表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/121

006:寝耳に水

 男の愛馬は”雪白ゆきしろ”というらしい。賢い”彼”は、主人が手綱を握らずとも、大人しくついてきていた。水桶は雪白の背ではなく、男が持っていた。馬にはマリーナが乗るように勧められたが、見知らぬ男の馬などに乗るのは危険だと思い、断った。表向きは「乗馬の素養がない」ということにした。

 自分で脱いだくせに着方が分からないという意味不明なことを口走る男に、服を着せて、これで安心と思いきや、無駄に強烈に放たれる色香は、地味だが、かなり上質の衣服でも防ぎきれないようだ。

 やっぱり淫魔かなぁ。

 マリーナは警戒を緩めなかった。疑いを口にしたり、そうと感づかれたら、男が豹変するかもしれないと恐れ、すぐにも逃げられるように距離を取って歩く。


「君はここの村の子どもなのかい?」


 今年で十六歳になるマリーナは、どちらかと言えば、大人の女性の部類に入る。同い年の村の娘たちの中には、結婚するものもちらほら出てきた。だからこそ、ローズマリーとミリアムの縁談に彼女は気を揉み始め、逆に、二人の姉は妹の結婚を考え始めたとも言える。

 だが、マリーナを”男”と思っている金髪の若者には、彼女はまだ子どもに見えるようだ。背は小さいし、筋肉も贅肉もついていないひょろりとした体型は、いかにも少年めいているのは確かだった。


「ええ……そうです」


 この村で生まれ育った子どもなことには間違いない。マリーナが頷くと、男は名前を聞いてきた。彼女は本当の名前を教えるつもりなど、毛頭なかったので、あっさりと偽名を名乗った。


「ジョンと申します」


 ありふれた名だ。村のお祭りに行って、名前を呼んだら、半分は振り向いてもおかしくないくらいの名前だった。

 そんなありふれた名に、男はなぜか奇妙な顔をした。


「”君も”ジョンなのか」


「ええ、私もジョンです。よくある名前ですから。そういうあなたは?」


 まったく興味は無かったが、聞かれっぱなしは癪に障ったので男の名を尋ねた。

 男の口から出てきた名は、ジョンとは真逆だ。名前自体はそうでもないが、姓を伴えば、ありきたりの人物ではなくなる。


「私は……コンラッド。コンラッド・アーサー・ルラローザだ。アシフォード伯爵を拝命している」


「…………」


「驚いたかい?」


 なぜか得意顔で言われたマリーナは、曖昧な笑みを浮かべ、男……”アシフォード伯爵”と名乗る人物に気付かれないようにさらに距離を置く。


「ジョン?」


「お……驚きました。

えっと、先ほどまでのご無礼、あいすみません」


 マリーナは一応、畏まり、謝ったものの、本気ではなかった。

 なぜならば、彼女は男が嘘を吐いていることが分かったからだ。彼は決してアシフォード伯爵ではない。まったくの別人である。この村の者でもなく身分を詐称している人間など、どうして信用出来るだろうか。マリーナも性別と名前を偽っているが、それとは事情が違うはずだ。男と反対側の左手に持った鉈を握り直した。

 利き手とは逆の手での打撃は効果があるだろうか?

 そもそも、淫魔は刃物で倒せるものだろうか?

 

「いいや、知らなかったのだから仕方が無い。許そう。君が私にそうしてくれたように」


 アシフォード伯爵と名乗るだけあって、偉そうな口調に腹が立つ。一番、気に入らないのは、脳髄までとろけそうな淫靡な雰囲気を醸し出していることを、本人は全く気づいていないような所だ。

 それでも、マリーナは平静を保って、”許してくれた礼”を述べる。


「ありがとうございます」


「ところで? ジョン。君に聞きたいことがある」


「なんでしょうか?」

 

