052:百聞は一見に如かず
マリーナはひどく傷ついていた。王妃につけられた額の傷よりも、アルバートの態度が彼女を苛んだ。
やはり無理だ。”小姓”として王太子に仕えることは出来ても、”王太子妃”としては無理だ。
「だって、ヴァイオレット妃みたいな理想の妃にはなれないもの!」
公爵家の血を引くとはいえ、生まれは男爵令嬢。田舎育ちでも令嬢としての教育をしっかりと受けていればまだしも、男の恰好をしながら、下働きのような事をして過ごしていたのだ。
権謀術数渦巻く宮廷での優雅な身のこなし、如才無い対応など、どうやっていいのか分からないし、やりたくない。
「お母さまのように”意地悪”にはなれない」
寝台に突っ伏し、王太子のボタンを握った。
あの時も、アルバートは少し変だったが、今日ほどではなかった。きっとヴァオレット妃のことで気が立っているのだと分かっていても、マリーナは悲しかった。いや、きっと、ヴァイオレット妃のことだから、嫌なのだ。
「王妃さまと同じ……。幻想の乙女とずっと比べられるのは嫌」
自分もあの恐ろしい王妃のようになってしまうのは嫌――。
気分が悪い。朝から体調が悪かったが、王妃に会ってからずっと頭が痛くて、吐き気までしてきた。お腹も痛い。
勿論、心が一番、痛い。
どうすればいいのか分からなかった。明日の朝まで、この体調と気分の悪さを治せるだろうか。そもそも、アルバートはまた自分を必要としてくれるだろうか。のこのこと王妃に会いに行き、危険な目にあってしまった愚かな小姓を。
マリーナはチェレグド公爵家から”良く効く”薬を持たされていたことを思い出して起き上がった。
が、その瞬間、眩暈を起こしてへたり込んでしまった。
「いけない……」
すると全てを見抜いていたかのように、彼女の扉のドアが控えめに叩かれた。ローレンスが来たのかと思いきや、女性の声が「マリーナお嬢さま」と呼んだ。
***
チェレグド公爵が王宮を辞して、自身の馬車に乗ろうとすると、従僕が心得たように頷いた。
馬車の中には彼の姪、マリーナがうずくまっている。かなり参っているようだ。
チェレグド公爵は何も聞かずに、馬車を公爵邸に進ませた。「なるべく静かに、しかし、速く頼む」
***
アルバートは何事もなかったような顔をして王妃に夕方の挨拶に赴いた。王妃はいつも通り、息子を機嫌よく迎え入れた。その息子の心が自分に対してすっかり閉ざされているのも気が付かずに。
それどころか、アルバートはいつになく、自分に優しいとまで感じていた。
夕食を共にした。楽しくて、つい、王が離宮に入り浸りなことへの愚痴や、”花麗国”関連についての”己の見解”など話しすぎたが、アルバートはその全てを受け入れ、肯定してくれた気分になった。
もっと話していたかったが、女官長のハンナが王妃に目配せをする。
「嫌だわ。もうこんな時間なのね。
子どもはもう寝る時間だわ。
おやすみ、私のアルバート。良い夢を」
もうじき成人になろうとしている息子に、赤ん坊に向けたような声で言った。
しかし、それすらもアルバートは嫌な顔一つせずに微笑んで受け入れた。
「おやすみなさい、王妃さま」
***
ようやく戻った自室で、アルバートはマリーナの姿が見えないことに、大きな喪失感を抱いた。彼女がいなくなった部屋は、広くて、あまりに寂しい。
彼は寝台に横たわり、眠ったふりをした。”ふり”などしなくても、とても眠れそうにない。
チェレグド公爵に請け負ったように、マリーナは王宮に”満足”したのだ。出来ればもっと穏便に”満足”させてあげたかった。しかし、この王宮とあの王妃では、それは端から無理な相談だったのだ。
女の子の顔に傷がつくなど、許されることではないと言うのに、”あの程度”で済んで良かったとチェレグド公爵が言ってくる有り様である。
延々と自分を責め続けた後、彼は深夜に起き出した。寝巻を脱ぐと、ローレンスにこっそり頼んでおいた、服に袖を通す。
「練習しておいたことが役に立ったな」
なるべくボタンは大きく、数は少ないものを、と注文しておいたおかげもあって、無事に一人で着替えられる。
「もしかして、私が一人で着替えを出来ないのは、こうやって勝手に外に出られないようにか?」
火を灯していないランタンを持つと、マリーナが図書室から借りて来た天文学の本、それから小さな望遠鏡を持つ。
「衛兵に見とがめられたら、星の観察をしていると言おう。”彼女”は良い口実を教えてくれた」
王宮は王太子の家である。庭をうろうろしていても、おかしくはないはずだ。
だが、彼は一度も、一人で夜の庭を歩いたことがなかった。
「それなのに、どうやら私以外の”誰か”は、我が物顔で歩いているようだ」
マリーナの部屋を通過する。ひんやりとした寝台が目に入るが、務めて立ち止まるのは止めた。
廊下に出て、左右を確認すると、自分の部屋の前に、衛兵が立っていた。心の中で詫びながらも、どこか楽しい気持ちになってきた。
そう言えば昔、トーマスが下町にお忍びに行く楽しさを教えてくれたことがあった。それと似ているのかもしれない。
「王妃は息子に危ないことを教えたと、ひどく怒っていたがな……」
お忍びと雖も、両親公認で、護衛は一人。
それを王妃は知っていた。
今、自分は一人の考えで、一人で行動している。
それを王妃は知らない。
あらかじめ入手しておいた警備計画を元に、アルバートは巧みに衛兵をかわし、王妃の庭まで来た。
新月に近い月のせいで、足元すらおぼつかないほど暗い。
「『暁城』ではもっと星が見えたはずなのに、王都ではほとんど見えないな。
これでは星の観察という言い訳は使えないかも。
――おっと」
アルバートはここに来るまで、三度、何かにつまずき、三度、何かにぶつかっていた。
秋の薔薇のむせかえるような香りだけが、より一層、際立つ。
王妃の部屋にはまだ、灯りがついていた。その灯りに向かって、もう一つの光が寄っていく。一人は王妃と同じような白いドレスに、黒っぽいショールを巻いている。
アルバートは自分が着てきた外套の胸元を掻き合わせた。
いくら流行っているとはいえ、秋風も冷たいこの季節には、涼しすぎる格好だったのと、彼女が自分の乳母だったこと。それからもう一つ。
その白いドレスの向こうに、闇に溶け込んでいる黒い姿があった。その姿に、言い知れぬ不吉なものを感じたのだ。
一つの灯りが、大きな灯りの中に消えて行く。
「男――?」
呟くアルバートの後で、薔薇の茂みが大きく揺れた。




