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005:縁は異なもの味なもの

 『東の森』には、”霊水”と讃えられる水が湧く泉があり、健康にも美容にも良いと地元で評判だった。そこでマリーナは天気が良いと日に三度、ローズマリーの健康とミリアムの美容のために汲みに通っていた。

 森と言っても、隣接するアシフォード伯爵のルラローザ家、キール男爵家、そして、大農家であるコーナー家の三者が共同で所有権を持ち、きちんと管理されていることもあって、明るく安全な場所となっていた。獣には注意する必要はあるだろが、それすらもマリーナにとっては喜ばしい獲物だ。

 父親が残した銃を背負い、剣を腰に帯び、鉈を手に持つ彼女はいっぱしの狩猟家気取りだった。滋養のある肉も、温かい毛皮もキール男爵家の女たちにはありがたいものである。

 しかし、キール男爵家は『東の森』の管理にそれほど貢献していないので、過度な狩猟は出来なかった。と言うか、装備こそ一人前だったがマリーナ一人ではウサギか狐を、それも罠を仕掛けて獲っているのが真実であり、大きな獲物は主にキール男爵家にたった一人いる男手によるものか、もしくは、狩猟許可を与える代わりに上納されるものであった。

 

「私に鹿が獲れたならなぁ……」


 兄のジョアンに新鮮な肉を出せるし、アシフォード伯爵をもてなすのにも使えるかもしれない。

 そこまで考えて、母と姉の陰謀に顔を顰める。


 本気でアシフォード伯爵と結婚しろと言うのだろうか?

 そもそも、選ばれるはずがない。

 ジョアン兄さまはこのことを知っているのだろうか? 知っていて、アシフォード伯爵を誘い、帰ってくると言うのだろうか。

 そうならば――。


 マリーナの心が痛んだ。

 鉈を振るい、道にはみ出した小枝を払う。同時に、自らの心の靄も払った。

 そうして折角、空も心も広々と晴らしたと言うのに、マリーナの眼前に信じられない光景が広がった。

 清らかであるべきはずの泉の中に、人と馬の姿がある。

 人間の方は上半身裸で、馬を洗っているらしい。こともあろうに、馬を! である。


「な……何をしているの!」


 見慣れぬ若い男が振り向いた。一瞬、マリーナはたじろぐ。

 男は半裸な上に物語の中から出てきたように見目麗しかった。金色の髪に青い瞳。泉の精かもしない。だが、そう思うには儚さが足りない。むしろ、生気がみなぎるというか、艶やかな色香がだだ漏れている。

 田舎の農村ゆえに、夏ともなれば男の上半身の裸くらい見慣れているはずのマリーナだったが、それとは何かが違う。見られるだけで身の危険を感じるような、それなのに、その胸に飛び込んでしまいたいような、そんな半裸だ。

 男の白い肌に、泉の水が伝い落ちた。それを見たマリーナは我に返る。


「何してるの!」


 彼女はもう一度、男を叱責した。


「――私の馬を洗っている」


 突然の怒りの籠った声に、男は固まった。それから、声の主が”そこら辺の小僧”であることを確認すると、分かりきった答えを返した。呑気なような口調だが、声音は甘くて、心を蕩かすようだ。


「それは見れば分かります! 私が言っているのは……!」


 泉の精ではなく、話に聞く淫魔かもしれない。だが、魔物だとすれば、こんな明るい太陽の下、清らかな水に入って無事では済まない気もする。

 と、すれば……マリーナは男をそれとなく観察した。

 男に大人しく体を洗われている葦毛の馬は、こんな田舎ではついぞ見ないような立派な毛並みだった。かつてマリーナの父が乗れもしないのに買ってきた、とんでもない額の馬よりも、ずっと高価そうだ。名馬と言って構わないだろう。盗人ではない限り、その飼い主も相当の毛並みのはずだ。

 泉の精でも淫魔でもなかったとしたら、田舎の、下々の人間の生活など知らなそうな世間知らずのお坊ちゃま。

 マリーナはそう判断した。それで、むやみやたらと怒っても仕方が無いと諦めた。


「ここは近隣の村人たちが飲み水を汲みにくる貴重な水場です。

洗濯や沐浴、あるいは、馬や牛を洗うのならば、せめて、もっと下流の方でお願い出来ませんか?」


 湧水は川となって森を通り、村へと流れている。

 村人たちは、上流の方で水を汲み、その下で野菜を洗う。それから食器、衣服……と、順序良く使っているのだ。森の湧水は一旦、地下に潜って、再び綺麗な水となって現れてはいるが、マリーナはまさにこの泉の水を汲みに来たのだ。馬に罪はないが、水は濁ってしまっている。

 

