054:目から鱗が落ちる
ミリアムがごそごそと取り出したものに、マリーナは見覚えがあった。それを見たのは初めてだが、似たような物を持っているからだ。まさに今、首からかけているのがそれである。
鯨の歯の彫刻。
同じようなに小さくて、細かい模様が彫られ、首に掛けられるように紐を通す穴が開いていた。だが、その穴は何か強い力で引っ張られたかのように壊れていた。
「壊れちゃったの」
正しくは「壊しちゃったの」だろうが、この際、それは置いておく。ミリアム・キールが物を破壊するのはいつものことであり、ローズマリーも心得ている。それなのに、今回ばかりはなぜ、こんなにも気にしているのだろうか、という点がマリーナには気になった。
「大事なものなのですか?」
「そう。私たちのお父さまの形見」
キール艦長ではなく、ジョアン、ローズマリー、ミリアム三兄妹の父、ウォーナー海尉のことだ。
「とても大事なものだからって、小さい頃から私は見たことはあっても触ったことはなかったわ。
いつもジョアン兄さまが持っていた。なんでも船乗りのお守りなんですって。
でも、私たちが王都に行くことになって、兄が置いて行ったの。お守りとしてね。
それでマリー姉さまが持っていたのよ」
それがなんだってミリアムの手に渡り、案の定、壊れてしまったかと言えば、彼女のもう一つの特徴、お洒落好きに関係があった。
「ほら、最近、素敵なサロンに出入り出来るようになったって言ったでしょう。
そこは”花麗国”の流行の発信源そのものなの」
兄や姉に叱られるという不安気な表情から、うっとりとしたものに変る。
「だからお洒落して行きたいでしょう?」
マリーナは首を傾げた。
手元にある鯨の歯の彫刻は見事な出来だったが、どちらかと言えば無骨で素朴な風合いのものだった。お洒落とは違うように見えた。が、ミリアム基準では、そうではないらしい。
「今の流行りは豪華で華美なものは逆にダサいって風潮なの。
宝飾品なんてもっての他。でも、やっぱり何かつけたいじゃない!
そんな中、この彫刻なら、きっと新しい流行が作れると思ったの。
こういうの私たちには珍しくないけど……ほら、昔、『夕凪邸』にいたリードもよくこんな風なものを作って見せてくれたでしょう?
だけど王都の人たちには目新しいかもしれないわ。
ねぇ、マリーナ。私が、王都の真ん中で流行の発信源になれるかもしれないのよ! それって素敵じゃない?」
「え……?」
マリーナの首がますます傾いた。
王妃のドレスは形こそ単純だったが、その布地に使われた絹、細かく施された刺繍、縫い付けられた真珠、そして首や腕を飾るのは大粒の宝石だった。
そのことをミリアムに話すと、彼女は肩を竦めた。
「そうなんだ……じゃあ、王妃さまは流行をはき違えているってマダム・メイヤーが言っていたのは本当なのね。
ああ、マダム・メイヤーと言うのは、それこそ”花麗国”の最新流行の先導者よ。とっても素敵な着こなしなの。
その人は王妃さまの衣装にも相談に乗っているそうなんだけど、まるっきり分かってないって」
「そうなの?」
王宮の衣装係・ローレンスは、王妃が”花麗国”の流行に拘泥するのは、自分が優位に立ちたいからだと言っていた。実際、王宮では王妃は流行の先導者として誉めそやされていたはずだ。
「――うーん、よく分からないけど、そうみたいね。
だって、私が参加しているサロンじゃ、そう言われてる。
所詮は形だけ真似して、お洒落の神髄を知らないんだって」
王妃は結局は、嘲られていたのだ。彼女は人から尊敬されたい、一目置かれたいと願っているのに、それは叶えられないのだ。
しかし、マリーナはもう同情しようという気持ちはなかった。王妃が蔑まれているのはもはや誰のせいでもない。努力してはいるのだろうか、その努力は歪んでいる。
形だけは王妃だが、その神髄を知らない。
マダム・メイヤーが何者かは知らないし、”花麗国”の人間と思われる女性がエンブレア王国の王妃に対して無礼な発言をしているのを許容していいのか分からないが、王妃を的確に表現していると言えよう。
それでも、マリーナの気分は暗くなった。じゃあ、王妃の真髄ってなんだろう? と聞かれたら、誰が正しく答えられ、実践出来るのだろうか。”花麗国”のヴァイオレット妃なら出来ると言うのだろうか?
