048:匹夫の勇
翌朝のアルバートはいつも通りの立派な王太子だった。少なくとも、マリーナにはそう見えた。
彼はきっと疲れていたに違いない。少し田舎者の小姓をからかいたかっただけなのだ。しかし、ボタンは返せなかった。
王太子の衣装は日々変わるし、戻ってきたものに不備があれば、衣裳係が繕ったり、予備の装飾品を付け直したりする。もし、洗濯係が無くしたと思われて、罰せられたら申し訳ないと思い、常に差し出せるようにポケットに入れて持ち歩いていたが、そういうこともなかった。
ローレンスに言わせると、そういう間違いがないように、洗濯係は洗う前に、衣装係と共に確認して、ボタンが無くなっていれば、無くなっている旨の書類を提出して、自分たちに過失がないことを証明してもらうそうだ。
ならば拾ったと言って、衣裳係に戻せば良かったのだろうが、マリーナはなぜかそのまま持っていることにした。父親の形見の鯨の歯の彫刻と一緒に紐に付けて、首に掛けた。
見つかったら叱られるかもしれない。
そのドキドキ感で、彼女は違うドキドキ感を紛らわそうとしたのだ。
その甲斐あってか、マリーナもまた、アルバートの前で”ジョン”としての務めを果たせる自信を取り戻した。
再び平穏な生活が戻って来たとはいえ、相変わらず王太子の仕事は激務で、難題は山積みだった。マリーナは彼の予定に従うだけでもヘトヘトになってしまっていた。
何も考えないで身体を動かしているだけなのに、こんなに疲れるのならば、それに加えて、頭も使っているアルバートはどれだけ疲労が蓄積しているのだろうか。もう一度、静養に出た方がよさそうだが、情勢はもう、それを許さない。
「今日の会議は長引くよ。ジョンはついてこなくてもいい。
それよりも、この本を図書室に返して、新しい本を持ってきて欲しい。借りてきて貰いたい本はここに書いてあるからね。
ついでに君の興味のある本も借りてきて、部屋で読んでいなさい。
その方がずっと為になるからね」
その日、アルバートはそうマリーナに言うと、自分一人で、厄介で面倒な会議に出掛けて行った。
アルバートにはマリーナの顔色が悪く見えたのだ。少しでも休ませたいとの配慮だった。
小姓を同行させても何が解決する訳でもないと分かっていても、マリーナは自分が役立たずのような気がした。
「――いけない。そんな風に思うものじゃないわ」
アルバートだけでなく、自分も疲れているのだ。らしくもなく、考え方が後ろ向きだ。
今日は一日、身体だけは休められるようなのだから、せめて頭だけでも使おう。出来るだけアルバートの役に立つような知識を得よう。
マリーナが勇んで図書室に行こうとすると、ロバートがやって来た。小姓だけでなく、乳兄弟の近侍すら、王太子は連れて行かなかったようだ。
ならば、自分に何か不満があった訳でないのだとマリーナはさらに気持ちを持ち直す。
「ロバートさま、こんにちは」
「ジョン。どこに行く?」
これこれこういう理由で、図書室まで、と言うと、ロバートは感心して見せた。
「お前はよくやっているな」
「ありがとうございます」
重い本を抱えながら、マリーナは答えた。
「ところで?」
らしくもなく、ロバートが言いよどむ。正直、アルバートの本が重いので、用があるのなら、早くして欲しい。「なんでしょうか? ロバートさま」
「お前は王妃さまのことをどう思う?」
「はい?」
「以前、王妃さまにお会いになっただろう? どう思った?」
その質問は、マリーナにあの日の夜のことを思い出せた。『正直に言ってごらん? 我が母上は、君にはどう見えた?』
耳に甘く囁かれるアルバートの声。
折角、気を紛らわせていたのに、もういけない。思わず顔が赤くなって、大事な本を落としてしまった。
「申し訳ありません」
「――いいや、謝ることはない」
なぜかロバートは感極まったような声を出した。
何か変? マリーナが顔を上げると、ロバートは逆にしゃがみこみ、彼女の手を取った。
「王妃さまは大変に美しいお方だ。お前のような田舎者には眩しいくらいだろう。女神か仙女のように見えたのだろう」
「は……はい。とても魅力的な方で……私」
冷静に母親評を受け取ったアルバートとは違って、ロバートはうんうんと手放しで頷いた。
「王妃さまは国の母であるから、確かに気軽に懸想するものではない。
その点、お前の態度は非常に慎ましくて良いぞ」
「ありがとうございます」
「悪い噂を聞くかもしれないが、それは王妃さまの素晴らしさに嫉妬した邪悪な人間どもの仕業だ。
”騎士”とは”王妃”を敬愛し、忠誠を尽くすものだ。お前は、その精神がしっかりと身についている。
これからも私と一緒に、王妃さまを守って行こう!」
なんの話かよく分からなかったが、ロバートはマリーナが落とした本を拾い、それを図書室まで運んでくれた。
もう一度、礼を述べると、「いや、同士よ。お前は本当にいい奴だ。さすが我が殿下が見出しただけある」と握手までされてしまった。
***
王宮の図書室はローズマリーが見たら、きっと卒倒するに違いないだろうくらいに、古今東西の様々な書物が納められていた。
その膨大な本の中からアルバートの望む本を探し出す。そして自分の本だ。
結局、趣味に走ってしまったマリーナは有名な海軍提督の航海日誌と、天文学の本を取った。ずっと読みたかった恋愛ものの本も見つけたが、表紙を眺めただけで戻した。”ジョン”が選ぶ本ではない。
「これ、お借りします」
来た時よりも重いが、なんとかなるだろう。
図書室から出ようとすると、大きな影がそれを塞いだ。ロバートだ。
また手伝ってくれるのかと淡い期待を抱いたものの、彼は興奮した様子でマリーナから本を奪うと、そのまま司書の机に置いた。
「これをアルバート殿下の部屋へ。
さぁ、行くぞ、ジョン」
「どこにですか?」
「聞いて驚くな、恐れ多くも、王妃陛下がお前に目通りを許したのだ。
これからすぐに参上するように仰せつかった」
「ええ?」
マリーナは王宮に来て初めて、王妃の居住空間に足を踏み入れた。そこには薔薇が咲き乱れる美しい庭園があった。四季咲きの秋の薔薇だ。庭師が丹精込めて手入れをしているのが分かる、見事な薔薇だった。
「素晴らしいだろう。王妃さまのご威光の賜物だ」
ロバートはそう表現した。
王妃の権勢を表したような薔薇園には、人間の姿をした薔薇も咲き乱れていた。ほとんどが赤い。彼女たちはきゃあきゃあと声を上げる。
「王妃さま主催の茶会が開かれている」
迂闊にも、そこで初めて、マリーナはしまったと思った。
彼女は王妃を知らずに侮ってしまっていたのだ。アルバートは会議に行く前に「何か困ったことがあったら、”至急の用事です”と言って構わない。どんな些細なことでも、必ず相談にくるように」と言い含めていた。だが、マリーナはそれをしなかった。遠慮したのではない。王妃に呼ばれたことをそれほど重大なことと受け取れなかったからだ。それは以前、王妃に会った時、彼女が三公爵夫人という強い刺を持つ青、もしくは紫、あるいはピンクの薔薇に守られていたせいもあった。しかし今、この場には深紅の薔薇しか咲いていない。
その薔薇の園の中では、王妃の持つ、もう一つの性質を防ぐものはなかった。その邪悪さを、その残酷さを、マリーナは身を持って知ることになった。




