045:焼き餅焼くとも手を焼くな
午前の大臣会合、午後のお茶会と乗馬、つづく夕食で、へとへとだと言うのに、今日に限って王太子に手が掛かるって、どういうこと?
マリーナは寝室でアルバートと相対しながら、ぐったりした気分になった。
兵舎から戻ってからというもの、アルバートはマリーナにやたらと用事を言いつけた。
やれ、お茶が飲みたい。
もう二杯も飲んでいるのに?
やれ、部屋が寒い。
さっきは暑すぎるからと、暖炉の火を消したのに?
やれ、ベルトカーン語の辞書が無い。
そこにあるのはなんですか?
などなど。
極めつけは、寝る直前に「着替えさせてくれ」である。
これまで散々、『一人で出来る』と言い張っていたのに。
とは言え、命じられたことはこなさなければならない。マリーナはそのために、侍っているのだから。
しかし、仕事とはいえ、男の服を脱がすなんて、初めてだ。手が震える。
「あれ?」
「どうした? ジョン。
ボタンの外し方が分からないのか?」
得意気な様子のアルバートこそ、マリーナの疑問だった。
「初めて会った時から気になっていたのですが……」
「え!? 本当に?」
「はい。
お聞きしてもよろしいですか?」
「勿論だよ」
許可をもらったので、忌憚なく疑問をぶつける。
「なぜ殿下は着るのはへた……苦手ですのに、脱ぐことは出来るんですか?」
「へっ? そっち!?」
アルバートは拍子抜けしたようだ。そして、少し不機嫌になった。
「脱ぐのは練習させられた。十五歳になった時に」
言ってから、彼は固まり、その後、頬を染めた。
「正確に言うと――脱ぐ練習ではなく、脱がせる練習だ」
「?」
王太子なのに、誰かの服を脱がせることなんてあるのだろうか?
意味が分かっていない彼女に、アルバートも目が泳いだ。普段の彼なら、ここで引いただろうが、今日はちょっと攻めたい気分だった。
彼はマリーナを独占したかったのだ。それで、ついつい我儘を言ってしまっていた。その極致が、今の事態である。
「ジョンも覚えておかないと。
たとえば……」
「?」
「コルセットの外し方とか?」
「へっ? そっち!?」
ようやく気づいたマリーナは羞恥と共に、王太子に向かって無礼な口をきいた。
それから思わず身を引いてしまった。
「どうしたの?」
「い…いえ……最悪、コルセットは必ずしも外さなくてもいいのではないですか?
だって、付け直す大変じゃないですか」
自分は男なのだから、猥談の一つや二つに付き合うべきだろう。さっきの兵舎でも、マリーナ比で言えば、聞くに堪えがたい下品な会話が行われていた。男というものは、男同士となると、そういう話になるようだ。
もっとも、アルバートも同じだと思うと、ガッカリもしてくるのだが。
そんなマリーナに余裕などあるわけもなく、必死の形相で噛みつくような言い方になる。
対して、アルバートが面白そうに笑いかけるものだから、手が震える。
「ジョンは誰かのコルセットを付け直したこと、あるの?」
「ありますよ」
それは自信を持って言えた。マリーナはミリアムのコルセットを締めたことは、何度もあった。
「マリーナ・キール嬢の?」
「へぇ? あ、そうです。そうですね、きっと」
「会ってみたいな」
やけにしつこい王太子の心情を、マリーナは汲み取れない。もうとっとと、脱がせて、着せて、寝かしつけよう。
「お会いになりたければ、お召し出し下さい。
殿下のご命令に逆らうものなどおりません」
実際に呼ばれたらどうしようか、と思いながらも、この場合、そう言うしかない。一回くらいなら仮病も使えるだろう。チェレグド公爵邸には毎日のようにローズマリーのための医者が呼ばれていた。世間的には誰のため、とは公にしてはいなかったが、引き取った姪の体調が悪いのだと思われているに違いない。
けれどもマリーナの安易な策略は、アルバートには懐疑的な受け取られ方をした。
「――本当にそうかな?」
「そうです!」
焦燥のあまり、力加減を間違えて、ボタンを引きちぎってしまった。
「も……申し訳ありません。付け直しますので……」
慌てて床に落ちたボタンを拾い上げたマリーナの手に、アルバートのそれが重なった。
何? 今日はなんなの?
