058:瑠璃も玻璃も照らせば光る
応接間を出て、馬車が待つ正面玄関に向かうためには、多くの人々が集まるロビーを抜けなければならない。そこでは、マリーナたちのように、応接間で対応されない人々が、窓口のような場所で投資の話や、自らの商品を売り込む姿が見られた。さらに待合場所には、順番待ちの疲れた顔が並んでいる。
男が一人、店員相手に粘っており、待っている人々は、新聞や隣の人との会話に夢中のふりをしながらも、「とっとと終わらせろ」とばかりにチラチラと視線を送っていた。
チェレグド公爵の威光でもって、すぐに対応してもらえてマリーナたちは、そんな訳で目立たないように移動したかったが、ミリアムの美しさは人の視線を集めずにはいられない。
多くの人たちが新聞から大っぴらに顔を上げ、もしくは会話を止め、あるいは椅子から腰を浮かせて、赤毛の令嬢を見ようとした。
そのせいで、静かになった空間に、男の声が響く。
「だからもっと良く見てくれよ! 私の絵、素晴らしいだろう?」
どうやら画家らしく、自分の絵を売り込みに来たらしいが、あまり相手にされていないようだ。
マリーナがそちらに視線を向けると「あっ!」と声が出そうになった。
王宮で見た顔だった。
その時よりも身なりは質素だったが、間違いなく”ジョン”を助けようと試みてくれたアランと呼ばれていた画家だ。
礼を言おうと足を踏み出した瞬間、ドレスの裾がまとわりつく。
自分が”女の恰好”をしていることを思いだして、慌ててアランから背を向ける。「先に行っています」
美を讃える観衆に頬を染めながらの優雅な笑みで応えていたミリアムに後ろからこっそりと声を掛けると、足早に出口に向かった。だが今度は入ってきた別の男と鉢合わせしてしまった。長い足で、一気に距離をつめてきたので、避けられなかったのだ。男は別にマリーナの進路を塞ごうとした訳ではなかった。ただ、後ろを向いて、付いてきた人間に何事か指示していたせいで、マリーナの存在に気が付くのが遅れただけだ。
マリーナと男は至近距離で互いに互いの存在に気付くことになった。
ここでも「あっ!」と声が出そうになったマリーナだったが、なんとか堪えた。
新しく入って来た男はジャック・トイ軍曹だった。
こちらはアランとは反対で、大層、立派な身なりだ。アルバートほど装飾が華美ではないが、布地はそれと同じくらい上質なものだし、普段、着崩している軍服とは違って、きっちりと着こなしている。無精ひげなど勿論なく、髪の毛も綺麗に撫で付けられており、袖と襟にはレースがあしらわれている……マリーナはちょっと笑いそうになった。
彼女はそのまま微笑を浮かべて表情を固定した。ある意味、驚いた時のアルバートに倣って固まったのだ。なるほど、内心の動揺を悟られないためには、固まるのも手である。
まるで「あなたなんて知りませんよ」と言わんばかりの態度でトイ軍曹に対面してみせた。
トイ軍曹は戸惑った。
その印象的な若葉の瞳を持つ人間は、自分に対して素知らぬ顔をしているが、間違いなく知った顔の少年だ。だが、目の前の人間は女だった。今、流行のドレスを身に着け、柔らかい身体の線を見せている。首に何か掛けているのだろう。ドレスには似合わない皮の紐が、双丘が作る谷間に消えていく。
思わずそこに視線が釘付けになってしまったことに気付き、トイ軍曹は目を逸らす。
「失礼」
「いえ……」
出来るだけか細く、女性らしい声でマリーナは答えた。
トイ軍曹の視線は恥ずかしかった。知らない人間にドレス姿をみられるよりも、知っている人間にそうされる方が、ずっと気恥ずかしいことをマリーナは知った。
「坊ちゃん、お帰りなさい」
マリーナとミリアムを見送るために付いてきたゴールドンがトイ軍曹をそう呼んだ。
「坊ちゃん?」
この筋骨隆々で大柄な男が「坊ちゃん」とは、似つかわしくない言葉に思えた。
本人もそう感じているのだろう。渋い顔をした。が、訂正はしない。しても無駄なことを、彼は長年の経験から分かっていた。
「はい。
ジャック・トイさまです。
我がトイ商会の後継ぎでございます。
お見知りおき下さい……えっと……お嬢さま」
ゴールドンはチェレグド公爵邸からやってきたもう一人の令嬢の名を聞いていなかった。マリーナは名乗らなかったし、ゴールドンも聞き出そうとしなかった。客の中にはいろいろと事情があるものがいることも、彼は知っていた。
「ええ……!?」
トイという名でジャック・トイ軍曹を思い浮かべたことは事実だったが、まさかトイ商会の跡取り息子だったとは、普段の身なりと行状からは想像もつかない。
トイ軍曹は軍務についている時とは想像もつかない優雅さでマリーナの手を取り、「ジャック・トイと申します」と挨拶をした。
