051:後悔先に立たず
薔薇を持ったまま、マリーナは自分の部屋に戻ろうとした。
帰ってみると、アルバートが部屋にいる気配がした。覗いてみると、王太子はすでに会議を終えたようだ。図書室の司書が持って来たのだろう、マリーナに頼んだ本を難しい顔で読んでいる。
「お戻りでしたか、殿下」
「……ジョンか。どこに行っていた――!?」
顔を上げたアルバートの目に、ハンカチで額を押えている”ジョン”の姿が入る。
「どうしたのだ!?」
「い……いえ」
マリーナはハンカチを外す。血はもう止まっている。前髪を手櫛でざっと整えて傷を隠そうとしたが、すぐに手を取られる。
「この傷はどこで? 誰に付けられたの?」
傷に触れないように、恐る恐ると言った風に前髪をかき上げられ、覗き込まれた。青い瞳は曇り、緑の瞳は揺らいだ。
「本を取る時に、頭の上に落としてしまいました」と、マリーナはアルバートから離れた。
自分一人では手に負えないのに、迂闊にも王妃に会いに行き、怪我をさせられるなど愚かな行為だった。無事に帰ってきたのだから、アルバートに余計な心配や悲しみを味あわせる必要はないのではないか。
彼が臨席した会議は結論が出たから早く終わったという訳ではなく、疲れ切った表情からは、どれだけ話し合っても無駄なのが早々に分かって、打ち切りになったと言う方が正しそうだ。
「殿下、会議は終わったのですか? お疲れでしょう。紅茶を淹れますね」
「……」
マリーナの心遣いはアルバートには届かなかった。
彼は疲れていたし、苛立っていたし、悲しかったし、優しい言葉を欲していた。が、それよりも隠し事をされたことに傷ついてしまった。
「私はそんなに頼りないかな」
アルバートの手にはマリーナの借りてきた本があった。百年ほど前の有名な海軍提督の航海日誌だ。彼は艦長という孤独な職に耐え、部下を鼓舞し、任務を全うした。
マリーナの理想はそんな”立派な艦長”なのだ、と思うと、自分の至らなさや非力さが、ほとほと嫌になってくる。
ましてよかれと思って目を離した隙に、愛する女性は顔に傷をつけてきた。
本が落下云々は嘘だろうことはすぐに分かった。
なぜ隠すのだろう。それは――「母上……か……」
先ほどまでの会議とは違い、少し考えればすぐに辿りつき、満場一致の賛同を得るその結論に愕然とする。
「申し訳ありません」
「なぜジョンが謝る? それをしたのは母上なのだろう?」
「私が王妃さまに会いに行ってしまったからです」
淡々とマリーナは事実を認めた。
「会いに行っただけで顔に傷を作って、君が謝るの? どうして?」
「それは……」
「そもそも君が望んで会いに行ったの? それとも呼ばれて?」
「――呼ばれました」
「誰に?」」
アルバートの口調に苛立ちが滲んだ。
アルバートも疲れ、気持ちが荒んでいたが、マリーナだって王妃の元で身のすくむ思いをし、心が疲弊していた。いつになく厳しいアルバートに萎縮する。
「ロバートさまです」
アルバートが衝撃を受けたのが分かった。持っていた本が滑り落ちる。
それから途方に暮れたような顔で床の上の本を見た後、椅子に座ると顔を伏せた。絞り出すような声で「すまない」と言ったきり、固まった。
マリーナは、本を拾った。ページが折れていた。ミリアムが本を壊す度に、ローズマリーは「本だけは止めて」と心底、嫌そうな顔をする。「本を大事にしない人間は、許せないわ」
いつもは同意するが、マリーナは今回ばかりはそれはしないことにした。
そっと本を元の場所に戻すと、その上にストークナー公爵夫人からもらった白い薔薇を手向けのように添えた。
「紅茶を淹れますね」
アルバートは顔を上げた。彼が手ひどい扱いをした本はマリーナによって丁寧に扱われた。その本は海軍提督の航海日誌なのだ。それが悔しい。アルバートは未だ、怒りと悲しみから抜け切れていなかった。
