061:骨肉相食む
マリーナとミリアムがトイ商会が着くと、ゴールドンが素早く近寄って来た。
「申し訳ありません。ご招待に応じて下さったというのに、ただ今、立て込んでおりまして。
お嬢さま、あちらのお部屋でお待ちくださいますか? 素晴らしいレースが手に入りましたので、ご覧下さい」
「まぁ! いいわね」
ミリアムはゴールドンの申し出に、特に事情を聞くことも無く頷いた。
護衛二人とノラは、客に従ってきた使用人たちの用の控室で待つ。
では、自分も……と、マリーナは姉についていった。ゴールドンは前回来た令嬢とそっくりの顔の少年がいることに、驚いた顔は見せなかった。トイ軍曹が予め「双子の弟が来る」と言っておいたからだ。多少、胡散臭いとは思いつつも、主人の言うことに、それ以上、突っ込まないのが良い使用人と言うものだ。お客さまの中には様々な事情を持っている人がいる。おまけに、今は自分たちの事情で、招待した客を待たせることになるのだ。お互いさまということだ。
レースだけではなく、上等なリネンやら何やら……ミリアムが好きそうなものが急いでかき集められた部屋に入ろうとした寸前、マリーナはぐいっと手を掴まれた。
「――っ!」
吃驚したマリーナが手の主を見ると、さらに驚くことになった。「――!?!?」
地味な色味の服を着ているが、トイ商会の豪奢な内装にも負けない煌めく王太子殿下だ。十日ぶりにあったのにひどく懐かしい。高鳴る胸を押さえると、彼のボタンが”いつでも側にいたでしょう”と存在を主張した。
「殿下……!」
二人とも久々の邂逅に緊張していたが、心の準備をしてあったアルバートの方が、今にも抱きしめたい思いを堪えて、冷静な対応が出来た。
「外ではアルバートと呼ぶように」
「あ……アルバートさま?」
なんだって王太子がこんな所に。トイ商会の人たちは知っているのか。
ゴールドンの方を見たが、無情にもミリアムが入るとすぐに、その部屋の扉は閉じられていた。お洒落が大好きな姉は、妹が置き去りにされたことに気が付かない。
アルバートは広い廊下に置かれた大理石の彫像の後ろにマリーナを連れて行った。
「”ジョン”」
「――っ! はい、殿下。じゃない……アルバートさま」
ジョンの姿で来て良かった気持ちと、いっそトイ軍曹のようにドレス姿の自分を見て気づいて欲しかった気持ちが、マリーナの心を真っ二つにした。
「体調は良くなった?」
「はい……何も言わずに殿下の許から下がりましたこと、申し訳ありませんでした」
「それに関しては、もしかしたら流行り病かもしれないから、私にうつさないように急いで王宮から下がったと報告があったな」
アルバートの言い方は、まるで「そうだと言ってくれ」と懇願するようだった。
「怒っていませんか?」
「何に? あんな目に合った君を、私が責める資格があると?
