050:窮すれば通ず
王妃の台詞は耳には入ったが、上手く理解出来なかった。
「へ?」
「その顔、潰してしまったら、妙な噂も消えるのではなくって?」
ようやく事態を悟ったマリーナは、冗談じゃない! と叫びたかったが、王妃の顔は本気だった。何人かの人間が、部屋からそれとなく出て行く。”少年”を助けることは出来ないが、しかし、肉が焼かれる臭いを嗅ぎたくはないという者たちだった。
「……お許しください、王妃さま。ロバートさまに聞いて下さい。王太子殿下は誰にでも親切でお優しい方です。
決して私だけが特別に扱われている訳ではありません」
「どうかしら?
見てご覧なさい、ロバートは小さい頃からアルバートの側にずっといるけど、そんな変な噂、一度も立ったことないわ。
それは、ロバートが誠心誠意、アルバートに仕えているからよ。邪心がないからよ。それが他の人間にも分かるの。
あと、あなたほど可愛くないからね」
王妃はロバートの忠誠を褒めてから、容姿を嘲った。それでも、ロバートは満足そうだ。
これは助けは期待できない。マリーナは瞬時に悟った。
その上、ロバートは王妃に積極的に加勢してくる。
「王太子殿下には顔で仕えるものではない。
少しくらい顔が崩れても、その分、心からお仕えすれば良いのだ」
「いや……それは違いませんかねぇ」
勇敢にもアランが声を上げた。
「私でしたら、自分のせいで顔を潰された人間が側にいたら、申し訳ない気持ちになります」
話をしている間は、礼儀正しさを装って、ペンを止めた。彼は自分が絵を描き上げるまで、猶予が作れると思ったのだ。
「なら、辞めさせればいいじゃない。こんなの代わりなんていくらでもいるわ。
あなたもよ、アラン。
私の姿ならともかく、こんなのに時間を掛けるような画家はいらないの」
アランはマリーナを見た。これ以上は自分では無理だ。健闘を祈る、と言ったところだろう。
マリーナはそれでも、彼に感謝した。自分の失態で招いた事態だ。見ず知らずの画家の将来を台無しにしてはいけない。だが、自分の顔は二目とみられないものになってしまう。
そっと、父親の形見の鯨の歯の彫刻と、王太子のボタンのある胸元に手をやる。なんとしても無事に王太子の元に戻らないと。アランが言った通り、小姓の顔が母親によって潰されたのならば、彼はどれほど悲しむだろう。
窮地に追い込まれた場合、どうすればよいのか。マリーナの心の港に停泊している守護艦の上で、海の男たちが手招いている。
『いざとなったら逃げるのだ。再戦の時に勝てば良い』
マリーナはそれとなく周りを観察した。多くの人間は遠巻きに見守っている。衛兵は表情も身体も微動だにしなかったが、彼女の意図を察したのか、後押しするかのように目線を外に動かした。
もっとも近くにいる王妃と女官長は走ったり飛んだりするのは苦手そうだ。画家は彼女を追ったりはしないだろう。
となれば、ロバートさえなんとかすれば、活路を見いだせる。
彼女は頭脳ではなく、脚力に訴えることにした。ロバートに捕まったら確実に拘束されるが、マリーナは小さくてすばしっこいので、もしかしたら逃げ切れるかもしれない。『東の森』でアルバートを撒いたように、薔薇園をうまく使おう。そんなに遠くまで走らなくてもいい。王妃の勢力範囲外にさえ出れば、助けを求めることが出来る。むしろ近衛の衛兵に捕まった方が、助かる可能性が高い。
決断の為に、ロバートを見れば、王妃の方を一心に見つめている。
一気に立ち上がり、駆けだそうとした瞬間、マリーナの前に障害物が立ちふさがった。
しまった!
