059:蹴る馬も乗り手次第
アランは仕事が入ったことを喜んだが、当のモデル本人が飛び込んで来た時、これはなかなか大変な仕事になるぞ、と思わずにはいられなかった。
トイ商会の一人娘、アンジェリカ・トイは黒に近い茶色の髪をした社交界披露前の十六歳で、肖像画だけでなく、天使の絵のモデルにもなれるほど、大層、愛くるしい顔立ちのお嬢さんだった。ただし、黙っていればという注釈がつく。
まず、令嬢が大勢の男たちが集まる商業空間の表玄関に”飛び込んで来る”こと自体、あまり行儀が良い振る舞いではない。
おまけに開口一番、「こんなダサい外套なんて金輪際、絶対、着ないわ!」と着ていた外套を脱ぎ、床に叩きつけたのだ。
「ダサいって、アンジェリカ。昨日、仕立てあがってきた時は大喜びで、朝から気に入って着て行ったじゃないか」
服装以上にらしくなく、トイ軍曹は媚びるように妹を宥めた。ゴールドンはまたかと首を竦め、アランは自分が絵具代に売ったものよりも数倍……数百倍はしそうな外套が、令嬢の、これまた高価そうな靴に踏みにじられるという世の格差にため息を吐いた。
「嫌なものは嫌なの! お兄さま、新しいの作って」
「今季に入ってもう三着目だぞ」
それもまだ冬の入り口だ。
「それがなんだって言うの? 薔薇色のがいい。金糸で縁取った薔薇色の外套がいいわ」
どうやら街で見かけた令嬢が自分よりも素敵な外套を着ていたのがお気に召さなかったと見える。
そんな理由で新しい外套を作っても、結局は踏みにじられている灰緑の外套と同じ運命を辿るだろうことは、その場にいた一人を除いた全員が、アンジェリカを初めて見た人間すら予知することが出来た。
それがアンジェリカにも伝わった。彼女は癇癪を起す寸前となった。
だが、例外の人物が一人、呑気な声を上げる。
「まぁ! 薔薇色に金糸の外套も素敵ねぇ」
ミリアムだった。
彼女には踏みにじられている灰緑の外套も素晴らしく見えていたが、外套は何枚あっても困るものではない。むしろ、一着だけなんて誰が決めたのだろう。
「お洋服や気分に合わせて着たいわよね。私なら、一週間毎日、違う色の外套を着たいわ。
今日は灰緑の気分じゃないのよ。分かるわ。こんなどんよりした曇り空の下はやっぱり薔薇色よね。
もっと空気が冷えて澄んだ日の朝なんか灰緑は最高よ。もっとも、夕方出掛ける時は、明るい色にしたいわ。
例えば……」
一週間毎日、どころか、朝、昼、晩と外套を変えそうな勢いでうっとりするミリアムを、同じくらいうっとりとアンジェリカは見た。
なんて美しくて素敵な人なんだろう! 着ているドレスも最新流行で、誰よりも似合っている! おまけに、自分の趣味も褒めてくれた!
彼女が口すると、灰緑の外套も、さっきよりもずっと素晴らしいものに見える。そっとそれから足を離す。
「あの……」
アンジェリカは突然、借りてきた猫のようにしおらしくなった。それから兄の方をちらりと見た。それをトイ軍曹は妹が令嬢の素性を教えて欲しいのだと思い、ゴールドンに視線を繋ぐ。
「それは私も知りたい。ゴールドン?」
”ジョン”は知っているが、隣の赤毛の令嬢を初めて見たトイ軍曹は、これまた妹と同じく気になった。王宮でもこれほどの美人に出会ったことがない。
「ミリアム・”ウォーナー”嬢です」
ミリアムは優雅に膝を折った。「はじめまして」
もっとも、ミリアムは自分を見るトイ軍曹ほど、感銘を受けた様子はない。
「トイ嬢も。はじめまして。
いつもノラと仲良くして下さってありがとう」
「……! あなたが? あなたがノラの女主人?」
アンジェリカが入り口を振り向くと、困った様子のノラが立っていた。マリーナとミリアムを見て、ぺこりと礼をする。
「女主人……少し違うけど、そうよ」
「そうだったのね。ノラはいつも自分がお仕えするご令嬢はとても美人だと自慢していて――」
田舎から出てきた娘の言う”美人”なんて、たかが知れていると、内心、鼻で笑っていたアンジェリカは、その言葉が真実以上だったことを知った。
「ミリアムお姉さま? そう呼んでもよろしくて? お知り合いになれて嬉しいだけでなく、もっとお近づきになりたいのです。
またいらして下さいます?」
そう言いつつ、アンジェリカはもう一度、ノラの方を見た。
ノラとこれからも仲良くするかはミリアムの態度次第と言わんばかりだ。実に清々しい自己中心的な態度だ。
思わず王妃を思い出してしまったマリーナとアランの目が合い、すぐに互いに逸らした。
「いいわよ!」
ミリアムはアンジェリカの思惑など、毛ほども気にせずに、ただ嬉しそうに返事をした。
「ほ……本当に?」
これだけ美しい人ならば、もっと高慢かと思いきや、あまりに気さくだったのでアンジェリカは拍子抜けし、小細工をした自分を恥じた。まして、「私もあなたのような可愛いらしいお嬢さんと知り合いになれて嬉しいわ」と損得無しに言われたら、これはもう、帽子を脱ぐしかない。
「今日、お願いした品が出来上げる時にお伺いするつもりだけど、その時に会えるかしら?」
「ええ?」とマリーナはゴールドンを見た。それは先ほど、届けてもらう約束になっていた。しかし、ゴールドンは拝むような目でマリーナにすがった。お嬢さまのご機嫌を損ないたくないらしい。それに、アンジェリカが純粋に喜んでいる姿は、素直に愛くるしくて、ついつい絆されてしまう。
「妹が我儘ですみません」
トイ軍曹も妹の非礼を詫びつつも、その希望を叶えようとしている。一言で言えば甘く、それが妹の我儘を助長させているのだが、誰も咎めようとする者もないようだ。
「あら、気に入らない服を着たくないのは我儘じゃないわ! 女の子の権利じゃないの!」
ミリアムの明後日方向の憤慨に、アランは忍び笑いを漏らし、トイ軍曹は呆気に取られた。
「――そ、そうですね」
「そうよ! 私は我儘なんかじゃないわ!
