047:鎮守の沼にも、蛇は棲む
壁を隔てて二人の若い男女が、それぞれの思いで悶々としている時同じくして、王宮内の別の部屋には三人の男女がいた。
一人は寝着を着て椅子に座った女性で、その前に若い男が跪いている。その斜め後方にも、もう一人の女性。
「嫌な噂を聞いたわ……」
艶っぽい唇から、それに相応しい声音が漏れる。
「お可哀想に! また王妃さまを煩わせるような噂を流すなんて。
きっとニミル公爵夫人か、チェレグド公爵夫人の仕業に決まっています!」
後方に控えている女性が大袈裟なまでに憤ってみせた。
「――ありがとう。
あなたはいつも優しいわね。ハンナ」
「ああ、ありがたき幸せです」
「どのような噂なのですか」
頭を垂れたまま、男が聞いた。彼は顔を上げられなかった。
目の前の女性……王妃が寝着であったからだ。
お洒落に疎い人間は、彼女の昼のドレスも寝間着のようだと揶揄するが、着ている本人にすれば、全く違うという。昼のドレスは絹地に金糸や銀糸で華やかな刺繍がしてあるし、素晴らしいレースも惜しげもなく使っている。それに比べれば、寝着など、いくら上質な絹地を使おうが、たかがしれているのである。
しかしその分、身体の線がより一層、強調され、艶めかしい。
「アルバートが男色かもしれないって」
「そのようなこと!」
「でも、最近、若い男の子を大層、可愛がっているそうじゃないの?
どいういう子なの? ロバート、あなた知っているでしょう?」
アルバートの乳兄弟であるロバートは、顔を真っ赤にしながら王妃に向かった答えた。
「ジョンという少年です。今日のお茶会も出ておりました」
「そうなの? 見えなかったけど」
ストークナー公爵夫人をまともに見ることが出来ない王妃は、その隣に居たマリーナまで目に入らなかった。
アルバートはそれに気付き、マリーナをストークナー公爵夫人に預け、自身は離れたことを、ロバートは知らない。
「王妃さまが目を留めるほどの者ではないからです。
殿下が静養に行った先で気に入ったようで……しかし、そのような不埒な関係ではありえません。
ジョンは田舎者で、未だ礼儀作法を心得ていない面もありますが、その分、王太子殿下には真摯に仕えています」
「静養先……というと、あの?」
王妃の愁眉が顰められた。
アルバートがアシフォード伯爵のふりをして、『暁城』に滞在していたことを、王妃はロバートから聞かされていた。
「はい。
キール艦長の遠縁……と聞き及んでいますが……詳しくは」
「嫌だわ。そんな得体の知れない子を、あの子の側に置くなんて。
誰が許したの?」
「それは……殿下のご意向です。人事院も特に反対はしませんでした」
「そのせいで、アルバートに変な噂が立ったのよ」
ぎりぃっと、王妃は爪を噛んだ。ロバートの母親、ハンナが呼応する。
「王妃さまを困らせようとしている連中に違いありませんわ!」
「母上は黙っていて下さい!」
ロバートは後ろを向いて怒った。この母親は王妃に同情しているようで、いつも王妃を追いつめているようにしか思えなかった。
「王妃さま、殿下はそのような性癖はありません。
お優しい方ですから、行き場のなくなった少年に手を差し伸べただけです。あ……あの……」
少年が路頭に迷った原因、『夕凪邸』の消失は王妃の仕業だと、ロバートは知っていた。
マリーナ・キールという邪悪な女を王太子に近づけない為の必要な措置だった。
「そうねぇ、あの子は優しい子。
だから心配なのよ。誰かに騙されたりしたら大変。
特にチェレグド公はあの子に近づいて、言いなりにしようとしているに決まっているわ」
「そのようなこと、この私が許しません!」
力強いロバートの言葉に、王妃は妖艶に微笑んだ。
微笑まれた男は、口を半開きのまま、王妃を凝視した。
「私の味方は少ないの。みんな私に嫉妬して意地悪をするのよ。
だから、あなたたち親子はとても大事な存在」
ふふふ、と王妃は笑い、それから、室内履きをするりと脱いだ。
この国では、夜会のドレスの胸元は大きく開いても一向に構わないが、足元となると、途端に厳重になる。若い娘は決して足首より上は見せないものなのだ。だから見える胸元よりも、見えない足首の方が、世の男たちの興味をそそった。
その不可侵の足を、王妃は若い男であるロバートに晒した。
「これからも私を守ってね……」
「ああ……王妃さま……このロバート、命に代えても……」
ロバートは膝をついたままにじり寄り、両手も床に付け、大きな図体を出来るだけ屈め、犬の様な姿勢で王妃の足に、陶然とした表情で口づけをした。
息子のその姿を、ハンナは後ろから、無表情で見つめていた。
***
「いけない方ですね。息子と同じ年の男を弄ぶなんて……」
ハンナとロバートが居なくなった部屋に、もう一人、男の姿が現れた。
黒い髪、黒い瞳。黒い服は、襟が立っており、全体に一部の隙もなく、堅苦しいものだった。年の頃は四十代だろうか。顔立ちは怜悧だったが、喉が渇く夏場に氷が供されれば、美味しそうに見えるように、それにはある種の逆らい難い魅力があった。
「え? でも、あなたがそうしろって……」
王妃は男の言葉に先ほどまでの自身満々な様子とは打って変わって、気弱な表情を見せた。美しく整えられた指先が震えている。
「はい。お見事でした。
褒めているのです。誠に見事でした。
王妃さまは実に妖艶で美しい方ですね」
男はうっすらと口の端で笑う。しかし、その顔を、俯いた王妃は見ることが出来なかった。
「な、ならいいわ――ロバートに嫌われたら困るもの。あの子は、私のことを崇拝してくれるのよ。
それにハンナも……」
そこまで言ったところで王妃は言葉を失った。男が彼女を抱きしめたからだ。
「私よりも、あの若い男がお好きですか?」
相変わらず王妃には男の顔は見えない。もし見えていたら、台詞の熱っぽさとは全く逆方向の冷めたものと知っただろう。王妃は細い腕とか細い声で男を押しやろうとする。
「陛下に見られたら……」
「陛下? ……王ならここにはいないのでしょう?
