060:渡る世間に鬼はなし
帰り道に少しだけ寄り道をして、ローズマリーとノラのためにお菓子を買った。
「とっても元気なお嬢さんね」
「はい!」
ノラはアンジェリカに振り回されているように見えるが、本人は友情を感じているようだ。
「我儘に見えるかもしれませんが、アンジェリカさまも寂しいのだと思います」
「寂しい?」
年上の友人に対して、大人びた口を利くノラに、マリーナは聞き返した。
「はい」
アンジェリカ・トイは、ジャック・トイの遠縁の娘だった。実家は紳士階級であったが、裕福ではなかった。両親は仲睦まじく、それゆえに多くの兄弟に囲まれ、ますます貧しい生活を余儀なくされた。それでも、王都から離れた田舎では、家族、身を寄せ合って楽しく暮らしていたという。
それが突然、王都のトイ家に引き取られることになった。
「トイ氏はお嬢さんの身を立てようとなさったのね」
トイ氏が善意でもって困窮する親戚の家から娘一人分の養育費を肩代わりするために、アンジェリカを引き取って面倒を見ることを申し出たのだろうと、マリーナは思った。思えば今のマリーナも同じような立場であった。
「それがお嫌なんですよ」
お菓子を頬張りながら、ノラは首を振った。
「どこかの貴族に嫁がせられるために引き取られたんだって」
「――っあ!」
マリーナも王太子の妃として望まれたことを思い出す。それに対し、自分も初めはあり得ないと感じていたことも。
商売が繁盛しているトイ家は、王族とまでは言わないが、貴族階級の中に食い込みたいと願っていた。
しかし、トイ家にはジャック・トイという立派な後継ぎがいたが、無事に育った女の子はいなかった。トイ氏は長男に良い家柄の娘を娶るのは当然として、さらに有利な縁戚関係を結びたいと願っていた。しかし、商人は商人同士、貴族は貴族同士で縁を結ぶのが、世の倣いであり、さらなる高みを望むにはそれなりの準備が必要であった。
まずは女の子である。それも見目が良い娘が欲しい。
それを手元不如意になった貴族に、たっぷりと持参金を付けて嫁がせるのだ。トイ家には名誉が、相手先には金が入るという仕組みだ。
トイ氏は自分の系図を思い出し、遡り、ようやくアンジェリカの家に辿りついた。
大人の思惑で王都に連れて来られた女の子は、トイ氏にとっては道具で、夫人にとっては責任と教育を負わされた厄介な存在だった。それに元気一杯なアンジェリカを見ると、赤ん坊の内に亡くなってしまった子どもたちを思い出し、悲しくなる。おまけに夫人から見れば、どこが紳士階級の娘だろうかと疑わしいほどの田舎者で無教養だった。とにかく、とっとと嫁に出して夫の希望を叶えてしまえとばかりに、厳しく躾けを施した。
息子のジャック・トイは両親のやり口には反対で、アンジェリカを妹と呼び、愛情と同情を持って当たったが、アンジェリカには伝わらなかった。いや、伝わっていたからこそ、アンジェリカは兄の愛情に対して、我儘と反発で返した。
アンジェリカは王都の生活に馴染めなかったし、顔も見たことのない貴族に嫁ぎたくなかったし、家族に会いたいし……とにかく、何もかも不満で、そして恐ろしかった。
ノラはそんなアンジェリカと市場で偶然に出会った。
「ナタリーおばさんにお土産を買おうとしたんです。お給金が出たんで。それもたくさん!