「私は王妃に会いたいという君の願いを叶えたよ。
で、どうだった?」
手を取られたまま、立ち上がらせられた。
思わず俯くマリーナの顔を、アルバートが顎に手を掛けて、上を向かせる。
王妃よりも、王太子の方が危険人物に見える。
「正直に言ってごらん?
我が母上は、君にはどう見えた?」
マリーナの喉元に悲鳴がせり上がって来た。もう、叫んで、この男を突き飛ばして、逃げ出したい。踏みとどまるために、必死になって心の守護艦の点呼を始める。昼間にチェレグド公爵に会っていたこともあり、大分、気持ちが落ち着いてくる。陸軍の近衛も海兵隊代わりに乗せよう。
なのに、アルバートはそんな彼女をあざ笑うように顔を近づけてくる。
「私の質問についてちゃんと考えている? それとも余所事が気になるのかい?」
「いいえ。とても混乱しています」
それは嘘偽りのない感想だ。
「混乱?」
「そうです。王妃さまは大変、魅力的な方ですね」
アルバートが固まった。意表をつかれたようだ。
「おべっかは必要ないよ」
「いいえ、正直な気持ちです。
王妃さまはとても大きな子どもがいるとは思えないほど、若くてお綺麗で……蠱惑的な方でした」
その姿を思い浮かべる。目の前の青年とよく似ている。危険なまでの魅力。
「さすが殿下のお母上です」
「――それをどう受け取っていいのか、私が混乱しているよ」
「雰囲気が似ているのは当たり前です。親子ですから。でも、内面は……まだよく分かりません。
だって、話も出来なかった」
「話までしたかったのかい?」
王太子付きの小姓が、王妃と直接やりとり出来るはずがない。
三公爵夫人と親しく接したこともあって、マリーナは王妃とも言葉を交わせるものだと勘違いしてしまった。ついでに言えば、自分が”男”なのも思い出す。
アルバートの魅力に、異性として惑わされている。まるで強い酒でも飲まされ、酔っぱらっているような感覚だ。
もう一度、守護艦の総員を招集しようとしたが、こちらも酔っぱらっているようで、いくら呼んでも集まって来てくれない。
そうこうしている内に、アルバートの魅惑の微笑が、マリーナの心の中に侵入し、占拠しようとしてくる。
ついにマリーナは物理的にアルバートを押しやってしまった。無礼だが他に成す術がない。
「ジョン」
「そうです。私はジョンです。
殿下、私のような一介の、田舎から出てきた”若造”が王妃さまに近づこうなど、思い上がったことでした。
さらに言えば、殿下にも不用意に近づきすぎました。
ご無礼を、お許し下さい。今後、一切、このような非礼がなきよう、努力しますので」
「――そうくるか」
「え?」
アルバートが小さな声で言ったので、マリーナは聞き返したが、二度目はなかった。
「もういいよ。
服は自分で着替えるから。
ジョンも休むと良い。
今日は疲れただろう? 我儘を言ってすまなかったね」
「はい、そうですね……し、失礼します!!」
マリーナは脱兎の如く、逃げ出した。
***
「あ、ボタン……持ってきちゃった」
アルバートの服から落ちたボタンをずっと握りしめていたようだ。
手の中にはマリーナの汗とぬくもりを宿した鯨の歯で出来た小さなボタンがあった。
今更、返しに行くのは気まずいので、明日の朝になんとかしようと考えた。
「いやー、恥ずかしい! 何、あの王太子!」
マリーナは隣室に聞こえないように小さく叫ぶと、寝台の上に突っ伏した。
胸の鼓動が、激しく打ち付け、とても眠れる気分にはならなかったが、しばらくすると、一日の疲れがどっと出て、眠りの海に引きずり込まれた。