なによ! お兄さまったら、私のお願い、ちっとも聞いてくれないじゃない」
「そんなことはない。欲しいものがあったら買ってあげるし、して欲しいことは何でもしてやるぞ」
揉み手をせんばかりのトイ軍曹の態度に、マリーナは首をかしげる。いくら妹想いでも、少し度を越している。
「でも、”ジョン”には会わせてくれないじゃないの! 一緒に連れて帰って来てって、言ったのに!」
自分の名前に、マリーナの身体はピクリと反応する。
そう言えば、トイ軍曹の妹が”ジョン”のことを褒めていたと聞かされた。すぐ近くのその”ジョン”が女の恰好でいるなんて知ったら、彼女はまた癇癪を起すだろうか?
マリーナは”ジョン”の方が自分の姿を偽っているのにもかかわらず、”ジョン”に戻りたくなった。
「アンジェリカ、”彼”は無理だ。諦めてくれ。その代わり、薔薇色の外套でも、なんでも仕立ててやるから」
アンジェリカは兄には何がなんでも反発するという態度を隠さずに言った。
「じゃあ、あの宝石をちょうだい。この間、”花麗国”の貴族が持って来たやつ。
あの紫水晶の首飾り」
「あれか? あれでいいのか?」
おそらく高価なものであろう宝石を”あれ”呼ばわりするトイ軍曹は、王宮の近衛兵姿の時とは別人のようだ。そのままゴールドンに確認の視線を送る。忠実なる番頭は渋い顔になった。
「申し訳ありませんが、あれは……ちょっと」
「買い手が決まったの?」
「いいえ、お嬢さま。
ただ売却するのを待ってくれと先方から頼まれ、保管しているのです」
「何よそれ! うちは質屋じゃないのよ!」
思い通りにならないことにアンジェリカは地団駄を踏みそうだ。
ゴールドンは「あちらに美味しいお菓子がありますよ。それに新しい宝石もあります」と宥めながら、アンジェリカを奥の部屋に誘う。どうやら大勢の前で言うには憚られる事情があるようだ。
「嫌よ。あれがいいの!」
宝石の事情と同様に、これ以上、アンジェリカに騒がれ、足止めを食らって人目を集めたくないマリーナは小さな声で助け舟を出すことにした。
「――宝石は流行らないのですよね? ミリーさま」
「え? ええ、そうね。宝石なんて、野暮だわ……多分」
自信なさげなミリアムの言葉だったが、とにかく我儘を言いたいだけのアンジェリカは大人しくなった。「それもそうね」とあっさり引き下がったので、ゴールドンは疲れた笑いをこぼす。
「もう行かないといけないの。また会えるのを楽しみにしているわ」
さすがに長居をしたとミリアムが暇を告げる。
「きっとよ。きっと来て下さいね」
アンジェリカはころっと機嫌を直し、熱烈に握手をすると出入り口まで付き添って見送った。
マリーナとミリアムは、立ちすくんでいたノラも一緒に馬車に乗せると、チェレグド公爵邸へと帰った。
***
「さて」とトイ軍曹は、アンジェリカを自室に戻した後、ゴールドンを見た。
「あのお嬢さんはどのような身分の、どういったお嬢さんなんだ?」
「どちらのお嬢さんで?」
反対に聞かれたトイ軍曹は「どちらもだ」と言い掛けて、優先すべきことを自分に思い出させた。しかし、”ジョン”をどういう名で呼んでいいのか迷う。”ジョン”ではゴールドンには伝わらないだろう。
「あー、あの栗色の髪の毛の若葉の……緑色の瞳の……」
「申し訳ありません。あの方はお名乗りにならなかったので存じません。
あの赤毛のご令嬢でしたら、なんでもチェレグド公爵家の客分というお話です。ミリアム・ウォーナー嬢です」
「チェレグド公爵の? ――”ウォーナー”?」
「はい」
しばし難しい顔をしたトイ軍曹は得心したように頷いた。
「――なるほどそうか……あのお方も人が悪い……いや、そうでもないか」
「はい?」
一人納得する坊ちゃんに、ゴールドンは不安になった。ジャック・トイは陸軍近衛隊に所属している。そしてチェレグド公爵は海軍大臣である。嫁欲しさに、例の派閥はトイ家の将来まで影響を及ぼすことを忘れていた。
「ところで、客が来る」
「はい? ……いえ、はい。お客さまですか? 珍しいですね」
トイ軍曹は近衛隊では自分の出自をあまり喧伝していなかった。なので、部下に酒場で奢っても、自宅に招待したことはない。
「――丁重に扱うように」
「それは勿論。坊ちゃまのお客人ならば。どのようなお方で?」
いつにない改まった物言いに興味を募らせたのも確かだが、相手の素性が分からなければ、的確な対応が出来ないこともあって、ゴールドンは質問した。
「そうだな……」
トイ軍曹はドアが閉まっている部屋にいるのにもかかわらず慎重に辺りを見回した。それから、信用できる使用人の耳元で客の名を囁き、大いに驚かせることになった。




