ」
マリーナとアルバートの意味の異なる批判がましい視線に、トイ軍曹は肩を竦めた。
「一度どころか、二度目ですよ。アルバートさまのお忍びは」
何を思ったのか『街を案内しろ、しなければ一人で行く』と”我儘”を言う王太子にトイ軍曹も振り回されていた。
アルバートは真面目に身なりを整えて来たが、容姿が派手なせいで、あまり意味があるとは思えない。良い意味で王太子としての風格があるのだ。そんな男を案内する羽目になったトイ軍曹は前回、ひどく苦労したのだ。『絶対、街中の人間が王太子だって気づいてるよ! 俺、近衛の人間だし! 近衛が守る青年なんて、この国に王太子以外、いないんだよ!』
すっかり味を占めたアルバートが間髪を入れず次のお忍びの予定を入れた時、トイ軍曹は”ジョン”を使って、少なくとも外に出すことを阻止しようとした。
「今日はいかがしますか?」
「――ジョンと話をしたい」
「では、あちらのお部屋へ。茶を用意させましょう。どうぞゆっくりと心行くまで話して下さいな」
目論見通り、アルバートをトイ商会内に引き留めることに成功した彼は、マリーナに王太子の世話を丸投げにした。マリーナならアルバートと一緒になってお忍びなんてものに走らないだろうし、アルバートには下町を視察するよりも大事なことがあるだろう。
『我ながらいい判断だな』と満足して、ミリアムのいる部屋にでも挨拶に行こうとした。
「トイ軍曹、アンジェリカさまを追いかけないのですか?」
思いもかけずマリーナに薄情者と謗られた気がした。
「追いかけると、逃げる」
そこでトイ軍曹はこれまでの経験上、自分が追いかけない方が、早くアンジェリカが戻ってくること説明する。アンジェリカはすでにゴールドンを始めとした使用人が追いかけている。心配はいらない。
「俺は嫌われているんだ。もしかすると父親以上に……」
自分なりに可愛がってはいるが、どうも”女の子”の扱いとなると、ほとんど父親と同じような扱いになってしまう。要は金で解決しようとしてしまうのだ。彼が日頃から付き合っている女たちはそれか、”大人の方法”で慰めれば事は済んだ。けれどもアンジェリカにはそれは出来ないし、少しでも力を入れて触れたら、壊れてしまいそうで怖いのだ。
「――逆だと思いますけど」
「へっ?」
「追いかけて……欲しいのだと思います」
マリーナはアンジェリカの叫びに、何か別の感情が潜んでいることを気配を感じ取った。アンジェリカの境遇はマリーナに似ていた。そして、彼女の気持ちも、かつてのマリーナに似ていた。
「でも、逃げるんだぞ? ジョンが迎えに行って方がいいかも……そうだ! 頼めないかな?
アンジェリカはお前のことが気に入っている」
「なぜですか?」
「なぜって……俺に会いに来た時にジョンを見て……だな――」
”ジョン”が女の子だと知ってしまったから、こんなにも胸がざわつくのだろうか。トイ軍曹はマリーナに見つめられて、鼓動が早くなり、手に汗が滲んだ。気付いてはいけない何かを、この男装の少女は自分に気づかせようとしている。
「普通、嫌いな相手に会いに行かないと思いますけど」
「我儘を言いに来たんだよ。わざわざ……ね」
トイ軍曹がマリーナを『いつまでもあなたの小姓を独占したりしませんよ』とばかりにアルバートの方に押しやった。
「待って……!」
「お話をするのならば、こちらでどうぞ」
トイ軍曹は部屋の扉を開け、恭しく案内した。
半ば強引に部屋に入れられたマリーナは怒っていた。
そもそも、王太子が王宮を離れて何をしているのだろう。
「もっと真面目な方だと思っていました」
「私はいつでも真面目だ。真面目に民の生活を考えている」
「――それは……分かっています」
マリーナ自身も王都を馬車で走ってだけでも多くのことを知った。アルバートはもっと気になるだろう。
「でもなぜ、突然?」
以前からそういう気持ちがあったのは知っていたが、もっと慎重に動いていたはずだ。王都は『暁城』の周辺よりも雑多で危険なのだ。すでに王都の下町は王甥であるストークナー公爵の子息・トーマスを犠牲にしていた。
「ジョンがいなくなったから……って、嘘だよ。
確かめてみたくなったんだ。どうしても、『今』ね」
覚悟を決めたようなアルバートの顔に、マリーナは沈黙した。
「もう一つ、確かめたいことがあるのだけど、いいだろうか?」
もういい加減、知らないフリをしても仕方が無いだろう。マリーナが小姓として戻ってくることはない。彼女を彼女と認め、自分の気持ちだけでも伝えたかった。
「な、なんでしょうか?」
何を確認されるのか、思い当たる節は一つくらいしかない。マリーナにはアルバートの切羽詰まった顔は、怒っているように見えた。こんなことなら、自分から申し出ておくべきだった。
マリーナの顔に怯えた様子を見たアルバートは、自分が彼女に怖がられていると感じた。
それはそうだ――。
マリーナ・キールに対する前に、ジョン・グリーンへ謝罪をしなければならないだろう。
「その前に、”ジョン”に謝らせて欲しい」
「ええ?」
「さっきも言ったように、私はロバートを信じていた。赤ん坊の頃から共に育って来た兄弟以上の存在だと思っていた。
そのロバートが私を裏切ったのだと知って、そのせいで君に怪我をさせたと知って――自分自身が許せなかったんだ。
それなのに、君に当たるような真似をしてしまった。
よりにもよって恐ろしい目にあったばかりの君に、あんな態度を取るなんて、王太子として、いいや、人間として失格だ。
許してくれ」
一国の王太子が、一介の小姓に自らの非を認め、謝罪をしている。不思議な光景だった。仮に公爵令嬢に対してであっても、そうはないことだ。
マリーナは困った。
『許す』というのは偉そうだ。そもそも、何を許すのか分からない。あの時のアルバートには困らせられたが、その心情は汲んで余りあった。
マリーナが返事をしないので、アルバートは不安になった。もうすっかり自分に愛想を尽かしてしまったのだ。
「本当にすまなかった……王妃がしたことも、言い訳は出来ない」
「いいえ! 私こそ、自分から望んだことなのに、職を投げ出してしまいました。
お許しください。
殿下のせいではないのです。王妃さまのせいでもありません。
本当に気分が悪くなって、仕方がなかったのです」
「……本当に?」
「はい……」
ここで『自分は殿下に嘘偽りは申しません』ときっぱりと宣言出来たのならば良いのに。マリーナは彼の前で、偽りの姿で立っている。
とても『信じて下さい』とは言えない。
ただ、ロバートの自信満々の裏切りにあったアルバートには、マリーナの控えめな訴えは逆に好ましく思えた。
「ありがとう……」
先ほど、マリーナは一所懸命、アルバートを慰めてくれた。マリーナ・キールはなんと愛情深い人なのだろうか。
アルバートは一息吐くと、気持ちを落ち着かせた。
「ジョン……」
マリーナもまた、アルバートに告白しようとした。
「殿下、お話したいことが……」
しかし、彼らの運命は、まるでまだその時ではないと言わんばかりに、それを邪魔した。
俄かにトイ商会がざわついた。それは次第に大きくなり、ついにはミリアムすら扉から顔を出す始末となった。そこでミリアムはようやくマリーナとその脇に王太子が立っているのを見た。
「あらまぁ! どうしたの!」
その声に返ってきたのはアンジェリカの叫びだった。
「ノラが攫われた! 私のせいだわ!」