「そんな顔しないで……ごめんね、嫌なこと言って。
私もそういうの好きじゃないわ。マダム・メイヤーは素敵な人だけど、王妃さまにはあたりが強いの。
きっと、同じ流行の先導者として対抗しているんだわ」
「そこにミリー姉さまが割って入るのですか?」
そのマダム・メイヤーは随分と強気のようだ。
一心に慕ってくるからこそ、ミリアムはサロンへの出入りを許されているのだろうから、それに反旗を翻すような真似をすれば、即、追い出されるのではないかとマリーナは仄めかした。
「そうか……それはちょっと怖いかも……」
ミリアムはマリーナの言葉を素直に受け取った。
父親の形見である鯨の歯の彫刻を摘み上げる。
「きっとミリー姉さまのお父上であるウォーナー海尉が、やめておきなさいって注意して下さったのでしょう」
「そうかしら?
ジョアン兄さまがずっと首から下げていたから、紐が古くなっているって、マリー姉さまが革製の頑丈なものに変えちゃったのよね。
小さな穴には合わなかったのよ。だから、ちょっと引っ張っただけで壊れちゃったんだわ」
ジョアンのことを言われると、マリーナの心がさざめいた。自分の鯨の歯の彫刻を握りしめると、もう一つの感触が主張してきた。王太子のボタンだ。
「でも、マリーナがそう言うのなら、そうかもしれないわ。
そもそも、通し穴が無くなっちゃったから、つけられないもの。
――そうよ! 壊れちゃったの!!」
話が元に戻った。
ミリアムは兄と姉が大事にしていた父親の形見を壊してしまったのだ。幼い兄妹を残し、早くに海の泡と消えた父親の、おそらく唯一の形見だろう。
それを自分の虚栄心の為に持ち出して、壊した。さすがのローズマリーも許さないかもしれない。
「だから、見つかる前に直したいの」
「直せるのですか?」
「分からないわ。でも、王都ならどんなお店もあると思わない?
マリー姉さまに見つかる前に、こっそりと元通りにしてくれるような……」
エンブレア王国は広く交易をおこない、商船は東の果てまで航海をしている。王都には無いものは無いと思われるほど物が溢れてはいるが、そう都合が良い店があるだろうか。そもそも鯨の歯の彫刻が珍しいから持ち出した、というのならば、それを修理する店も少ない気がする。
しかし、ミリアムは楽観的だ。
「それでパーシーにお願いして一緒に探しに行って欲しかったのに――」
「そう言えば、パーシーが見つからないと言っていましたね」
『夕凪邸』で助けられて以来、ミリアムはパーシーのことを追いかけまわしていた。
相談という名を借りて、本当は彼と街を歩いてみたいのかもしれない。
マリーナもかつてパーシーに憧れの気持ちを抱いていたので、ミリアムが彼にお熱になるのも理解出来た。パーシーは少し年上だが、それだけに大人で、頼りがいがある。村の女たちにも人気があった。
けれども、パーシーは特定の誰かと深く付き合うようなことはしなかった。
「まぁ、パーシーは私のことなんてどうでもいいんだわ。
パーシーはマリーナが大事なんだもの。
嫌だ、これ、嫌味じゃないわよ」
「分かっています」
つい愚痴が出たミリアムが自分の口を両手で塞いだので、マリーナは誤解していない旨を微笑むことで伝えた。ただ、その笑みはすぐに陰った。
「――パーシーは、私が大事なんじゃないわ」
「マリーナ?」
「パーシー”も”、”イヴァンジェリンさま”が好きなのよ」
思えば彼も、いつも何かと言えば”イヴァンジェリンさま””イヴァンジェリンさま”と口にしていた。キール艦長への忠誠心は疑わないが、その中にはエリザベス・イヴァンジェリンへの恋慕の情がある一定の割合を占めているに違いない。
近所の女ではパーシーは満足出来なかったのだろう。王宮で貴婦人を見てきたマリーナが、それでも最も美しいと思うミリアム・キールですら、彼の心を動かすことが出来ないほど、その想いは強い。
「……」
そのことはミリアムも想定していたのだろう。否定することも肯定することもしなかった。
「ああもう! ジョアン兄さまもパーシーも、国王陛下も!