ロバートも感心していた。殊勝な心がけだと――」
マリーナの腕が強く掴まれた。素直なアルバートにしては皮肉っぽい言い方だ。ロバートの名を出した瞬間、堰を切ったように感情が押し寄せる。
「ロバートのことを信じていたのに。
君にあんなことをするなんて、思わなかったのだ。
たとえ、周りの人間がなんと言おうと、私はそれだけは信じられなかった……だが、皆の言う通りロバートは私を裏切っていたようだ。
私は愚かなくせに頑なな人間で――」
「いいえ、違います。ですからそれ以上、ご自分を責めないで下さい」
久々に男として振舞うので、身支度だけではなく、言い回しや声の質が、女っぽくならないように気を付けながらも、マリーナは毅然とアルバートに立ち向かった。
「違う? だが実際、ロバートは君を王妃に会わせ、怪我をさせた。
それに『夕凪邸』の一件も……あれもロバートが裏で手引きしたとしか考えられない。私はそうと聞かされながらも、まさかそうではないと打ち消してしまっていた」
マリーナは少し意外だった。アルバートはロバートの気持ちに気づいていると思っていたからだ。王妃からの菓子を譲ったり、王妃を口実に上手くマリーナから遠ざけたり、あるいは、ロバートが付いてこない近衛の練兵場にマリーナを連れて行ったり。
しかし、それは違ったようだ。アルバートは乳兄弟のロバートを信じていたし、ずっと、信じていたかったのだ。だが、裏切られたと確認し、認めなければならなかった。それを必死に受け止め、消化しようとしている今、またマリーナの言葉で揺らがせてもいいものか分からないが、それでも、彼女が感じたことを伝えたいと思った。広い世界を見るには、多くの視点があった方が良い。
「でも、ロバートさまがアルバートさまに対して忠実なことに、嘘偽りの気持ちはありません」
「どういう……」
「同時に。
王妃さまに対しても深く敬愛していらっしゃるのです」
ロバートが”ジョン”を同志と呼んだ時の嬉しそうな表情を思い浮かべた。彼は王妃に対し、絶対の忠誠を誓っている。もっと言えば、おそらく愛しているのだろう。王妃と騎士という枠を超えた、男が女に持つ思慕の情を、ロバートは抱いている。
アルバートもマリーナの言外に、それを感じ取り、不愉快な気持ちになった。
当たり前だ。
自分の母親に息子ほどの歳の人間が懸想している。しかも、その人間は自分が生まれた時から一緒に育っている幼馴染なのだ。
「それ故に、ロバートさまは王妃さまに聞かれると、なんでも答えてしまったのでしょう。
王妃さまが大切になさっている王子さまの近況を、問われるまま全て……」
その中に、誰かの不利益になることがあるなんて、ロバートは考えない。アルバートが隠しておきたいことがあるなんて考えもしない。王太子がすることを、王妃が全て知る権利があると信じて疑わない。
勿論、王妃の産んだ王子にも二心無くお仕えするのは当然のことだ。
だからアルバートは、ロバートの態度が妙だと感じた者の忠告を受け取れなかった。彼の前で、ロバートは忠実で誠実にしか見えなかったからだ。事実、ロバートの言葉にも態度にも嘘偽りはないのだ。ロバートは王太子を裏切っている意識は毛頭ない。アルバートが見極められなくても仕方が無い。ロバートの忠心はアルバートの前で発揮されているのだから。
アルバートはマリーナの両肩に手を置き、はぁっと大きなため息を吐き、項垂れた。
「だったら普通に裏切ってもらった方がいいような気がするのは私だけかな?」
「ええっ!」
ロバートに裏切られたと落ち込んでいるアルバートを励まそうとしたのに、逆効果だったようだ。マリーナは焦った。
「すまない。
ジョンは私を慰めてくれようとしたんだね」
十日ぶりの王太子の笑みに、すっかり免疫を無くした小姓の頬が染まった。
「……出過ぎた真似でした」
「いいや。ありがとう。君は私をいつも気遣ってくれるね」
マリーナが必死に自分のために言葉を尽くしてくれたことに、アルバートはさらなる微笑で返し、それから険しい表情に変わった。
「アルバートさま?」
マリーナはアルバートと壁の間に挟まれていた。
トイ商会の廊下の、石像の陰とはいえ誰かに見られたら、また妙な噂の火に油を注いでしまう。しかし、マリーナは動けなかった。
『君を守れなかった私が言うべきことではないと思うのだけど――』
肝心のマリーナに届く前に、アルバートの声は怒号にかき消された。
すぐ側のドアが荒々しく開き、アンジェリカが出てきた。目には涙がいっぱいに溜められていた。それを彼女はせめてもの抵抗で、こぼさずにいる。
「嫌よ! 王さまの愛人なんて絶対に嫌!!」
「我儘を言うな、アンジェリカ!」
追ってきたのは初めて見る顔だったが、その立派な服装と、いかにも偉そうな態度からトイ商会の当主であることが分かった。
トイ氏は娘を貴族に嫁がせるつもりで引き取ったはずなのに、それがなぜか”王の愛人”の話になっていた。
王を父に持つアルバートはマリーナを石像の陰に入るように抱き寄せたが、どちらかと言うと、アルバートの方がマリーナにすがっているように感じられた。
「王さまはお前のような娘がお好みらしい。王が離宮に囲っている”花麗国”の亡命貴族の娘は、お前に似ているそうだ。
王が王妃にお見限りの今、上手く立ち回り男子を上げれば、息子に公爵位くらいは貰えるかもしれん」
「私はそんなこと、望んでいない!
