055:物は相談
チェレグド公爵邸でゆっくり養生したマリーナは、体調と気持ちが落ち着くに連れ、アルバートの元から逃げ出すような形で王宮から辞したことを後悔し始めていた。
しかし、こうしてミリアムと話してみると、帰ってきたこともあながち悪い事ではなかったと思い直した。
王宮という広いようでいて、王太子とほぼ二人きりの空間では、マリーナの視野は狭くなりがちだったのだ。
「ようやく元気になったわね」
ミリアムが見上げるマリーナの額には傷があった。
王宮で何かあったらしい。王妃はやはり恐ろしい存在のようだ。
そうでなくとも、マリーナの精神が閉塞感に包まれ、いつもの活き活きとした前向きな妹ではないとミリアムは感じていた。
自分の母親に対して、あんなに怒るなんて、尋常ではない。
「……はい。ありがとうございます。ミリー姉さまとお話出来て良かったです」
「私はなんにもしてないけど、でも、役に立てて良かったわ。
マリーナはいつも私たちの為に働いていたでしょう?
頼りにならない姉で悪いと思っているのよ。
役に立たないだけならともかく、なんでも壊しちゃうんだものね」
ミリアムは、はぁ、と壊してしまった父親の形見を見る。
「いいえ……私……私が『夕凪邸』を守らないとって、意気込んでいました」
今思えば不遜な考えだった。マリーナは頬を染めた。キール夫人がいたというのに、自分こそがキール男爵家の家長の如き振る舞いだった。
事実、『夕凪邸』でキール男爵の血を引く人間は、マリーナしかいなくなっていたが、それでも、まだ十五、六の娘が抱えきれるものではない。
「お母さまにも申し訳ないことをしました」
自分だって前のキール夫人”イヴァンジェリンさま”と今のキール夫人を比べていたこともあったかもしれない。
それなのに、今のキール夫人はミリアムと同じく、それに拘ったりはしていなかった。少なくとも、マリーナにそれを見せるような振る舞いはしていない。
誰だって、心の中に”幻想の乙女”や”守護艦”があるのだ。
そう思えば、アルバートも『ジョンは自分と海軍士官を比べる』と不満そうに述べていたこともあったではないか。
何もマリーナだけがヴァイオレット妃と比べら、虐げられていた訳ではない。
「またそんな悲しそうな顔しないで。せっかく、元気になったのに。
お母さまは気にしてないわ。マリー姉さまに似て、呑気な性格だもの」
「え……ええ……」
どちらかと言えば、ミリアムに似て楽観的ではないかとマリーナは思ったが、言えない。
「そうねぇ……マリー姉さまは怒るかもしれないけど、許してもくれるわよね」
ミリアムは手をぎゅっと握り締めた。
「決めた! 私、やっぱりマリー姉さまに謝ろうと思う!」
「ええ!?」
突然、決然と顔を上げた姉に、マリーナは驚く。
「私もマリーナと話せて良かったわ。
考えてみれば、私、『夕凪邸』にいた頃は、随分とあなたの両親の形見の品を壊したわね。
それなのに、マリーナはちっとも怒らなかった。私も、もう仕方がないことだと、隠しもしなかった。
――嫌だ……私って、最低ね。ごめんなさい」
改めて、自らの粗忽を恥じたように、ミリアムが謝った。
「そうだと言うのに、自分の父親の形見を壊したことに関して、あなたに嘆くなんて……」
「いいえ。私の両親の形見はたくさんありましたから。
でも、ミリー姉さまは違いますでしょう?」
マリーナはウォーナー海尉の形見といえるものを、ジョアン、ローズマリー、ミリアムの三兄妹以外、初めて見た。もっとも「そんな小さな鯨の歯の彫刻よりもずっと立派で素晴らしい形見だと思います」
そう付け加えると、ミリアムは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。マリーナは優しいわね。
それに『夕凪邸』が燃えた時、言っていたわね。
『物はなくなっても、思い出は残っている』と。
その通りだわ。第一、これはそこまで壊れていない。
すっかり元通りにならなくても、それなりに直せばいいの。
マリー姉さまには父の記憶があるもの、それで我慢してもらうわ。
――父との思い出が無いのは、私だけ……」
拳を開くと、通し穴が壊れた鯨の歯の彫刻が現れた。さすがに、握り潰されたりはしていない。
「一緒に謝ってくれる?」
「ええ……! 勿論です! ミリー姉さま!」
寂しげな姉の願いに、マリーナは力一杯、答えた。すると――。
「本当にマリーナったらお人よし。
だって、これ、壊したの、あなたに何の責任も無いっていうのに、一緒に怒られてくれるなんて!」
「ええ!!」
あんまりな言い分に、脱力しかけたマリーナだったが、ミリアムの魅力的な笑みに見惚れた。
「冗談よ。
ありがとう――私の可愛い妹」
***
昼寝から起きたローズマリーは、壊れた父親の形見を見て、「やっぱり」とため息を吐いたが、怒った様子はなかった。どちらかといえば、呆れていると言った方が大きそうだ。
「知ってたの?」
「当たり前でしょう!