マリーナは声を掛ける機会を間違えてしまったのだ。自分を律することが上手なはずの王太子だったが、今回の衝撃から立ち直るのには時間が足りなかった。
「いらない」
子どもの駄々のようにアルバートはマリーナに絡んだ。
「私が君の尊敬する海軍提督だったら……ウォーナー艦長だったならば、包み隠さず話してくれたのだろうね。王妃に呼ばれた時に、私に相談してくれたのだろね」
それはマリーナにとっても痛い所だった。
王妃を侮っていたせいで報告するまでもないと驕ってしまったのだ。その思いが強すぎて、アルバートが指摘したのはそこではないことが気付けない。
「申し訳ありません」
「いいや、謝ることはない。君が以前、言ったように、私は誰も守れないのだ」
燃え盛る『夕凪邸』の前での会話までもが引きずり出された。
「殿下……」
何を話しても悪く受け取られそうで、口ごもった。もう一度、王妃の前に立っているような気分だ。
黙れば黙ったで、アルバートはそれを悪く取った。
「私は誰も守れない。
その通りだ! 非力で、無様な、名前だけの王太子だ。
目の前の君も助けられないのに、ヴァイオレット妃を助けることなど不可能だと知ったよ!」
今度はマリーナが逆上した。
「ヴァイオレット妃?」
今の話の流れに、”花麗国”の王妃が何の関係あるというのだろうか。
マリーナはやっぱり比べられた気分になった。ヴァイオレット妃なら、自分のような愚かで迂闊な真似をしないだろう。
「そう……彼女をベルトカーン王国に嫁がせようという話になった――」
それが早く終わった会議で冒頭、持ち出された議題だった。
”花麗国”の混乱を納めるために、サイマイル王国と神聖イルタリア帝国との共同戦線を張るはずが、なぜかベルトーカン王国との同盟を口にする人間が現れたのだ。
未だ夫ある身の”花麗国”王妃を、ベルトカーン王国の国王に嫁がせるなど、もはや意味が分からないのに、数人が賛成の声を上げた。
アルバートはそこで激昂しかけた。いっそ、そうすれば良かったのだ。彼は自分の感情が母親のように不安定で、それを表に出すことを恐れるあまり、我慢することを学んだ。いつもはそれで上手くいった。けれども今回は、あまりに憤りが大きかったせいと、抑え込んだ分の怒りを消化できないままに次の怒りがやってきたことで、マリーナに対し、彼女の非以上に彼女を責めたててしまったのだ。
今にも泣きそうなマリーナを見て、アルバートはようやく冷静さを取り戻した。
「すまない」
今度は彼が謝った。
すると、今度はマリーナが曲解した。
ヴァイオレット妃を持ち出してきたことを謝ったと思ったのだ。
「いいえ。殿下」
冷やかな声を対照的に、熱い紅茶を淹れて差し出した。
「申し訳ありません。……部屋に下がっておりますので、用事があればお呼び下さい」
「――うん」
アルバートは蒼白な顔のマリーナを引き留める理由を見つけられず、子どものように頷いた。
マリーナが去った後、アルバートは自分が彼女を傷つけた行動を取ってしまったことを猛省した。いくら上手くいかないからって、苛立って、あんな風に当たるなんて、顔に傷をつけるのと同じくらい、酷いではないか。心の傷は目に見えないが、それだけにどう手当していいのか分からない。
「やっぱり……似ているのだろうか……母子だから……」
本の上にマリーナが置いて行った王妃の庭の白い薔薇があった。
マリーナが王妃の庭で、どんな目にあったのか、きちんとした報告が上がったのは、それから半時ほど経った後だった。アルバートはまたもや、己の力の無さと、王妃のやり口と、チェレグド公爵がらしくもなく激昂して会議を打ち切った本当の理由と、それからマリーナがどれだけ怖い目にあっていたか知った。優しい言葉と温かい紅茶が必要だったのは、自分ではなく彼女の方だった。それなのに、マリーナはアルバートを気遣って、その二つを与えてくれようとしていた――。
慌てて、マリーナの部屋に行くと、彼女の姿はすでに消えていた。