顔も知らない貴族に嫁ぐのだって嫌なのに、王さまの愛人なんてもっと嫌!
もう家に帰る! 帰してよ! お母さんの所に帰して!」
その地団駄は正当な訴えだった。
トイ軍曹も妹に加勢する。
「恐れ多くも王太子殿下の妃というのならば私も賛成しましょう。
ですが、王の……それも愛人とは……アンジェリカの幸せとは思いません」
息子の言葉を父親は理解出来ない、と言った顔だ。
「お前のような持参金もつけられないような家の娘、私の後見がなければ田舎に戻っても、どうせ顔も見たことの無い年寄りの後添えになるのが精々だぞ。
それが現実というものだ」
アンジェリカを引き取った男は、さらに少女を辱めた。
「家に帰ると言うが、どうやって帰るのだ?
馬車などだざんぞ。
金も出さん。
王都から出る前に野垂れ死にか、人さらいにあうだろう。お前は顔だけはいいから、高く売れる――」
「父上!」
トイ軍道が声を荒らげた。トイ氏は息子にまで蔑んだ視線を送る。
「お前は口を出すな。
大体、なんだ。
私が留守の時にばかりやって来て。
金の無心でもしにきているのか?
トイ商会の跡取りなのに、軍隊なぞに入隊して。
それも士官ならばともかく、軍曹などと――。
親の金を頼らず己の実力で生きていくなどと偉そうなことを言って、下士官止まりとは。
所詮、お前はその程度の人間なのだ。トイ商会の名がなければ塵芥のような存在なのだ」
父親に侮辱され慣れているのだろうか。妹の時よりもトイ軍曹はずっと冷静だった。
「じゃあ、アンジェリカに良い婿を取ってくれ。
それで、その婿にトイ商会を継がせればいい。
お貴族さまなんかに嫁がせるよりもずっと幸せになれる」
若い娘は結婚しなければ将来が立ち行かない。それに関してはトイ軍曹も父親と同じ考えで、アンジェリカを自分が良いと思った人間に縁付けようとしていた。
アンジェリカはそれに猛烈に反発する。
「嫌よ! 嫌!」
その悲痛な叫びは”王さまの愛人”以上の拒絶だった。
「アンジェリカ……」
「ジャック兄さまの馬鹿!」
どこかで聞いたことのあるような叫び声を上げたアンジェリカが長い廊下を駆ける。
マリーナとアルバートの前を通りすぎたのでヒヤリとしたが、怒りと悲しみに暮れた少女は気づかなかった。
「まったく、誰があんな我儘に育てた!」
トイ氏は呆れたように言い捨て、ゴールドンに箱を投げつけるように渡した。
「これをあの娘に。”花麗国”で作られた肩掛けだ。気に入るだろう。なにせ極上品だからな。
……それに当分は、あの国からこれほどの品は手に入らないだろう」
それさえ渡しておけば、アンジェリカが機嫌を直し、トイ家に引き取られたことをありがたがると信じて疑わない顔だった。
トイ軍曹の侮蔑の籠った視線に、これまた軽蔑で返し、トイ氏は娘が走り去った方向とは別に歩いた。
「少しの用事で帰ったはずが、とんだ時間を取られた。
私はもう行く。
――お前も、いつまでも軍隊なんぞでフラフラせずに、仕事を手伝いに戻って来い」
「ふんっ!」と鼻を鳴らすだけで、トイ軍曹は父親に対する拒絶を伝えた。