さすがチェレグド公爵閣下です。私のような小娘に、もったいないことです。
それで何か良い物があればナタリーおばさんに贈って差し上げたくて。
そうしたら、アンジェリカさまが近寄って来るや、いきなり買おうと思って手に取っていた物を私からひったくって、地面に叩きつけたんです……」
「まぁ! 壊れなかったの?」
ミリアムと違い、アンジェリカは積極的に物を壊しにいく性格のようだ。
「はい。だって、リネンのハンカチでしたから。とっても素敵な刺繍がしてあって……でも」
「でも?」
「粗悪品なんですって。それなのに上等の品みたいな値段を付けて売っていたそうです」
つまりノラは騙されそうになり、それをアンジェリカが防いでくれたのだ。もっとも、アンジェリカは騙そうとした商人にも怒ったが、騙されそうになったノラにもキツく当たった。
「リネンの良し悪しも分からないような愚か者が、こんな贅沢品を買おうなんて、身の程知らずなんですって」
ノラはあっけらかんと言ったが、マリーナはそれが逆に悲しく見えた。
「アンジェリカさまは、以前は田舎に住んで居ましたが、今はすっかり洗練された淑女なので、物をよくご存知です。
ナタリーおばさんの為に、素敵なティータオルを選んでくれました。実用的で質が良いけど、手ごろな価格のものです」
「それは良かったわねぇ」
「はい、ミリアムさま。アンジェリカさまはお優しいのです」
田舎から出てきた頃と同じような年頃の少女に、アンジェリカは毒づきながらも親切だった。王都の大人たちは子どもの無知につけ込んで、騙したり、酷いことをするのだといつも怒っていた。
「それでナタリーおばさんがお礼に林檎を送ってきてくれたんです。
でも、それはうちの畑の酸っぱい林檎で……とてもトイ商会のご令嬢に差し上げるようなものではありませんでした。
だけど、折角のおばさんの心遣いだったので、気持ちだけでも伝えたんです」
すると、アンジェリカは激昂した。
「私が貰ったものを、あなたが勝手に処分する権利があるの!?」という訳だ。道理ではあるが、言い方が悪い。
ノラは泣きそうになりながら林檎を持って来た。お詫びの気持ちで、自分の分で作ったアップルパイも添えた。
「それを食べたアンジェリカさまは……」
「怒ったの?」
この展開からするとそうくるだろうとマリーナは思った。ミリアムもすぐに慰められるように、上等なリネンのハンカチを取り出した。
「いいえ。
それが……お泣きになったんだです」
「ええ?」
「まぁ!」
アンジェリカ・トイはノラ手製のアップルパイを食べて泣いた。故郷の母親が作ってくれたのと同じ味がすると泣いた。
トイ家では令嬢には甘い林檎を出していたが、彼女は田舎で隣の家のおじさんの家からほぼ公認でくすねて食べる酸っぱい林檎がたまらなく懐かしく、母親が作ってくれる素朴なアップルパイが恋しくて仕方が無かった。
それでアンジェリカはノラに件の自分の事情を打ち明けた。
「アンジェリカさまはお寂しいのです」
今度はその言葉に、マリーナとミリアムは素直に頷けた。
ガタン、と馬車が大きく揺れた。
「何があったの?」
あまり外に顔を出せないマリーナの代わりにミリアムが聞いた。
「なんでもありません」
御者はそう言いながら、馬車の前に飛び出した薄汚れた男の子に何かを握らせた。それから何事もなかったように手綱を握り直すと、馬車を走らせる。
「なぁに? なんなの?」
その問に、ノラがしたり顔で答えた。
「きっとあの男の子が馬車に当たったんですわ」
「ええ? それは大変じゃないの? 怪我でもしていたら……」
今度も、やっぱり「何も分かっていない」とばかりにマリーナに対してノラが首を振る。
「大丈夫ですよ。怪我をしないように当たっているんです。
それでお金を貰うんですよ。そういう商売なんです」
「商売?」
マリーナには商売と言うのは物や技術を売って対価を得ることなのだと思っていた。
「当たり屋って言うんです」
「危なくないの?」
「危ないですけど、ね、マリーナさま。馬車に轢かれて死ぬか、飢え死にするかだったら、前者を選ぶでしょう?
少なくともそうならない可能性があるんですもの。
もっとも、そうやって得たお金があの子の物になるとは限りません。
”悪い大人”が子どもを使って稼いだお金を巻き上げて、ほんのちょっぴりしか残さないこともあるかもしれません。
それでも、そうしないと生きていけないんですもの」
「って、アンジェリカさまに教えてもらいました」と、ノラは素直に付け加えた。
「王都は華やかで賑やかですが、怖い場所です。私は字も読めないし、計算も出来ないので、よくお釣りをごまかされたりします。
それに怖い顔をした男たちに、いつも見られている気がするんです」
それにミリアムものっかった。
「世の中平等じゃないのよ。一部の特権階級ばかりが知識や芸術を独占して、贅沢三昧。民衆は無知で貧しいまま……えーっと飢えに喘いでいるって……マダム・メイヤーの所で聞いたんだけどね」
走る馬車の外は、美しい石造りの街並み。たくさんの品物が並べられた商店、活気のある市場に着飾った人々。エンブレア王国の王都だ。
だが、よく見れば、汚れた子どもや大人が路地裏から馬車や人を値踏みし、手足を失った元・軍人らしき人間が物乞いをしている。昼間にもかかわらず、男に声を掛ける派手な女たちが街角ごとに立っている。
さらに生きる気力すら失ったような人間が、力なく道の端に身を横たえていたが、誰もがそこに小石が落ちているのと同じように気にもしない。
マリーナは読み書きも出来るし、計算も堪能だ。おそらくリネンの良し悪しも分かる。『夕凪邸』に居た頃は、キール家だって豊かな生活をしている訳ではなかったが、住む家と食べる物、着る物はあった。そして何よりも彼女は幸せだった。家族は仲よく、隣人は親切だった。
衣食住に恵まれないことは不幸なことである。
けれども、アンジェリカのように有り余る物資に囲まれても、幸せであるとは限らない。ストークナー公爵夫人のように愛する子どもを失った悲しみに耐えられないものもいる。王妃などは、心の持ちよう一つで、幸せになれるはずが、自分でそれをぶち壊している。
その王妃の息子は――マリーナは彼のボタンがある胸元を押さえた。
”一部の特権階級”の頂点にいる王太子。世間知らずの王太子。しかし、世界は広く、一人の人間が全てを知ることなど不可能だ。アルバートはそれでも、知ることを拒絶したりはしないだろう。歩み寄ろうと努力する人間のはずだ。
前方に、またもや建物を背にしてやっと座っている男が現れた。その建物の主であろう人間が、彼を邪険にも追い払おうとしている。
その時、黒髪に黒い服を着た男が、よろめく男に手を差し伸べるのが見えた。
馬車はあっという間に、その風景を置き去りにした。
「悪い大人ばかりじゃないわ……」
「ええ、それは!