二度目の失態に、今度こそ万事休すかと思いきや、それは思わぬ方向からやって来た助け船のようなものだった。
「王妃さま、トーマスに薔薇を下さいな」
薔薇咲き乱れる小春日和の庭園に、一気に極寒の吹雪が襲う。王妃の顔が凍りついた。
そこには赤い薔薇の園には場違いな、ピンクのドレスを着たストークナー公爵夫人が立っていたのだ。
ふふふ、と公爵夫人は笑った。ストークナー公爵夫人は真っ直ぐに王妃に向かって歩いてくる。その滑らかな歩行は、薔薇園を這う蛇のようだ。
実際、王妃にはそう見えただろう。
ロバートが憤慨して進みでる。
「無礼な! ここは王妃さまの薔薇園だぞ。許可なく入るのは許されない」
しかし、王妃の為に行動したのは彼一人であり、他の人間はここでも傍観を決め込んだ。
「トーマスは薔薇は好きだったのよ……あら、トーマスのお友だち」
ストークナー公爵夫人はマリーナを見て、親しげに近寄り、その場から連れ出そうとする。「ちょうど良かった。トーマスに持って行く薔薇を選んでくれる?」
「待て! 勝手なことはさせない!」
二人の前に憤怒の形相のロバートが立ち塞がった。足元に咲いていた花が踏みにじられた。
「おやめ、ロバート。
――好きなだけ薔薇を摘んで行くがいいわ。薔薇なんて、また咲くもの」
自分よりも格下の、大勢の賛同者を集め、自分の行動を肯定させなければ、王妃は小姓一人も嬲れない。それにたった一人でも異を唱える”強い”者が現れると、彼女の残虐な気持ちは、一転、気弱なそれに代わるのだ。
ストークナー公爵夫人は面と向かって王妃を非難したり、批判したりはしない。王弟の妻ではあるが権力がある訳でも無い。
だが、王妃にはその存在を恐れていた。彼女の心が、彼女の罪を知っているからだ。
それでも精一杯の虚勢を張り、「興が醒めたわ」と言い捨てて、部屋に入って行った。赤い薔薇の一団が続く。中には安心したようにマリーナの姿を見るものもいた。
ロバートは憎々しげにストークナー公爵夫人を一瞥したものの、王妃の命令である以上、好きにさせるしかなかった。
「ジョン、出来るだけ早く、この方を庭園から出してくれ。ああ、おかわいそうな王妃さま」
彼はマリーナが王妃に顔を潰されそうになったことを、疑問に思ってはいなかった。命を奪う訳でも無い。王太子の身の潔白の為に必要な措置をしようとしたまでのことと考えていたのだ。もし、自分が”ジョン”と同じ立場になったら、喜んで顔を差し出す覚悟があった。
それよりも、王妃を困らせるストークナー公爵夫人の方が、よほど深刻に捉えていた。ひとしきり嘆いた後、彼もいなくなった。
ふふふ。
その後ろ姿に、無邪気でありながら、どこかぞっとする響きがする笑い声が掛けられた。
「公爵夫人……なぜ、こちらに?」
結果的に助けてもらったことになるのだろうが、マリーナには王妃よりも彼女の方に、底知れない恐ろしさを感じてしまった。礼を言いそびれた。ともあれ、目前に迫っていた危険は去ったと見做して良いだろう。
「トーマスは薔薇が好きだったの。
手紙が来たのよ。私に素敵な薔薇を持って来てくれるって。
とっても珍しい色の薔薇を、探して見つけてくるって――だから私もトーマスに薔薇をあげないと」
珍しい色の薔薇を持ち帰る?
それまでのトーマスからの手紙とは傾向が違う内容だった。
「ストークナー公爵夫人、どうぞこれをお持ちになって下さい」
庭師がやって来て、公爵夫人がやたらめったら薔薇を切り落とさないように、自ら選び、切ってきた薔薇を差し出した。公爵夫人は両手いっぱいに薔薇の花束を持って、その中に顔を埋めた。
「まぁ、ありがとう。
これだけあれば、トーマスも喜ぶわねぇ」
そのうち、知らせを聞いたのか、ストークナー公爵が駆け付ける。
「申し訳無い。目を離したすきに居なくなってしまったのだ……君はアルバートの小姓だね。その怪我は?」
公爵はマリーナの額から血が流れていることに気付いた。
「薔薇の棘かい?」
夫人が傷をつけたのかと慌てた公爵にマリーナは首を振った。「違います」
庭師は薔薇の棘を全て取ってから渡していた。まるで、夫人が来ることをあらかじめ知っていたかのように――。
「ではどうして、そのような酷い傷を?」
王妃のことを言うべきか。
マリーナは迷ったが、公爵は「王妃さまだね」と自らのハンカチを差し出した。
「何があったのか教えてくれるね。
私はこれから王妃さまにお詫びをしてこないといけないのだ」
それがどんなに不条理なことであろうとも、夫人が王妃の庭に踏み込んだことは確かなことで、それは無礼な真似だった。
王太子の小姓が顔を潰されそうになった話を聞いた公爵は、大きなため息でもってその怒りと焦燥を現した。
「怖い思いをしたね。私からお詫びしよう」
「いいえ! あの、公爵夫人が来て下さったおかげで助かりました。
お礼を……ありがとうございました」
ストークナー公爵夫人が意図的にそうした訳ではないと分かっているだろうが、公爵はマリーナに微笑んだ。「そう言ってくれてありがとう」
「では、礼の代わりに妻が馬車に乗るまで付き添ってくれないか?
――セシリア、すぐに戻るから、私と一緒に家に帰るんだよ」
「トーマスは薔薇が好きなの」
「ああ、分かっている。私は君を愛しているよ」
公爵は夫人を薔薇ごと抱きしめ、頬に唇を落とすと、踵を返して、王妃の元へ向かった。
マリーナは公爵の従僕たちと一緒に、公爵夫人がまたどこかに行かないように見張りつつ、馬車に乗せた。
公爵夫人は馬車に乗る前に、マリーナに薔薇を一輪くれた。