何日も前から姿が見えなくなって、あなたがチラチラ、チラチラ、私の様子を見たら、これはもう、壊したに違いないわ、と予測がついたわ。
むしろそれ以外に、何があるっていうのよ!」
「ひどいわ! マリー姉さま! 知っていたら教えてくれてもいいじゃないの!」
ミリアムは、またもや姉の掌の上で踊っていたかと思うと、悔しさが先に立ち、地団太を踏んだ。
姉の前で、妹はついつい子どもっぽくなってしまうのだろうか。甘えることの出来る相手がいるのは良いことだと、マリーナは微笑ましく思った。
「あなたが素直に白状するまで待っていたのよ。
良かったわ。こっそり直しに行こうだなんて、馬鹿な真似をしないで、こうして相談してくれて」
「――ごめんなさい」
「いいわ。これは私だけでなく、あなたの物でもあるんだし……」
結局は、ローズマリーはミリアムを許した。妹は姉に甘え、姉は妹に甘かった。
もっとも、その大事な父親の形見を何をどうしてそうなるのか、「ありがとう!」と言ったと同時にポーンと盛大に手から離してしまったのには、苦言を言わずにはいられない。
「これ表面が綺麗に磨かれているから、滑るんですもの」
複雑な模様は滑り止めにならないというのだろうか。
鯨の歯の彫刻は勢いよく床の上を跳ねながら転がり、扉の所でようやく止まった。
それを拾い上げに行ったミリアムは「あれ?」と顔を上げる。
「いやだわ、扉が開いてる。
すきま風が入ったら、マリー姉さまの身体に悪いじゃないの」
安普請の家ならば、ミリアムが勢いよく開け閉めしたせいで、扉がきちんと閉まらなかったと思うところだろうが、ここは重厚なる公爵邸である。
ローズマリーが扉の所に行くと、顔見知りの使用人が険しい顔でこちらにやって来て、彼女の耳元に囁く。
「申し訳ありません」
「聞かれたかしら?」
「いえ、すぐに追い払いました」
「なら良いけど、気を付けないといけないようね」
ローズマリーの視線の先には、廊下の床に落ちた"石炭"があった。
「マリー姉さま?
いつまでもそんな寒い廊下にいたら風邪を引いてしまいます」
マリーナは小姓の癖が抜けきれないのか、自分で暖炉に新しい"薪"をくべていた。
***
ミリアムはチェレグド公爵に申し出て、修理の為に街に出掛ける許可と、馬車を出してもらうことにした。
ウォーナー海尉の形見を見たチェレグド公爵は驚いた顔をした。「私はウォーナー海尉とは面識がなかったが、なかなかどうして、素晴らしい御仁だったようだね」
「どういうことですか?」
キール艦長の形見として渡された鯨の歯の彫刻とほぼ同じものをウォーナー海尉も持っていた。
そして、どちらも”お守り”として、それぞれの娘に渡されていた。
それには何か意味があるのだろうか?
マリーナは自身の物を取り出して見せながら、チェレグド公爵に尋ねた。