この所、王太后のいる『花宮』にずっとご滞在とか。なんでも王太后が用意した中で、気に入った子がいるそうですね。
”花麗国”の亡命貴族の娘と聞いています。伯爵家の……若くて、綺麗な女の子……」
王妃の手から抵抗の意思がなくなった。それを良いことに、男はもう一度、王妃をしっかり抱き直し、耳元で囁いた。それはあたかも毒を注入する蛇のようだ。
「可哀想に。親の生活の為に、男に身を委ねなければならないなんて。まさに亡命貴族の悲哀ですね。
もっとも、相手が街の破落戸どもではなく、国王というのは彼女にとっては救いかもしれません。
第二王子が産まれれば、一気に地位を逆転出来る駒が手に入ります。
あなたには、困ったことになりますがね。王子を王位に近づけるには、母親が王妃の立場を手に入れなければなりませんからね」
「そ、そんなこと! 許さないわ!
私から陛下を奪おうなんて……!
も、もしそうなったら……”また”私を助けてくれる?」
怯える王妃は、男にすがりついた。
「ええ、いいですよ。
ですがその代わり……例の件、なんとかしていただけませんか?」
男は身から王妃を離すと、その手を取り、口づけをした。そのまま男に強い視線で見つめられた王妃は、怯えたように震える。
「あの話? それは……ちょっと難しいの。チェレグド公の監視が厳しくて……で、でも、やってみるわ! あなたが、そう望むなら」
「いいえ、ロザリンドさま。
私が望んだのではありません。それはあなたが、望んでいることですよ。
それをお間違えの無いように」
戸惑った女の顔に、男は優しくも冷たく笑いかけた。
「”私の望み”は”あなたの願い”を叶えることです。そういう意味ですよ」
「まぁ……」
その甘言に王妃は安堵の表情を浮かべ、この男にも”足”を許すべきかと考えた。
そんな彼女を、烏のように黒尽くめの男は内心、一笑に付す。
「ではこれにて。良いご報告を楽しみにしていますよ」
王がいようと、いまいと、男は長居をする気はなかった。そのまま王妃の部屋に通じる、使用人用の通路を抜ける。
***
「今日も助かったよ」
男を王妃の部屋に引きいれた女が、今度は彼を安全な場所まで導く。
「あなたのお役に立てれば、どんなことでも」
「ありがたいが、無茶はしないでおくれ。
私は君の身が心配だ」
男の口からは、心にも思ってない台詞がすらすらと出てくるが、女は一向に気がつかない様子で、王妃と同じようにうっとりと頬を染める。それから、男により気に入られようと媚を売る。
「ご心配なく。私は王妃さまよりご信頼を得ておりますから。
ええ、あの王妃さま。男爵家の出身のくせに、私の息子を犬のように扱う女。
あの女を床に這いつくばせる日が来るのなら、どんなことでもしますわ」
女の燃えるような憎しみの瞳に、黒尽くめの男の心は満たされる。
「君の息子さんはよく出来た子だ。
王太子にとても信頼されているようだね」
「そうなの。
私の息子は素晴らしい子なのよ」
「王妃に王太子の様子を教えに来てくれて、私も助かっている。
君の息子のおかげで、君の願いももうすぐ叶うよ。ハンナ――」
「ええ、嬉しいわ」
息子を褒められながら、男に抱き寄せられた王妃付きの女官長にして、王太子の乳母であるハンナは、母親と女、二つの喜びに身を震わせた。
「全てが終わったら、私と一緒に、私の国に来てくれるよね?」
「も、勿論ですわ! あの……息子も一緒に、構いませんか?」
母親と違い、息子は王妃に真剣に懸想している。母親の企みを知ったら、どんな振る舞いをするだろうか。
息子がどんな手駒を演じる為に動かされていると知ったら、どんな顔をするだろうか。
それを想像するだけで、男は楽しくて仕方がない。
しかし、今はそれを気取られぬように、いかにも母親の情愛に感じ入ったような笑みを浮かべる。
「それこそ、勿論ですよ」
それから、これでもう用は済んだとばかりに、夜の闇に溶けて行った。