 マリーナの声が一段と冷たくなった。

 やはり淫魔、でなければ、盗賊か詐欺師か何かの類で、彼女から村の情報を聞き出し、悪さに利用するつもりかもしれない。


「キール男爵家は知っているか?」


「……勿論です」


 男の目的が自分の家と知って、マリーナはますます警戒し、緊張した。


「その令嬢、マリーナ・キールのことも?」


「ええ」


 自分のことだ。

 アシフォード伯爵がマリーナのことを気にしていると知ったら、母と姉は歓喜するだろう。読み通り、彼は”シンデレラ”の噂に興味を持っていた。

 もっとも、残念なことにこの男は偽物で、魔物で、もしくは詐欺師か盗賊の類だ。


「なんでも、継母と意地悪な姉二人に随分と酷い目に合っているらしいが、それは本当なのだろうか?」


「なぜ、アシフォード伯爵がそのようなことを……気になさるのですか?」


 もう少し、離れたいが、森の小道はそれほど広くない。左手にガサガサと茂みが当たる。


「私はキール艦長のことを尊敬している」


 その台詞には、嘘偽りの響きがなかったので、マリーナは改めて男を見上げた。男もマリーナの方を見て、微笑みかけた。さらりと金の髪の毛が揺れた。


「私も……海軍に所属しているのでね」


 男の艶然とした笑みに心が動いたマリーナだったが、すぐに気を引き締める。


「アシフォード伯爵のお父上、チェレグド公爵はキール艦長の元で働いたことがあると聞き及んでいます。

そして、現在、アシフォード伯爵も、ウォーナー艦長の元にいるとか?」


「――その通りだ。ジョンは詳しいな」


「……私も、キール艦長のことを尊敬しています。出来れば海軍に入隊したいと思っていました」


 しかし、マリーナは女で、それは叶わない。


「そうか。頼もしいことだ。私が口を利こうか?」


「ありがとうございます」


 嘘吐きの割には、自信満々なのが気になる。本当に海軍に伝手があるような口調だ。まぁ、強制徴募隊に引き渡せば済む話でもある。


「ですが、私のことはウォーナー艦長もご存知ですので」


 暗に「自分にはしっかりとした伝手があり、あなたの口利きは必要ない」と言った。


「君はウォーナー艦長のことも尊敬しているんだね」


「はい! ウォーナー艦長はご立派な方ですから」


 マリーナの義兄であるジョアン・ウォーナーはキール艦長が認めた一人前の海軍士官であった。『夕凪邸』の希望の”明星”でもある。


「アシフォード伯爵もそう思いますでしょう?」


「――ああ。そうだね」


 ここで言葉が濁る。

 マリーナは憤慨した。嘘を吐くならば、徹底的にやって欲しい。ジョアン兄さまを褒め称えるなんて、恐れ多くもアシフォード伯爵を僭称するよりも、よほど簡単なことなのに。


「そうなんですよ!

ウォーナー艦長は素晴らしい人です。そして、その家族の人たちも、です。

噂なんて、嘘っぱちです!」


 姉の計画を壊すようだったが、彼はアシフォード伯爵ではないし、仮に本物だったとしても、構わない。噂は十分、”アシフォード伯爵”の気を引いた。それで十分ではないか。


「君はキール男爵家のことに詳しいようだね」


「はい。私、そこの人間ですから。村の誰に聞くよりも、間違いありません」


「そうか……君はキール男爵家の使用人なんだね。しかし、その姿を見ると、噂は本当かと思ってしまう」


「この辺の人間は、大体、こんな感じです」


 男爵家の令嬢としては、みすぼらしい姿かもしれないが、村の少年だったら普通の恰好か、それよりも身綺麗な方だ。つくづく世間知らずなのか、そのフリをしているのか。

 ビックリして固まっているのを見ると、どうにも嘘を吐いて居るようには見えないのだが。


「……なるほど。

では、マリーナ嬢とは実際、どのような娘なんだ?」


「それを聞いて、どうしようと言うのですか?」


「そう警戒しなくてもいいだろう。尊敬するキール艦長の忘れ形見が不遇な身の上ならば、私はかつての部下の息子としても、手を差し伸べたいと思っているのだ」


 至極、真面目な顔だったので、これも嘘ではないようだ。それでも、信用出来るとは言えない。


「ならば、ここで馬なんて洗っていないで、直接、『夕凪邸』を訪問すればよろしいのでは?

ウォーナー艦長が帰ってくると知らせがありました。副長であるあなたが訪ねて来てもおかしくはありません」


 雪白が自分のことを言われたと、後ろからマリーナの顔に鼻づらを押し付けた。


「……ごめんなさい! あなたも汚れたままじゃ嫌だものね」


 父親が連れてきた馬を可愛がっていたマリーナは、久しぶりのその生き物を撫でた。父亡き後、あの子を手放すのはとても辛かった。しかし、誰も乗ることの出来ない、満足に世話をするどころか、餌代すら覚束ない状態では、もっとよい飼い主を捜した方が幸せなのだと納得させた。


「でも、次はもう少し下流でお願いね」


 打って変わって、優しい声音が出る。


「雪白は綺麗好きなんだ」


 男が馬の鼻づらをゆっくりと撫でると、雪白は嬉しそうにいなないた。淫魔なら連れているのは、もっと違う生き物で、こんなに愛らしく賢そうな白馬ではないはずだ。

 飼い主は怪しいが、雪白は素晴らしい馬で、お金も愛情も惜しみなく掛けられている。

 ふと、馬を挟んでだが、男との距離が近づいてしまったことに気づき、マリーナは慌てて飛びずさった。


「『夕凪邸』には、後日、挨拶に行く予定だ。

その前に、いろいろと情報を集めておきたかったのだ」


「……え……なぜ?」


 なぜそんなにこの男はマリーナのことを知りたがっているのだろう。胡散臭すぎる。


「それは……」


「それは?」


「ここだけの話。君は私の味方になって欲しい。

私はマリーナ・キール嬢と結婚しようと思っているのだ」


「ええ!?」


 マリーナは頭が真っ白になった。

 このアシフォード伯爵コンラッド・アーサー・ルラローザを称する、淫魔の如き艶やかさを持つ世間知らずな男が、彼女に求婚しようとしているというのだ。「顔の美醜については生まれつきのものだ。贅沢は言わない。が、性格と頭があまりに悪いと困るのだ」と苦虫を噛み潰したような表情で言う男が!

 呆気にとられている彼女に男はさらに付け足す。


「常識と良識も欠かせない。ついでに……」


「まだあるんですか!?」


「教育はするが、あらかじめ基本的な行儀作法もそれなりに身についていて欲しい」


「あなた、何様!?」


 チェレグド公爵家の嫡子・アシフォード伯爵と名乗る男に対し、マリーナは叫んだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