名乗られた以上、名乗った方がいいのだろうか。マリーナはどうすればいいのか分からず、やはり微笑を浮かべて、軽く膝を折っただけで済まそうとしたが、やや強めに手を握られ驚いた。
トイ軍曹の指が、手袋越しにマリーナの掌をなぞる。そして、彼はその若葉の瞳と栗色の髪の毛の令嬢の掌に相応しくないタコがあることを確認した。位置的に剣術をしている者に出来るタコだった。さらに化粧とベールで巧みに隠しているが、そのこめかみには新しく出来た傷があった。
「どこかでお会いしましたかな?」
紳士的な口調でトイ軍曹がマリーナに聞く。
「いいえ……」
ゴールドンが軽く咳払いをした。”坊ちゃん”の態度は、傍目には綺麗な令嬢に言い寄っているだけに見えた。「どこかでお会いしましたかな?」なんて、女を口説く常套句のようなものだ。将来、トイ商会を背負う男にしては、独創性も工夫もなさすぎる。が、気に入った女性が出来たことは歓迎すべきことだった。いつまでも軍務に就いて、遊びでしか女と付き合わない跡取り息子を、ゴールドンを始めとした使用人たちは心配していたのだ。王太子に妙な噂が付いて回っていることもあって、その王太子の部下であり、信頼厚いトイ軍曹にも疑いの目がかけられるようになっていた。
お相手がチェレグド公爵との縁がありそうな令嬢ならば、尚、申し分が無い。
ゴールドンがさて、どうやって彼女を足止めしようかと算段を始めた時、邪魔が入った。
「いやぁ、トイ商会の若旦那! 私の絵を見てくれませんかねぇ!」
アランがトイ軍曹を商会の御曹司と知り、使用人たちを飛び越え、直訴してきたのだ。
手には素描の束があった。彼はその中から特に一枚を選び、御曹司に見せた。
「最新の作品ですよ。画材がなくてこの仕上がりですが、これ……この瞳を見て下さい。
この若葉の緑を再現する為に、外套を売って絵具を買いました。
見事な若葉の瞳でしょう? 出来ればこれを完成した作品にしたいのです」
アランが描いたのは”ジョン”だった。王妃の求めではなく、自らの意思で、その姿を思い出しながら描いていた。
トイ軍曹もその絵が”ジョン”の肖像だとすぐに気付いた。なんといってもマリーナの若葉の瞳は印象的だ。アランの絵を受け取り、横目でマリーナと見比べる。
「あの……その絵、私に譲って下さい」
堪らずマリーナが声を上げた。アランの腕前は見事だった。芸術的かどうかは分からないが、”ジョン”の姿は忠実に捉えていた。
それに、王妃から助けてくれようとした恩がある。見ればアランはあまり裕福ではないようだ。”花麗国”から逃げてきた貴族のように売る宝石もなく、描いた絵も売れず、王宮に上がるのに、一張羅を仕立てたというのの、王妃に取り入ることに失敗した。これからさらに寒くなるというのに、外套を絵具代にしてしまうなんて。
絵を一枚買うことで、少しばかりのお金を渡すことが出来る。
「……! 買って下さいますか? ありがとうございます!」
アランはマリーナの手を取り、大袈裟に喜んで見せた。
「あら、私にも見せて!」
ミリアムがアランの手から絵を受け取る。マリーナはミリアムが絵を破きはしないか、ヒヤリとした。アランは絵に描いたような美しさのミリアムに見惚れた。ただし、その賛辞と服装にやや軽薄なものを感じて、残念に思う。
「いいわね! とってもお上手だわ! 私の姿も描いて欲しいくらい!」
「ミリー……さま」
突然の姉の申し出に、マリーナは驚く。
「あら、宝石は駄目でも、こっちは構わないでしょう?
人は芸術を愛し、それを生み出す者を支援をしないといけないんですって、マダム・メイヤーがおっしゃっていたわ」
「マダム・メイヤー!?」
アランが上げた声と表情は、不愉快そうな響きを帯びていた。
「そうよ? もしかして、お知り合い?」
同じ”花麗国”出身ならば、全員が顔見知りだと思っているような無邪気なミリアムの様子にアランは警戒を解く。
「いいえ……評判は存じておりますが……」
「そうなの。彼女、素晴らしいわよね」
「そのようですね」
皮肉っぽい同意だった。
「失礼……あー」
トイ軍曹がミリアムから”ジョン”の肖像を救出した。いつの間にか、それはなぜかくしゃくしゃになっており、破れる寸前だった。描いた画家もそれには感謝の視線を向け、名乗った。
「アランです」
「ああ、アラン殿。少しお話を聞きたい。
――そう、私の妹の肖像をお願いしたくなったのでね」
「――!? なんと! トイ商会のご令嬢のですか!?」
先ほどまで相手にもされていなかった画家は、一気に二人分の絵の注文を受けることになった。