みんなイヴァンジェリンさまが好きなのよ!」
マリーナは思わず立ち上がって憤った。
手に入らない”幻想の乙女”という一点で、王にとってのエリザベス・イヴァンジェリンは、王太子にとってのヴァイオレット妃だった。
「お母さまはずるいわ!」
「マリーナったらどうしたのよ、急に。そんな風に言うものじゃないわ」
いつも自分が言う台詞を妹に盗られた姉が、柄にもなく窘めた。
マリーナはますます興奮した。
「だって! もう一生、会えないかもしれない女性が、好きな人の心を占めているんですよ。
自分の中でどんどんと理想化されていく人と、現実に顔を付き合わせ幻滅されていく人。
勝ち目が無さすぎます!」
ミリアムはマリーナがジョアンのことを言っているのだと思った。
「ジョアン兄さまは、マリーナのことちゃんと見ているわ……幻滅なんてしてない。
ただ、ジョアン兄さまは自分に自信が無かったのよ。公爵令嬢の娘と結婚するには武勲も名誉も足りないって……悩んでいたに違いないわ。
まぁ、そこがお兄さまの良い所で、悪い所よね」
「え?」
「え? ……ジョアン兄さまじゃなかったの? マリーナの好きな人って」
「え……ええ」
以前までは……しかし、その想いは断ち切ったはずだ。
では、自分は誰を指して”好きな人”なんて言ってしまったのだろうか。
マリーナの手はまたもや胸の鯨の歯の彫刻に向かった。それなのに、指で探り当てたのは複雑な模様が彫刻されたそれではなく、一緒に吊るされている王太子のボタンだった。
王宮勤めをしてすぐの時には、アルバートがヴァイオレット妃の心配をしても納得出来ていたのに。それが段々と不愉快の方に大きく傾いてきていた。
アルバートがヴァイオレット妃のことを気にすることも、それを許せない自分も嫌になってくる。
従妹であるヴァイオレット妃の置かれた立場は深刻で、アルバートが心配するのは当然のことだというのに。
「私も”意地悪”なんだわ……お母さまと同じ……」
「マリーナ?」
「――ミリー姉さまは悔しくないのですか?
”幻想の乙女”と比べられることが――」
マリーナの問いかけ以前から、ミリアムはきょとんとしていた。パーシーが”イヴァンジェリンさま”のことを想い焦がれていることを、さほど気にしている様子がなかったのだ。
それがマリーナには不思議だった。
ミリアムはその疑問にからからと笑った。
「なぁに、”幻想の乙女”って。
イヴァンジェリンさまと私は違うもの」
あまりに当然のように、当然のことを言われたマリーナが、こんどは呆気にとられた。
「そりゃあ、イヴァンジェリンさまは素敵な方だったわ。
私ではとても敵わない」
「……そんなこと」
「いいえ。そんなこと、あるわ。
あなたのお母さまは美しくて、お洒落で、”花麗国”語を自由に操り、優雅で素晴らしい淑女だわ。”幻想”なんかじゃなく、”現実”としてね。
早くに亡くなられたのは残念なことだったし、みんなが想い慕うのも当然のことなのよ。
まずはそれを認めないと。
その上で、私にだってイヴァンジェリンさまとは別の、私なりの魅力があると信じないと。
そこを……その……パーシーに見て貰えればいいなって……」
見事な赤毛のミリアムは、同じくらい顔を真っ赤にした。
その姿は本当に美しかった。容姿は抜群に良いミリアムだったが、それだけではない魅力があった。
王妃とは真逆だ。
「ミリー姉さま」
マリーナは感嘆した。
自分が拘っていたことが愚かなことだったのだと思った。
ヴァイオレット妃はヴァイオレット妃で、自分は自分じゃないか。
拘るべきはそこじゃなかった。
同じような立場のミリアムがごく簡単に指摘してくれたおかげで、マリーナにも容易に受け入れることが出来た。
先に王妃と対決していたのも大きかった。ああはなるまい。そして、ああなるのは、誰のせいでもなく、自らの気持ちの持ちよう如何なのだ。
「ミリー姉さまはすごいですね」
「あら? そう? やっぱり?」
楽観的なのも悪くない。大いに歓迎すべきものだった。