チェレグド公爵家のみなさまは大変いい人たちばかりです。
下町では貴族たちを倒せ! なんて言う人もいますが、私はチェレグド公爵や夫人はとても親切で立派な人だと思っています。
勿論、マリーナさまやローズマリーさま、ミリアムさまのことも尊敬していますよ!」
ノラがマリーナの言葉に力強く同意したが、「今日から読み書きを学ぶといいわ。私やマリー姉さまが教えてあげられるでしょう」という申し出には難色を示した。
「女が学なんてつけても仕方が無いです」と渋るノラに、こちらはマリーナに同意したローズマリーが俄然、やる気になった。「字が読み書き出来ないなんて、知らなかったわ! 私がしっかり教えてあげるから安心して!」
ローズマリーが小さな黒板とチョークを、ミリアムが優雅な白い羽ペンと美しい便箋を、マリーナが綺麗な挿絵がたくさんついた素敵な物語の絵本を勉強のために贈ると、ノラはやっとその気になった。
***
三日後、トイ商会から鯨の歯の彫刻の修理が終わったとの連絡が来た。それにはアンジェリカから丁寧なお茶への招待状もつけられていた。
こうなるともう、行かなければならないだろう。
ミリアムはドレスを選び、マリーナは”ジョン”になった。
「え? なんで?
と言うか、マリーナも来るの??」
気晴らしのはずの外出以来、逆に妹が塞ぎがちになっていたのを知っていたミリアムが驚いた。
「ええ……気になることがあるので」
トイ軍曹はマリーナと”ジョン”を同一人物だと認識した。あの場でそれを口にしなかったのは、ありがたい配慮であった。
しかし、王太子にはどうなのだろうか? もし、今後も黙っていてくれるのならば、なぜなのか。等々。
いずれにしろ、次に妙な場所で心の準備もなく出くわす前に、安全な場所で会っておいた方がいいに違いない。王太子の小姓だった少年が実は女で、チェレグド公爵に縁があるなど、他の人に吹聴されることは防がねば。アルバートの為にならない。
ミリアムやチェレグド公爵家の護衛の目があれば、変なことにもならないはずだ。
トイ軍曹にはノラに頼んで、言伝を届けてもらった。あの日、彼が実家に戻って来ていた理由は分からないが、自分の為に軍務を休ませるのは気が引けもした。アンジェリカに”ジョン”を会わせることが出来ることで勘弁して貰いたい。
久々の男装だったが、ローレンスにしっかり仕込まれたおかげで、以前と遜色ない出来上がりだ。十日やそこらで腕は落ちない。
ローズマリーとミリアムが思わず声を上げる。「いやだ、マリーナったら!」
「おかしいですか?」
ミリアムの台詞にマリーナはどこかおかしい所があるのかと不安になる。
「違う。そういう意味じゃなくって!
よく似合っていて、まるで物語に出てくる美少年みたい!」
「それ……現実味が無いってことですか?」
褒めているようで、そう聞こえない。
「そんなことないわ。ねぇ? マリー姉さま」
「そうね。マリーナだって分からなかったら、そう見えるわ」
アランが魅了されたように、少女が男装している故の、どっちつかず魅力がある。
二人の意見を聞いて、マリーナはより少年側に見えるように、伸びてきた髪の毛をきつく縛った。これからアンジェリカに会うのだ。兄の方に性別はバレたとしても、妹には気づかれないようにしたい。
だがしかし。
マリーナがトイ商会で会ったのは、王太子アルバートだった。