「あ! そうか君はここに水を汲みに来たのか」


 ようやく己の引き起こした事態に気が付いた男は、少し考えてからマリーナに手を差し出した。

 本能的にマリーナは身を引く。なんだってこの男は、動くたびに色香をまき散らすのだろう。


「貸しなさい」


「へ?」


 男がざぶざぶと水底を撹拌しながら岸に近寄り、戸惑うマリーナから、その手に持つ水桶を取った。それから、またざぶざぶと水面をかき分け、水が湧き出ている場所へと向かう。そうして岩の隙間からこんこんと湧き出す汚れていない水を、直接、桶に受けたのだ。水桶になみなみと溜まると、得意顔で戻ってきた。


「さぁ、これでいいだろう。

ここの水も明日にでもなれば落ち着くだろう」


 マリーナは「はぁ」っと、大きくため息をついた。色気云々よりも、呆れる方が先に立つ。

 それに男は驚いたような顔をする。自分の好意が歓迎されるどころか、その逆のようだ。


「何が気に入らない?」


「何が? そう……まず、あなたは自分の行いについての謝罪をしていない。

次に、水を汲んで下さったのはありがたいと思いますが、こんなに縁までいっぱいでは、運ぶ時に水がこぼれ、服が濡れるばかりです。おまけに、水は重いんですよ。こんなにたくさん運べません。

そして……」


「まだあるのか!?」


「ええ、あと一つだけ言わせて下さい。

明日になれば、清らかな水に戻るとおっしゃいましたがね。私はここに日に三度、水を汲みに来ているんです。

こんなに荒らされてはお昼どころか、午後だって、濁ったままに違いありません」


 若い男は淫魔や悪人というには、無邪気すぎる表情だった。

 そのため、マリーナは見知らぬ人間ではあったが、逃げ出すことはせずに、会話を続けた。男の方は、自分より年も身分も下のような”小僧”に、がみがみと口うるさく説教され、面を食らっているようだ。ただ、あからさまに機嫌を損なう様子はなく、むしろ、マリーナを宥めようと試み始めた。


「そうか、それはすまなかった。

君の体格では、何度も分けて水を運ばないといけないのだね。

家からもっと大きな桶を持ってきなさい。私が馬で運んであげよう」


 男は自身の愛馬を荷馬代わりに使うのは気が進まないようで、苦い顔になった。マリーナも似たような顔になった。


「確かに私は非力ですが、一度に多くの水を汲まないのはそれが理由ではありません」


「? ……では何が?」


「水は腐るんですよ」


 いつでも新鮮な水が、知らぬ間に用意されているような男に言った。


「それは知っている。しかし、一日、二日くらいなら、そこまで酷いことにはならないことも知っている」


 今度はマリーナが言った。「それは知っています」

 艦の上では藻が繁茂した緑色のどろどろした液体を「飲み水」と呼んでいると、父や兄は笑いながら家族に語るのだ。長い航海中に水は腐り、堅く焼いたパンには虫が湧く。だからこそ、キール男爵家では、なによりも「新鮮さ」というものに重きが置かれた。


「ここの水は、特別な”霊水”と言われているものです。私の姉は、この水を飲んでから体調が良くは……ないですが、悪化はしていません。

汲み置きなんかしたら、”霊験”まで蒸発しそうです」


 そんなことはないのだろうが、マリーナは病身のローズマリーに、出来るだけ新鮮な水を飲んで欲しかった。


「なるほど。姉上思いの”弟”だね」

 

 マリーナの言葉に、男は感心してみせ、急いで馬を岸に上げたものの、相当、濁らせてしまった水を見て、さて、どうしたものか、と途方に暮れた。


「私と雖も、今すぐに水を大人しくさせる術はない」


「これから気を付けて下されば結構です」


 マリーナは水桶を持ち上げようとしながら言った。


「許してくれるのか?」


「仕方がないじゃないですか。こうなってしまったら、待つしかありません。

雨が降っても同じことです。昨日の夜は、小雨も降っていたようですから……」


「そのようだ。それで私の馬もぬかるみで汚れてしまったのだ。

昼頃にもう一度、来てくれれば、私がまたあそこまで行って水を汲もう」


「そうしたら、また水が濁ります。今日はもう、ここは使えません。

村の人にも伝えておきます」


 水桶は思った通り重く、半分ほど中身を捨てなければならなそうだった。今日、一日分の水かと思うと惜しい。そのマリーナの躊躇を感じ取ったように、男がまたもや手を出した。


「私が持とう」


 軽々と水桶は持ち上がった。細い体つきだが、それなりに筋肉はついている。ひ弱ではなさそうだし、何よりも淫靡だ。


「あの……いえ……」


「私の責任だ。手伝わせてくれ」


「でも……」


「まだ何か不満か?」


 マリーナは目を伏せた。これ以上、この男を半裸にさせておいては、何か間違いがおきそうだ。


「服を……着てもらってからでいいですか?」


「へ?……あ、ああ……あ!」


 男は納得したものの、何かに気づいて困惑の声を上げた。


「どうしましたか?」


「これ、どうやって着るのかな?」


「はぁ?」


 二人と一頭の頭上を、大きな鳥が鳴き声を上げて旋回した。

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